(これまで3回に分けて記してきたものをまとめたもの)
時代を超えて歌い継ぎたい歌があれば、音楽を通じて語り継ぎたい歴史もある。私が寒くなると聞きたくなるのが五輪真弓の「恋人よ」。五輪はフランスでフランス人を前に歌っていた時に「(自分は)日本人だ」と痛感したという。1978年に「さよならだけは言わないで」がヒットし、ポップス歌手に転向する。1980年5月木田高介が突然の交通事故で亡くなる。その告別式から帰った五輪真弓は「恋人よ」を書き下ろした。「恋人よ」は当初レコードのB面になる予定で、編曲の船山基紀は「恋人よ」がスケールの大きなバラードとして48秒もある長いイントロをつけた。長いイントロにもかかわらず、年末の日本レコード大賞にノミネートされる。そのイントロはスメタナの「モルダウ」のイントロ(少しずつ流れ出る川のせせらぎが表現されている)によく似ている。
「恋人よ」のイントロは「モルダウ」のイントロに似ているだけだが、「モルダウ」の主旋律そのものに似ているのがイスラエル国歌の「Hatikvah(ハティクヴァ)」。聞き比べれば、誰もが納得する。
「モルダウ」の主題はスメタナの作曲したものではなく、チェコの有名な童謡を変形したものと考えられている。この曲は日本で童謡「こぎつね」として親しまれるドイツ民謡やイスラエル国歌など欧州各地の歌と類似性があり、ルーツが共通している。なぜなのか調べてみると、二つの楽曲の源は16世紀のイタリアの歌曲「ラ・マントヴァ―ナ(La Mantovana)」まで遡ることができる。
(YouTube La Mantovana https://www.youtube.com/watch?v=MhgOB9Df2RI)
「La Mantovana」は、16世紀イタリアのテノール歌手ジュゼッペ・チェンチ(Giuseppe Cenci)が作曲した楽曲。「La Mantovana」は1600年に刊行されたイタリアのマドリガーレ(マドリガル)集にも掲載されている。イタリア歌曲がルーツのメロディはその後ルネッサンス期のヨーロッパ中に広まった。そして、各地で独自の歌詞がつけられ、ポーランド系では「Pod Krakowem」、ウクライナ系では「Kateryna Kucheryava」、ルーマニアでは「Carul cu boi」、スコットランドでは「My mistress is prettie」など、様々に歌われ定着していった。ヨーロッパ中に広く伝播した「La Mantovana」のメロディはヴルタヴァ川が流れるチェコにも広まり、チェコ民謡「Kocka leze dirou(穴から猫が)」として定着した。スメタナは1824年、当時オーストリア帝国の一部だったボヘミア南東部の街で、音楽好きの父がいる家庭に生まれた。42歳のときにオペラ「売られた花嫁」が大成功し、代表作となる。50歳を過ぎたころから耳の病気に苦しみ、最終的には失聴したことで精神的にも不安定になってしまうが、この困難な時期に代表作である交響詩「我が祖国(1874-79)」を生み出す。「ヴルタヴァ(モルダウ)」はホ短調の13分ほどの曲。冒頭では2つの水源のイメージをフルートとクラリネットがそれぞれ奏で、水が集まって川になっていく流れを弦楽器が加わり表現している。やがて流れは急流にさしかかり、岩にぶつかって激しい水しぶきをあげる。それを過ぎるとゆるやかになってプラハ市内に入り、歴史的なヴィシュフラード城を過ぎ、ドイツのエルベ川へと流れていく。そんな情景が表現されている。
「モルダウ」の主題の原曲については様々な説がある。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第2楽章やカザルスが母国スペインのカタルニア民謡から作ったとされる「鳥の歌」が似たメロディをもっているが、やはり前述の16世紀イタリアの歌曲「ラ・マントヴァーナ」が原曲だろう。
さて、「ハティクヴァ(ヘブライ語: התקווה, Hatikvah、希望)」はイスラエルの国歌。メロディはモルダヴィア民謡「Cucuruz cu frunza-n sus」を基に、サミュエル・コーエンが編曲し、更に1897年に作曲家パウル・ベン=ハイムによって管弦楽曲に編曲された。サミュエル・コーエンはルーマニアやウクライナに隣接する現在のモルドヴァ共和国生まれ。1878年にパレスチナへ両親と一緒に移住したユダヤ系の音楽家である。コーエンの生まれたモルドヴァ地方にも「La Mantovana」の旋律が伝わっていて、彼は同曲や他のモルダヴィア民謡、ルーマニア民謡「Carul cu boi」など複数の曲からインスピレーションを得て、現在のイスラエル国歌のメロディを編曲したという。
