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『ファイナルファンタジー』ドット絵の匠・渋谷員子の履歴書|絵が描きたい、でも、ゲームはやらない

「ドット絵の匠」と呼ばれる渋谷員子さん(株式会社スクウェア・エニックス)の履歴書を深掘りします。家庭用ゲーム黎明期に業界へ飛び込み、『ファイナルファンタジー』シリーズをはじめ数多くの作品のデザインを手掛けてきた渋谷さん。かつてはゲームの表現技法のひとつに過ぎなかったドット絵をアートへと昇華させた歩み、そしてその裏側にある仕事哲学を聞きました。

渋谷員子さんの履歴書メインカット

「匠」という言葉を聞いてどんな姿を思い浮かべるでしょうか。ひとつの技術を磨き続けてきた人、あるいは伝統的な技法を守り続けている人をイメージするかもしれません。

しかし、移り変わりの激しいゲーム業界の匠は違いました。『ファイナルファンタジー』シリーズをはじめ数多くの作品のデザインを手掛け、「ドット絵の匠」と呼ばれるスクウェア・エニックスの渋谷員子さんです。

家庭用ゲームの黎明期から35年以上にわたり活躍し続け、業界のレジェンドとも言われる存在ながら、「ドット絵のゲームが消えていっても感傷に浸る暇がない」ほど最先端を走り続けてきたという渋谷さん。新しい技術やトレンドを常に吸収して変化していく姿は、匠の言葉のイメージを見事に覆してくれます。その一方では「絵を描くことが大好き」というピュアな思いを貫く一途さも垣間見えるのです。

今や活躍のフィールドはゲームだけにとどまらず、渋谷さんのドット絵は再び注目を集めてアートの領域へと昇華。なぜ渋谷さんは時代の変化に揉まれることなく価値を発揮し続けられるのでしょうか。その仕事哲学を聞きました。

渋谷員子さんの履歴書


渋谷員子(しぶや・かずこ)さん:株式会社スクウェア・エニックスCGデザイナー/アートディレクター。旧スクウェア時代から『ファイナルファンタジー』や『ロマンシング サ・ガ』シリーズなどのキャラクタードット絵やデザインを手掛け、今なおプレイヤーの記憶に印象深く刻まれている多数のグラフィックを担当し「ドットの匠」としてファンを魅了する。近年はアートディレクターとしてモバイル用タイトルのデザイン監修や、音楽CD『FINAL FANTASY TRIBUTE~ THANKS ~』のジャケットデザイン、ファイナルファンタジーの吹奏楽コンサート「BRA★BRA FINAL FANTASY BRASS de BRAVO」のメインビジュアルドット絵、2018年に日本語、英語、フランス語、韓国語で発売したドット絵画集「FF DOT.」など、さまざまなシーンで活躍している。

漫画家に憧れ、デッサンの練習に明け暮れた子ども時代

──渋谷さんのキャリアグラフを拝見してまず驚いたのは、キャリアを通じてずっと“GOOD”をキープしていることでした。

渋谷員子さんのキャリアグラフ1

振り返ってみると、実際にそうなんですよ。私はこれまでのキャリアで”BAD”の状態に下がった記憶がないんです。私の目の前には常に新しい案件があって、仕事が途切れることはなく、スランプに陥っている暇もありませんでした。

関わってきたゲームタイトルや作品が本当にたくさんあって、キャリアグラフが複雑になってしまいましたね(笑)。ここに記載されていないタイトルにも多数参加しています。空白に見える年があっても、その期間は次のタイトルに向けて動いていたので、「社会人になってからの35年間は常に忙しかったなあ」という感覚しかありません。

