筆まめ伊達政宗が茨城へ送った裏切りを促す密書が被災した土蔵から発見
地震で被災した茨城県の土蔵から、伊達政宗が、常陸(茨城)の大名佐竹氏を裏切るように促す密書が見つかりました。読売新聞がきょう(2013年3月25日)報じています。
密書は神仏に誓う「起請文」のスタイルでした。なにを誓っていたかというと、うまくいったら領土を与えるという約束です。
天正17年(1589年)に東北の政宗がなぜ北関東の佐竹氏への裏切りを誘っていたかというと、こういう背景がありました。
山形県米沢を本拠にしていた政宗は、福島へ出てどんどん南下していきます。これに対して、福島県の勢力は反政宗連合を結成します。その主力は会津の蘆名と常陸の佐竹でした。むしろ、福島県域は、佐竹が盟主でその下に中小の大名・武将がぶらさがっているというのが実態に近いでしょう。
天正13年 服従してきた二本松城(福島県二本松市)の畠山氏が突然、父の輝宗を拉致。伊達軍は父親ごと畠山氏を射殺。
人取橋の戦いで、反政宗連合の佐竹(常陸)・蘆名(会津)と対戦し、辛勝。
14年 二本松城の畠山氏を滅ぼす。
16年 郡山市で佐竹、蘆名の連合軍と対峙。
17年 郡山で戦っているとみせかけて、海側の相馬氏を急襲。佐竹氏は「本命は浜通りかよ、やばい」と焦ります。
と思ったら、政宗はこっそりと反転して、会津を急襲。一気に摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼしました。
佐竹の配下に裏切りを促す密書(←ココ)
と、佐竹を相手に戦っていたのでした。
政宗というのは、戦国大名のなかでは一番の筆まめとして知られています。
当時は「戦わずに勝つ」という外交戦こそが主流でしたから、筆まめというだけで、もう戦国武将としての「戦闘能力」は倍増してしまうのです。
政宗の手紙はあまりにたくさんあるので、それをまとめた本があるくらいです。
それだけに関東で政宗の調略の手紙が見つかったのが初めてということに、むしろビックリしました。
政宗の筆まめぶりについては、以下のように突出していたようです。
政宗の筆まめはよく知られている。いまも残る自筆の手紙は千通を超す。武将は政治家でもあるので文書をたくさん発給するが、ふつうは右筆という秘書官が代筆し、自分は最後にサイン(花押)するか印を押すだけ。豊臣秀吉や徳川家康の自筆の手紙はそれぞれ百に満たない。
政宗が息子にたいして「ちやんと自筆で書け」と自筆の手紙でしかっていることからも、いかに政宗の筆まめぶりが珍しかったかがわかる。
下の本の「独眼竜伊達政宗」より
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以下が報道内容です。
東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国大名・伊達政宗の起請文きしょうもん(誓約書)が見つかった。
対立する佐竹氏につく常陸ひたち(茨城県)の武士に、佐竹氏を裏切るよう促した「密書」とみられる。関東に送られた政宗の起請文が見つかったのは初めてという。
(略)ボランティア団体「茨城史料ネット」(略)代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、起請文は1589年(天正17年)、常陸の大名・佐竹義宣の配下にあった小野崎昭通に宛てられた。
「中川北ニ江戸領之内(中略)可宛行(那珂川以北の江戸氏の所領をあてがう)」と記され、近隣の江戸氏に打ち勝てば、その領地の一部を与えると約束している。佐竹氏からの離反を条件としていたとも読み取れる「其元事切候以後(お前が手切れした後)」との記述もあった。
navarまとめになりました。
http://matome.naver.jp/odai/2136418169563822901