ユダヤ系の詩人ナフタリ・ヘルツ・インベル(Naftali Herz Imber/1856-1909)によって1877年に書かれた詩「Tikvateinu(我らの希望)」をこの曲につけ、1897年に第1回シオニズム会議における賛歌「Hatikvah(ハティクヴァ)」として採用された。イスラエルが独立した1948年にイスラエル国歌として非公式に採用され、2004年に議会の承認を経て、晴れて公式のイスラエル国歌となった。
16世紀のイタリアの「La Mantovana」が歌は世につれ世は歌につれで、ヨーロッパに広がり、各地で民謡となり、19世紀には「モルダウ」に、20世紀にはイスラエル国歌となり、おまけのようだが、「モルダウ」は「恋人よ」にも繋がっている。それらに共通している通奏低音は切ないメロディだと私は勝手に思っている。
フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』(Aimez-vous Brahms?、1959、朝吹登水子訳、「世界文学全集」新潮社、1960年、河野万里子訳、新潮文庫、2024年)のあらすじは次の通り。パリに暮らすインテリアデザイナーのポール(女性の名前)は離婚歴があり、39歳。恋人の建築家ロジェを愛しているが、移り気な彼との関係にずっと孤独を感じていた。そして、そんな彼女が出会ったのが美貌の若者シモン。ポールに一目惚れしたシモンは14歳年上の彼女に夢中になり、一途な愛を捧げる。サガンは二人の男の間で揺れる大人の女の感情を繊細に描いていく。
この小説はサガンがデビュー作『悲しみよこんにちは』(Bonjour Tristesse)から5年後の23歳の時に書いた作品で、題名の中の「ブラームス」は作曲家のヨハネス・ブラームスのこと。「ブラームスはお好き」というタイトルはシモンがプレイエル・ホールでのコンサートにポールを誘う手紙の中で「ブラームスはお好きですか?」と書いた一文から取られている。1961年に「さよならをもう一度(Goodbye Again)」というタイトルで映画化されている。そして、映画の主題曲としてブラームスの交響曲第3番の第3楽章が編曲され、巧みに使用されている。確かに1961年では、パリでも39歳の女性と25歳の男性の恋愛はスキャンダラスだったが、今では24歳の年齢差があるフランス大統領マクロン夫妻を誰もスキャンダラスとは言わないだろう。それより、この作品は主演のイングリッド・バーグマンは監督のロベルト・ロッセリーニと不倫関係になった後、ハリウッドに復帰してからの作品だった。
原作には次のようなくだりがある。「ポールはプレイヤーの蓋をあけ、レコードをさがし、全曲をそらんじているワーグナーの序曲の裏に、一度も聴いたことのないブラームスのコンチェルトを見つけた。ロジェはワーグナーが好きだった(Elle ouvrit son pick-up, fouilla parmi ses disques et retrouva au dos d’une ouverture de Wagner qu’elle connaissait par coeur un concerto de Brahms qu’elle n’avait jamais écouté. Roger aimait Wagner.)。」ワーグナーと犬猿の仲と言われたブラームスが同じレコードに入っているというのも不思議なのだが、確かに原文にはconcertoと書かれている。小説の「ブラームスはお好き」はシモンがポールをコンサート(concert)に誘う文句だが、ブラームスのconcertoは協奏曲(英語とフランス語は演奏会(concert)と協奏曲(concerto)で、綴りも発音も違うので区別できるのだが、イタリア語はいずれもconcerto、スペイン語もいずれもconcierto)のこと。私の全くの推測だが、ブラームスの協奏曲はヴァイオリンとピアノの協奏曲があり、二人が行った演奏会の演目はピアノ協奏曲第1番ではないのだろうか。