【渋谷さんが手がけてきた作品例】

渋谷員子さんが手掛けた、FFIのオープニングの一枚絵
FFIより、作品中オープニングの一枚絵
渋谷さんの手がけた代表的なワンシーン、かつシリーズにおいても印象的なシーン
© 1987 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
渋谷員子さんが手掛けた、FFVのキャラクタードット絵
FFVより、キャラクタードット絵
© 1992 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
渋谷員子さんが手掛けた、FFVIのティナのドット絵渋谷員子さんが手掛けた、FFVIのロックのドット絵
FFVIより、キャラクタードット絵設定画。左からティナ、ロック
© 1994 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
渋谷員子さんが手掛けた、FFVIのエドガーのドット絵渋谷員子さんが手掛けた、FFVIのセリスのドット絵
FFVIより、キャラクタードット絵設定画。左からエドガー、セリス
© 1994 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
渋谷員子さんが手掛けた、FFVIの飛空艇のドット絵
FF6より、飛空艇
© 1994 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
渋谷員子さんが手掛けた、BRA★BRA FINAL FANTASY BRASS de BRAVO 2017 with Siena Wind Orchestraのロゴ
BRA★BRA FINAL FANTASY BRASS de BRAVO 2017 with Siena Wind Orchestraのロゴ
© SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

──35年にわたってご自身の技能や強みを生かし続けていることにも驚かされます。子ども時代から絵を描くことが好きだったそうですね。

渋谷員子さんが語っている様子

物心ついたころから絵を描くことが大好きで、小学校高学年の時分には「将来は漫画家になりたい」と思っていました。

あれは5年生のときだったかな。親に『少女まんが入門』という題名の本を買ってもらったんですよ。表紙を手がけた上原きみ子先生や小室しげ子先生などの絵を解説した本で、私は女の子のキャラクターやファッション、風景などの描き方をひたすらまねて練習していました。

あと、子どもの頃の記憶でよく覚えているのはNHKの「紅白歌合戦」ですね。

──紅白歌合戦?

大晦日に家で紅白を見ながら、かわいい服を着て登場する紅組の歌手のファッションを次々とノートに描いていたんです。歌い手さんたちの登場時間は3〜4分。こたつに入りながら紅組全員分を描いていたのを覚えています。当時のノートを取っていないのが悔やまれるところですが。

とにかく物を見て描くのが好きで、それが得意だったんでしょうね。

中学生になると美術部に入部し、素晴らしい先生と出会いました。「デッサンの練習をしたい」と申し出た私に、部室にあったアバタのヴィーナスの首像で「毎日このヴィーナス像を描き続けなさい」とお題を出してもらって。

それからは放課後に部室にこもってヴィーナス像を描き続けました。毎日2〜3時間かけてデッサンし、先生に見せてアドバイスをもらう。それをスケッチブックが1冊埋まるまで続けたんです。最初のページと最後のページを比べれば、自分の実力が伸びていることがよく分かりました。その先生には美術展にもよく連れていってもらいましたね。この時期の経験が、今の私の画力のベースになっています。

渋谷員子さんが笑っている様子

「絵を仕事にできるなら」深く考えずにゲーム業界へ

──具体的に「絵を描くことを仕事にしたい」と考えるようになったのはいつ頃ですか?

高校生の頃でしょうか。ただ、絵を仕事にするといっても、当時の私の常識では漫画家やイラストレーターくらいしか思いつきませんでした。

漫画家になるための道はぼんやりと分かったんですよ。漫画雑誌の新人賞に応募して評価されれば漫画家になれるのだと。でも、多数の応募作品の中から選ばれるのか、仮に選ばれたとしても漫画をずっと描き続けていくガッツが自分にあるのかというと、自信は持てなくて。

もうひとつのイラストレーターについては、どうすればなれるのかが全然分かりませんでした。どんな業界で働くのか、どうやって仕事をもらうのか。何も分からないので、そもそも目指しようがないという感じで。

とはいえ高校生としては進路を本気で考えなければいけません。周りには美大を目指す友人もいましたが、どうしても私にはその先の進路が思い浮かばなくて。そんなときに「アニメーターだったらなれるかもしれない」と思ったんです。アニメを専門に作るアニメスタジオがあるんだから、そこに就職すれば絵を仕事にできるかもしれないと思ったんですよね。それでアニメーションを学ぶ専門学校へ進みました。

