本校は、中等部の新入生が5人しかいない時期もあるなど、経営が思わしくありませんでした。そんなとき、80歳を超える卒業生から言われた言葉が、いまも忘れられません。
「卒業後、子育て、戦争、舅の介護と日々の生活に追われ、初めて同窓会に出られたときは涙が出た。戦争で家が焼け、親兄弟もすでにこの世にいない。私の故郷はここしかない。どうか母校を守ってほしい」
――このままでは卒業生の母校がなくなってしまう。
その危機感が、私の原点になりました。
学校は、卒業生にとっての故郷です。卒業生の母校を守りたい。その一心で学校改革を始めた結果、7年後には志願者がのべ1800人近くになりました。
『働き女子が輝くために28歳までに身につけたいこと』を上梓したばかりの漆さんに、より具体的に「奇跡の改革」の中身を教えていただいた。
後悔のない決断はない
当時、私は別の私立中高一貫校に勤めていました。両親は曾祖母が創立した学校の経営に携わっており、私は小さいころから、私立学校の「教育」と「経営」とを両立させる大変さを間近でみていました。その両親の子どもとして、自分も多くのことを我慢してきたため、将来、学校経営にだけは携わりたくないと思っていたのです。
一方で、「自分の子どもは後回しにしてでも、生徒を大切にする」という両親の教員としての背中を見て育ったので、その仕事に誇りとあこがれをもっていました。
「教員になりたい」と最初に自覚したのは、4歳の保育園児のときです。
進路で悩んだ時期もありましたが、やはり教員を一生の仕事にしようと決め、他校に就職しました。私の未熟さから生徒に反抗されたり、ミスをして周りに迷惑をかけたりと、新任教員としていろいろな壁にぶつかりながらも、あっという間の3年間。
先輩や生徒に恵まれてようやく仕事に慣れ、担任をもたせてもらい、これは私の天職だと思えるほど毎日が充実していました。
そんなある日、上司に呼ばれ、次のように言われたのです。
「あなたの実家の学校が、廃校危機校のリストに入って大変なことになっているよ」と。その表の5校目くらいに、少子化になって廃校になる恐れのある学校として、「品川」という文字が見えたのです。何も知らなかったことで、衝撃を受けました。
座して死を待つよりは
両親にその話題を出すべきか悩みながら実家に戻ると、家が重苦しい雰囲気になっており、母から、もう一つの大きな出来事を伝えられたのです。
「私、がんになっちゃった。余命半年なんだって」
よく私をからかう人だったので、にわかには信じられず、いつもの冗談であってほしいと願いました。
学校の経営危機と、母親の命の問題を前に、校長だった父から学校改革の決意を聞かされました。「座して死を待つよりは……」という言葉が今も耳に残っています。