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日本人が大好きな「ハーバード式・シリコンバレー式教育」の歪みと闇

日本では、まったく参考になりません
ハーバード大学に留学した日本人が語る米国教育論は参考になるのか? シリコンバレーで働いたりカリフォルニアに留学したりした日本人が語る米国教育論は何を見落としているか? 世界銀行や国連児童基金を経て米国の大学で教育政策などを研究する畠山勝太氏が、それぞれの教育論の妥当性を問う。

「ハーバードで見た」の妥当性

ハーバード大学やシリコンバレーで見た、という個々人の体験や海外視察に基づく教育政策提言がなされるのをしばしば目にすることがある。

例えば、文部科学省のヒアリングなどでも、シリコンバレーのあるカリフォルニア州・ロサンゼルスで体験した教育に基づく教育政策提言がおこなわれている(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1301456.htm)。

しかし、このような提言というのは、日本の教育政策に対して妥当性を持つのであろうか?

通商政策や金融政策などと異なり、教育政策の分野では、決して普遍的とは言えない特定個人の体験に基づく教育政策提言がなされやすい傾向がある。

なぜなら、この世界では依然として6000万人以上の子供が小学校に行けていないので全ての人とは言わないが、教育はほぼ全ての人が経験するものであるため、本来政策分析に必要な知識やデータ分析などのスキルを持ち合わせていなくても、みなが一家言を持てるためである。

そして、理論的・実証的な裏付けが無くても、ハーバード大学やシリコンバレーというネームバリューが、このような政策提言にもっともらしさを持たせる。

〔PHOTO〕iStock

博士レベルの専門性を持った教育政策の専門家が習得すべき知識やスキルは、教育経済学や教育の政治学など多岐に渡るが、その一つに国際比較教育学が含まれる。

なぜ国際比較教育学が必須なのかというと、ある国や地域で行われている素晴らしいとされる教育システムから学び、自国の教育改善のためにそれを取り入れようとする際に、その教育システムを取り巻く文脈を吟味して、自国に導入した際にそれが機能するのかどうか判断する能力が、教育政策の専門家には必要だからである。

そこで今回は、国際比較教育学的に米国の教育システムを取り巻く文脈と日米の教育を取り巻く文脈の違い、の2点に着目することで、「ハーバード大学やシリコンバレーで見た」という教育政策提言の妥当性についてお話する。

 

州の間の驚くべき「教育格差」

米国の教育システムはその成り立ちからして極度に分権化されていた。

なぜなら、学校は地域住民の要望に応え、地域共同体を守っていくことがその使命だと考えられていたためである。このような考え方の下では、州政府や連邦政府の教育への介入は、極端にいえば教育の自由を侵害するものとなる。

しかし、教育政策においては分権化と集権化の間に自由と平等のトレードオフが存在する。

分権化されたシステムは前述の通り、地域住民の要望を集約し教育活動に反映させる機能も権限も住民の近くに存在するため、住民が子供たちに受けさせたい教育が容易に実現されやすい。

その一方で、分権化された民主主義的に運営されている教育システムの下では、地域内に存在するマイノリティの教育需要(例えば、多言語教育や障害児教育、有色人種のための教育などが当てはまる)が黙殺されやすいだけでなく、地域間に存在する経済的な格差も教育システムにそのまま反映されてしまう。

このようなマイノリティや格差の教育問題を是正できるのは集権化された教育システムである。実際に、近年の米国でも教育を通じて社会経済的格差や人種間の格差を是正する必要性が認識され、教育の集権化が少しずつ進んでいる。

この結果、かつては10万以上存在していた学区の数も、2013年現在で13500程度まで減少したものの、それでもなお州政府や連邦政府では、これだけの数の学区の一つひとつで住民の要望を取りまとめて反映させることは不可能であり、教育の自由が侵害されるとして集権化に反対する声も根強く存在している。

このように米国の教育は依然として極めて分権化されたシステムであるため、州の間での教育格差も、州ごとの経済力が反映され、極めて大きなものとなっている。

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