渋谷員子さんが語っている様子

──かなり現実的に、冷静に将来を考えていたんですね。

「とにかくどこかに勤めなきゃいけない」と考えていましたね。当時の時代の空気がそうだったのかもしれません。

でも実際にアニメーションを学んでみたら、この仕事も自分の中ではちょっと違うかも……と思うようになってしまって。専門学校で2年を過ごし、卒業間近になって先生に「アニメ業界以外に進みたい」と相談したら、「そういえばゲームメーカーから求人情報が来ているよ」と紹介してくれました。その企業が、まだ創業から数年しかたっていなかったスクウェア(当時の社名は電友社)でした。

──当時、ゲーム会社がアニメーション専門学校に求人を出すのは一般的だったのでしょうか。

いいえ、レアケースだったと思いますよ。

その頃のスクウェアはPCゲームのタイトルを作っている会社でしたが、1983年に任天堂さんがファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売し、人気ゲームタイトルが生まれていく中で、スクウェアも「ファミコンにシフトしていきたい」と考えていたようです。ファミコンのゲームを作るならアニメーションができる人がほしい、ということで、私が通っていた専門学校に求人を出していました。

私はゲームをやらないし、ファミコンも弟たちが遊んでいるのを横目で見ていた程度でほとんど知りません。それでも「仕事ができるチャンスがあるなら」と思って面接を受けにいき、とんとん拍子で入社が決まりました。

──家庭用ゲーム機の業界はまだ黎明期で、ましてやスクウェアはまだ創業間もないタイミングだったわけですよね。なぜ渋谷さんはその世界に飛び込んでいけたのでしょうか。

深く考えていなかったんだと思います(笑)。「やった! 就職できる」「とりあえず絵を描く仕事ができそうだ」。そんな気持ちしかありませんでした。

渋谷員子さんが笑っている様子

──ゲームをしない渋谷さんが、ゲーム好きな人が集まる組織へ……ギークな人たちの集団に加わる不安は?

当時のスクウェアのメンバーが全員ゲームにどっぷりの人間だったかというと、実はそうでもないんですよ。

PCゲームで育ってきた坂口博信さんや田中弘道さんといったギークな人たちもいましたが、私が入社する前後にはゲームの世界に限らず、独特な能力や才能を持った人たちがどんどん集まってきていたんですよね。植松伸夫さんや河津秋敏さん、石井浩一さんといった顔ぶれも加わって、個性派の集団といった感じでした。

「後ろ姿」や「筋肉」もドット絵で見せたい。『ファイナルファンタジー』制作現場の創意工夫

──スクウェアに入社した1986年、最初に手がけた仕事は取扱説明書のイラストだったのですね。

はい。取扱説明書の仕事では漫画を描いてきたことが大いに役立ちました。ここから、目の前のお題にひたすら応えていく私の職業人生が始まります。

1989年に撮影した、スクウェアのオフィスが御徒町にあったときの渋谷員子さんの写真

1989年、スクウェア御徒町オフィス在籍時代の1枚

──渋谷さんがドット絵を初めて仕事として手掛けたタイミングは?

『キングスナイト』のMSX版なので21歳のときですね。この作品以外にも、『ファイナルファンタジー』にたどり着くまでに私はドット絵をとてもたくさん描いているんです。

──その経験が1987年の『ファイナルファンタジー』につながっていると。この仕事は、それまでとは違う部分もあったのでしょうか。

私自身の仕事としては何も変わりません。私自身はゲームをしませんが、人がやるのを見ているのは好きだったので、他社のドット絵のゲームも発売当初に会社のメンバーがプレイしているのを見ていました。

そこで感じたことを『ファイナルファンタジー』では生かしたいと思い、キャラクターが歩く方向を向くようにしたんです。横から見た姿や後ろ姿もドット絵で見せようと。

渋谷員子さんがドット絵を手掛けた『ファイナルファンタジー ピクセルリマスター』のゲーム画面

『ファイナルファンタジー ピクセルリマスター』画面
© 1987, 2021 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