ロジェとの自由に、互いに束縛されない関係を続けている39歳のポールだが、ロジェが泊まらずに帰る夜などに感じるのは深い孤独。そんな日常にふと割り込むように現れたのが、14歳年下の青年シモン。そのシモンからの誘いが冒頭の引用だが、思わぬ展開にたじろぎながらも、単純に喜びを隠せないさまが描かれている。
ブラームスの演奏会に誘うシモンをブラームスに擬えてみると、ポーラがクララ・シューマンに思われてくる。ロジェはワーグナーで、シモンはブラームスと捉えれば、彼らの関係がわかりやすくなる。今は年末でベートーヴェンの第9があちこちで流れている。とても男性的で、それは合唱で極みに達し、歓喜のうちに終わる。そのすこぶる男性的なエンディングに対して、ブラームスの交響曲第3番のエンディングはとても静かで、女性的である。そして、それが中年女性の心情に合って、何とも切ないのである。
こんな能書きより、実際に小説を読み、映画を観て、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章を聞くべきである。19世紀のブラームスの作品が20世紀にサガンの小説に使われ、イングリッド・バーグマンが演じ、それを21世紀の私たちが楽しみ、論じ合う。そのためには同時代の別の作品との比較が不可欠になる。
バーグマンは1950年にロベルト・ロッセリーニが監督するイタリア映画『ストロンボリ』に主演し、二人は共に既婚者であったにもかかわらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。
1952年のルネ・クレマンの「禁じられた遊び」の「愛のロマンス」や、1954年のフェデリコ・フェリーニの「道」のLa Stradaはいずれも切ないメロディで、今でも私の記憶に刻み込まれている。1940年から50年にかけてのイタリアのネオレアリズモ(Neorealismo)の監督の中に上記のロベルト・ロッセリーニ、そして、ヴィットリオ・デ・シーカがいる。第二次世界大戦後にデ・シーカ監督が制作した「靴みがき」や「自転車泥棒」はネオレアリズモを代表する作品である。時代は過ぎ、デ・シーカ監督の「ひまわり」(1970)にはソフィア・ローレンが主演し、音楽はヘンリー・マンシーニ。そのメロディはブラームス以上に切ない。そのヘンリー・マンシーニは2024年4月16日(火)に生誕100年を迎えた。マンシーニの名声を不動のものにしたのは「ティファニーで朝食を」の「ムーン・リバー」だろう。「ひまわり」は、第2次世界大戦のソビエト軍とイタリア同盟軍との戦いに巻き込まれ、引き裂かれたイタリアの男女の悲劇を描いている。仕事帰りのアントニオが汽車から降り、それを待つジョアンナに再開する場面、そして、駅でソビエトに戻るアントニオを見送るジョアンナがこみ上げるものを抑えきれなくなる場面には「ひまわり」のテーマが流れ、エンドロールにはウクライナのひまわり畑が重なる。戦争の持つ悲惨さが「切なさの極み」の画像と音楽として見事に表現されている。
第二次世界大戦でもっとも多くの死者を出した国はかつてのソビエト連邦で、二千数百万人と言われている。今、ロシアとウクライナが戦い続けている。そして、かつての悲劇が形を変えて、続いている。誰も「ひまわり」の悲劇を繰り返したくない筈なのに、戦争は繰り返され、イスラエルでも同じことが起こっている。
*ブラームスの交響曲第3番
第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ
ソナタ形式で、シューマンの交響曲との関連が指摘されています。
第2楽章:アンダンテ
自由な3部形式またはソナタ形式。平和でおだやかな楽章です。
第3楽章:ポコ・アレグレット
本文で取り上げたメロディがある楽章。
第4楽章:アレグローウン・ポーコ・ソステヌート
自由なソナタ形式。フィナーレに当たる楽章ですが、ベートーベンとは違って、第1楽章第1主題が回帰して静かに終わります。
1883年(50歳)作曲、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演。人間の弱さや切なさが前面に出て、それがシューマンと共通しています。