歩く向きだけでなく、街をできるだけリアルに再現しようと、私は「街に入ったらやっぱりお家があった方がいいな」と思い、屋根のある白い壁の家を描きました。

そうやってやりたいことを増やしていくと、当然ながらデータ容量をどんどん食うんですよ。開発全体に影響する部分でもありましたが、それでも「やりたい」と言って通してもらいました。周囲から強く反対されることもなくて、「思う通りにやったらいいよ」と言ってもらえましたね。

──『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインといえば、画家・イラストレーターの天野喜孝先生による美麗な絵が有名です。天野先生の作品をドット絵に変換していく上では、どのような点に注力されていたのでしょうか。

そもそも当時のファミコンには表現できる色数に限界があって、どんなに試行錯誤したところで天野先生のイラストを忠実に再現できないんですよね。

それでも天野先生のイラストに肉薄するために、その独特のシルエットやフォルム、特に筋肉の描き方などに注目しました。黒の入れ方によっても筋肉の質感は大きく変わるんです。そうした微調整を繰り返していきました。限界がある中で、落とし所としての表現の方法論を決めていく。それが当時のドット絵制作では重要でした。

締め切りは絶対守る。120%の成果を出す。自分への投資は惜しまない。休暇中は機材に触らない

──渋谷さんのキャリアグラフはずっと上り調子ですが、1992年の『ロマンシング サ・ガ』『ファイナルファンタジーⅤ』のタイミングで一度、最高潮に達しています。

渋谷員子さんのキャリアグラフ2

純粋に「前よりもすごいものができたぞ」という達成感の繰り返しなんです。毎年良いものを送り出せている実感があったから、キャリアの状態も階段を上がり続けるようになっていて。だから本当は、このキャリアグラフに限界がなければさらに上がっていくんですよ。

──他方、90年代のスクウェアでは有力タイトルを担っていた人が独立したり他社へ移籍したりと、人の入れ替わりも頻繁だったと思います。渋谷さんはなぜスクウェアに留まり続けたのでしょうか。

転職は今に至るまで全く考えたことがないですね。会社を辞めたいとも、仕事を辞めたいと思ったことは一度もありません。

そういえば、私が40歳を過ぎた頃にふと母親に言われたこともありました。「そういえばあなた、仕事を辞めたいなんて一度も言わなかったよね」って。愚痴をこぼしたこともないんじゃないでしょうか。親としては、20代や30代の頃の私のすさまじい働きぶりを見て「よく続くなあ」と思っていたのかもしれません。

スーパーファミコンの時代になると忙しさがさらに極まって、家にいるよりも会社にいる時間の方が長かったと思います。終電なんて間に合わないので、実家から車で出勤して深夜に帰るのが当たり前。オフィスに泊まることも珍しくありませんでした。今では考えられない働き方ですけどね。

──どうして走り続けられたのですか?

とにかく楽しかったから、ですね。

渋谷員子さんが語っている様子

私は仕事にも周りの仲間たちにもずっと恵まれているんです。だから職場の居心地がいいし、仕事は大変なこともあるけど達成感が大きい。達成感を得た後に作品がヒットすればボーナスとしての報酬ももらえる。そのサイクルを続けてきたので、とにかく楽しくて。

私は体調を崩したこともほとんどないんですよ。そこはずっと気をつけてきたし、特に30代以降は健康に気を使っていますね。会社にいる時間が長いと昼も夜も外で食べることになるので、健康食品のお店でお弁当を買ったり、菜食を中心にしたり。

ファッションや美容関連で自分に気を配ることも大切にしてきました。欲しいものを買って、毎週ネイルサロンに通って、エステサロンにも行く。そうやって自分にごほうびを与えたりをケアしたりすることが体調を維持するために必要だったんだと思います。休暇の過ごし方を含めて。自分への投資は惜しみませんでしたよ。20代の頃はひとつのプロジェクトが終わると2〜3カ月はお休みをもらえたので、必ず海外へ行っていました。

──2〜3カ月の長期休暇があったのですね。

タイトルのマスターアップ、いわゆる完パケまでは休みがないくらいものすごく大変なんですよ。でもこれが終われば長期休暇が、そして作品がヒットすればボーナスが待っているという明確なやりがいがあったので、頑張って働いていました。

そして休暇中はきれいさっぱり仕事のことを忘れるんです。海外で弾けまくって遊んで。その間は基本的に会社には来ないし、機材にも全く触りません。

さすがにそれだけ休むと、明けて会社に来ると「自分はここで何をしてたんだっけ?」という感覚になるんですよ。でもそうやってリセットできるからこそ、充実した状態で次の案件に入れるんですよね。充電期間があるからこそ新しいアイデアも生まれる。ものすごく働いたら同じくらい遊ぶ、使い切った栄養をたっぷり補充する感じです。

今でも、大きな仕事を終えた後には有給休暇をうまく使って2〜3週間は休むようにしていますよ。

──ずっと走り続けているだけでは、すり減ってしまうのでしょうか?

そう思います。ゲーム開発にはたくさんの人が関わるので、私自身がすり減ってパフォーマンスを発揮できない状態だと、全体のプロセスに悪影響を与えてしまうかもしれません。だから私は、自分でマイルストーンを決めて一つひとつ確実にこなしていくことも大切にしています。

カレンダー上で予定を明確に組み立て、朝起きた瞬間から「今日はこれをやりきろう」と意識し、実際にやりきる。締め切りは絶対に守るし、依頼された仕事には100%ではなく、120%の成果を返すことを常に意識しています。クライアントの期待以上の結果を出すということです。そうやって仕事をしていくと信頼されるようになるし、自由にやらせてもらえるようになるんですよ。

もちろん仕事をしていると大変な状況に直面することはあるし、ファイナルファンタジーでも『Ⅴ』や『Ⅵ』になると制作ボリュームが相当な量になっていたので、「ええ、こんなにたくさん描くの……」と尻込みしそうになったことも。ただそんなときでも私は「よし、どうやってやりきろうか」と、“できる方法”を常に考えるタイプなんです。

渋谷員子さんが語っている様子

集中するのは目の前の仕事だけ。ドット絵が消えていく寂しさはなかった

──1997年には『ファイナルファンタジー』シリーズの転換点とも言える『ファイナルファンタジーⅦ』が発売され、登場人物はドット絵ではなく3DCGで描かれました。これ以降は他タイトルでも3DCGの作品が注目を集めていきます。

その頃の私は「ドット絵の仕事はもうないだろうな」と思っていましたね。PlayStationのタイトルでもCGが中心になっていきましたから。

──ドット絵がCGに置き換わっていくことへの寂しさは?

全く感じていませんでした。私自身も1997年の『サガ フロンティア』ではCGを担当しています。新しい技術の新しい仕事が増えていくので、感傷に浸っている暇はありませんでしたね。

──渋谷さんは「ドット絵の匠」と呼ばれています。匠というとひとつの技術を突き詰めていく、守り続けていく人をイメージしがちですが、渋谷さんはそうではなく、新しいフィールドに飛び込み続けているのですね。

「自分はこれしかできない」「これしかやらない」といったこだわりは全くなく、あるとすれば依頼された目の前の仕事で成果を出し続けたいという気持ちだけですね。

会社員でいることのメリットはここにあると思うんですよ。世の中のトレンドが移り変わっていけば、それに伴って新しいことに挑戦させてもらえる。機材も用意してもらえるし、実際にいろいろな仕事に関わらせてもらえる。もし私が会社員ではなくフリーでやっていたら、新しいフィールドに飛び込むことを躊躇(ちゅうちょ)していたかもしれません。

──2003年には、日本のゲーム業界の二大巨頭だったスクウェアとエニックスが経営統合するという大きなニュースがありました。このときの渋谷さんは、どんな思いを抱いていましたか?

渋谷員子さんが笑っている様子

面白いことになったなあって(笑)。この動きは当然、一般社員には知らされていなくて、発表があった日、出社して初めて経営統合を知りました。

大きな変化であることは間違いないのですが、私自身のやるべき仕事は変わりません。ワクワクしながら通常運転です。私は経営統合後、随分とたった2011年にドラクエの仕事を一度経験しているのですが、そこで初めてエニックスと一緒になったのだと実感したくらいです。

クライアントワークの「ちゃぶ台返し」で鍛えられた力

──2007年には「オンデマンドTVセットトップボックス」のUIデザインを担当しています。これはゲーム以外の仕事ですね。

この仕事は私にとって大きな転機となりました。

渋谷員子さんのキャリアグラフ3

当時はゲーム以外の分野にもスクウェア・エニックスの技術を提供する動きが加速していて、そうした中のプロジェクトのひとつでした。社外の仕事ということで、私はクライアントへのプレゼンテーションなどにも対応できる「社交的なデザイナー」としてアサインされたようです。要は、クライアントとコミュニケーションを上手に取って仕事を進められる人が必要だったということですね。

とはいえ社外に出て仕事をすれば、相手方は「スクウェア・エニックスで『ファイナルファンタジー』の絵を描いている人だ」と認識する可能性が高いわけで、ちょっとした看板を背負うというか。

──ちょっとどころか、ものすごく大きな看板だと思います。

その意味では責任重大だし、相手方の期待に応えたい。この仕事でも私は120%の成果を返したいと思ったわけです。

ただ、私のプレゼンを聞いてくれる人たちは普通の事業会社の役員さんたちなので、デザインについては全然分からないんですよ。いろいろと資料を工夫して説明するのですが、ある程度固まった段階で「やっぱり前の案の方がいいかも」と急にひっくり返されることも。

「なるほど、これが社交能力を買われた理由だな」と気づきました。ちゃぶ台をひっくり返されてもへこんでいる暇はなく、次のことをすぐに考えて動き、クライアントとコミュニケーションを重ねていかなければならない。この仕事で私はメンタルを鍛えられたように思います。

──非専門家であるクライアントとのコミュニケーションの秘訣は?

私が意識していたのは、漠然としたイメージの会話にしないことです。相手の持つイメージを細部まで理解し、目線を合わせられるよう、自分の中にある引き出しを総動員しました。

この場面では、それまでの経験や蓄積が全て生かされましたね。仕事はもちろん、長期休暇で遊んだ経験も貴重なものだったんです。例えば先方が「もっとこう、シックなイメージで」と言えば、「例えば高級ホテルにあるようなクラシックなバーみたいな感じですか?」と具体を挙げて確認する。そうやってコミュニケーションを重ねながらデザインを練り直し、合意形成していくことも、私の新たな引き出しとなりました。

「二度とないと思っていた」ドット絵の仕事で、再び脚光を浴びる

──渋谷さんはもうひとつの転機として、2012年に発売されたトリビュートアルバム『FINAL FANTAST TRIBUTE 〜THANKS〜』の仕事を挙げています。アルバムジャケットでは『ファイナルファンタジーⅦ』以降のキャラクターもドット絵で表現され、話題となりました。

渋谷員子さんのキャリアグラフ4

この仕事のおかげで、私の名前がまた世に出ることになりました。それまでは長い間ディレクションなどの裏方仕事をしていたので、メディアに出ることもほとんどなくて。でもこの仕事で『Ⅶ』以降のキャラクターをドット絵にしたことによって大きな注目を集め、たくさんのゲームメディアが注目してくれました。

その後はモバイルのゲームタイトルなどでドット絵の仕事が復活して、世の中が求めることの変化に驚きましたね。

渋谷員子さんが手掛けたCD『FINAL FANTASY TRIBUTE~ THANKS ~』のジャケット絵

転機となった『FINAL FANTASY TRIBUTE~ THANKS ~』
© SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

──世の中全体を見れば、30〜40年前からの技術となると、もはや見向きもされなくなっているものもたくさんあります。そうした中でも、渋谷さんの描くドット絵は今も多くの人に求められています。時代が変わっても揺るがない強みの秘訣はどこにあるのでしょうか。

それはひとえに、ゲームを愛する皆さんがドット絵の価値を再発見して「いいな」と思ってくださっていることに尽きると思います。私自身のスタンスは何も変わっていなくて、目の前の依頼に120%で、最高の状態で応えていくことだけなんです。

渋谷員子さんの横顔

──たしかにドット絵のゲームを愛する人はたくさんいますよね。私自身、ドット絵のキャラクターが登場するゲームが今も大好きです。単なる懐古趣味などではなく。

少ない情報量から想像力を働かせられるのがドット絵の魅力なのかもしれませんね。全てが用意された世界で、きれいなグラフィックを見せられるわけではない。それこそ今どきの動画で伝えようとするような表現手段とは真逆なのかもしれない。

その意味では「何もかも完璧に用意されていない方が楽しい」「自分が好きなようにいろいろと想像したい」というニーズが根強いのではないでしょうか。ドット絵はたくさんの情報や要素をそぎ落としていった結果として生まれるもの。その芸術を愛してくれている方々には、本当に感謝の思いです。

誰かに嫉妬している暇があったら、自分にもっと集中した方がいい

──お話を伺って、渋谷さんが子どもの頃からずっと「絵を描くことが好き」という気持ちを貫いてきたことが分かりました。好きなものを純粋に、ずっと好きでいられる理由はどこにあるのでしょうか。

新しい可能性を常に試してきたからだと思っています。絵を描くための環境は年々変化していて、CGや3Dなどのさまざまな枝分かれをして現在があるのですが、そうした変化のたびに私は新しいものに触れて楽しんできました。

また、やりたいことを絞りすぎなかったことが大きかったのかもしれません。私は、絵を描く仕事ができれば何でもよかったんです。自分にガッツがあれば漫画家になっていたかもしれないし、ご縁があればイラストレーターになっていたかもしれない。たまたまそれがゲーム業界で、たまたまドット絵が中心だっただけ。

もし私がゲーム業界に強いこだわりを持ち、やりたい仕事を絞っていたら、いざその仕事に関われなかったときのショックが大きくて立ち直れなかったかもしれません。私は「これじゃなきゃダメ」がなかったから、ずっとやって来られたのだと思います。

あとは絶対に人と比べないことですね。絵を描く人は日本だけで見ても何万人、いいえ、もっとたくさんいるかもしれません。他の職業でも、同じフィールドにたくさんの同業者がいることがほとんどでしょう。その中で自分と他人を比べるのは、あまり意味がないと思うんですよ。

私は自分がゲームをしないので他のタイトルを全然見ません。本やTwitterなどを通して入ってくる情報に触れるくらい。もしかすると私は、自分のことにしか興味がないのかもしれませんね(笑)。自分が描くものにしか興味がなくて、「自分最高!」といつも思っているんです。

──誰かの才能や作品に対して嫉妬することもないのでしょうか?

全くないです。嫉妬はクリエイティビティにつながらないと思っていて。他人の絵を見て「私にはない色使いだな」と感じたり参考にすることはあっても、自分がそこに行く必要はないし、自分には自分の絵があるし。誰かに嫉妬している暇があったら、自分にもっと集中した方がいいと思いませんか?

それはつまり、自分が今、手にしているものを大切にするということ。「あの人はこう」「この人はこう」といろいろ考える前に、目の前の自分を大事にしないと、その先にはつながらないのではないでしょうか。

もちろん「こうなりたい」という目標はあった方がいいし、目標を達成している自分の姿を妄想することも大切なのかもしれません。ただ、その妄想が実現するのは目の前のことに没頭し続けていった先。「気づけばある日実現できていた」ということでしかないのだと思います。

そうやって目の前の自分に集中していれば、30年だろうと40年だろうと、ずっと仕事を楽しみ続けられるかもしれませんよ。私も現在進行中ですから。

渋谷員子さんとファイナルファンタジーのイラスト

取材・文:多田慎介
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)
ヘアメイク:小泉玲奈(CharmeR)

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