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消費から参加へ、そして制作へ

上妻 世海 / Sekai Kozuma

2017.01.20

現代の情報技術が可能にした現実空間

キュレーターのマリサ・オルソンは、ポストインターネットという用語によって「情報空間」と「物理空間」の境目が曖昧になった社会状況を指し示した。そして、これまでポストインターネットアートの多くは、「情報空間」と「物理空間」という二つのレイヤーの移動を問題にしてきた。ポストインターネットアーティストは、その境界を横断する。しかし、物理空間を3Dスキャンすることで情報空間へと移行させることや情報空間を物理空間へ反映させようとする行為は、端的に言えばサイバーパンク的な想像力の延長線上にあり、過去の想像力を現代の技術的環境で実現しようとするものに過ぎない。それらは想像力のレベルで、何も刷新していない。

僕の考える現代社会の特徴は「情報空間」と「物理空間」の境目が曖昧になったというよりも、むしろ「情報空間」と「物理空間」が入れ子状にフィードバックループを形成しながら相互生成することで、「現実空間」を仮設的に瞬間的に構築している点にある。僕たちは事後的に「情報空間」と「物理空間」を区別するが、実際は持続する一つの「現実空間」を経験している。

僕たちは「現実空間」を、ユークリッド幾何学で記述されるような客観的かつ数量的なものとは考えていないし、主体の心理的な体験空間であるとも考えていない。「現実空間」は「情報空間」の部分的かつ瞬間的な現勢化であり、現勢化するや否や未だ現実化していない問題提起的な潜在的「情報空間」として再度問い返される。「物理空間」は即座に「情報空間」の素材として可変的かつ流動的な課題へと変化する。そしてまた、僕たちは「情報空間」を別の仕方で「物理空間」へ転用しようとする。そのループの中で、僕たちは仮設的な「現実空間」を体験している。

近代以前から固定的に考えられてきた「主従関係」や「一と多」などの二項対立は、主と従を繰り返し反転しながらその二項自体が変化しつづけることで、確定的な定点という地位を剥奪されている。僕たちは観察する主体でもなければ、行為する主体でもない。主としての僕たちが従としてのTwitterやFacebookのタイムラインに情報を追記することもあれば、主としてのTwitterやFacebookのタイムラインが従としての僕たちの身体を動かす時もある。主と従は常に入れ替わりながら相互に変化をもたらす。言うなれば、映画のカメラ視点は常に奪い合いの状態にある。

複数の虚構と実在性

このような構造上の変化は、IoT(Internet of Things)とブロックチェーンの融合によって電気機器が自律的に人間や他の電気機器に働きかけるようになれば、より明確に可視化されるだろう。例えば、必要な食材のリストを登録すれば、冷蔵庫が無くなりそうな食材をセンサーで感知し、ブロックチェーンを用いて自律的に取引を行うことで、食材を常に一定の状態に保ったり、過去のショッピングデータや健康状態のデータをネットワークから自律的に取得し、おすすめ商品を取引したり健康状態を補完するための食品をリストに自動追加するかもしれない。モノたちは観察される対象ではなくなり、自律的なユニットとしてコミュニケーションをし、取引を行い、動き出すだろう。現在でさえ不可視な部分が多いとはいえ、構造上は「物理空間」と「情報空間」が相互生成する中で、無数の自律的なモノたちがうごめく「現実空間」の実在性を経験しているのだ。

ポストインターネットアートが社会的に影響力を持たず、Pokémon GOが一世を風靡しているのは、Pokémon GOが現代社会の特徴をうまく捉え、「情報空間」と「物理空間」がフィードバックループを形成しながら一つの「現実空間」を生み出しているからであり、人間を主となるプレイヤーとしてだけでなく、情報によって動かされる拡張機械として扱っているからである。時代に対する感度が高いと無条件で考えられている既存のアーティストの方が過去の想像力からの引用に傾倒し、現代社会で起こっているドラスティックな変化に対応できていないのだ。しかし誤ってはならないのは、構造上の転回が先にあって、Pokémon GOはその転回を「拡張現実」として可視化していることである。

「情報空間」と「物理空間」のフィードバックループは、技術的には3Dプリンターによる「情報のモノ化、モノの情報化」やビットコインなど仮想通貨の流行、IoTとブロックチェーンによる脱中心的な分散自律型システム、TwitterやPeriscopeによる個々の虚構制作、あるいは時事的なトピックとしてBrexitやドナルド・トランプの勝利に象徴される。上記の例は「一つ正しい現実と間違った複数の虚構」という環境から、「複数の虚構があり、各々がどの虚構に実在性を感じているか」という環境へと変化したことを示している。

例えば、仮想通貨の流行は、最も流通する貨幣がたった一つの正しい現実であるという常識を崩し、最も共有されている虚構に過ぎないことを示している。そもそも貨幣とは、共有された虚構という特徴を持っており、使用されているから使用できるというトートロジーによって機能している。しかしこの構造上の変化は、第一に貨幣の形式が仮想通貨の登場によって相対化され、僕たちが理論的な水準ではなく実践的な水準で、貨幣の虚構性について理解するようになったことを意味している。そして第二に、各々の虚構を成立させる条件は、各々において異なるということを示している。法定通貨であれば国家の安定性や歴史の蓄積が信頼を担保するだろうし、ビットコインであればデジタル暗号を解読されない為のセキュリティ技術であったり、P2Pでのトランザクションを成立させるブロックチェーンの設計が信頼のプロトコルである。

上記の構造上の変化を、人々が各々に都合の良い虚構を生きるようになったとして非難することは容易であるし、「ポスト真実」の時代と名付けることもできるだろう。しかし「複数の虚構と実在性」という図式は、そもそも「近代社会システム」が格差を隠蔽することで共有されている一つの虚構に過ぎないことを浮き彫りにもしている。近代社会システムは、「自由」という理念が労働力を売り渡すという自由すら内包することで、資本家/労働者という主従関係を隠蔽し、利己的な主体が功利主義的に利害計算することで、社会が調和するという神話によって保たれていたのだから。

世界を認識する枠組みとしての制作

僕たちは、この不可逆な時代の変化を「透明なコミュニケーションによる共同主観的な共同体の再建」という課題で捉えるのではなく、素朴に「差異を肯定」するのでもなく、各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう。現代の環境を考慮した上で、別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう。他者が用意した虚構を消費することでも、そこに参加することでもなく、各々が制作することにしよう。そのために必要な武器は揃っている。僕たちがしなければならないことは、過去の想像力に基づいた表象を描いて年配世代から評価されることでもなければ、構造上の変化を単純な仕方で表象することでもない。それは構造上の問題を、無意識的な領域から意識的な領域へと引き上げ、操作可能性を自覚し、複雑な状況を複雑なまま、様々な仕方で表象することである。

自覚しなければならない問題は、構造上の転回が生じているということだけではなく、それが僕たちの実践において何を変化させるかである。僕の考えでは、第一に「観察から制作へ」と世界の枠組みが変化する。第二に、「人からモノへ」という一方方向の制作の図式は崩れ「人間も含むあらゆるモノたちが同一平面上で相互に制作し合う」ようになる。第三に、近代における制度や文脈を前提にしていたありとあらゆる物事は、僕たちに再定義を要求する。

もちろん「観察から制作へ」という枠組みで世界を捉えていたのは、今日生きる僕たちだけではない。いつの時代であっても科学者にとっての「物理空間」は、リテラルなモノが敷き詰められた場としてだけでなく、様々な複合的な謎に満ち満ちた場として立ち現れているし、工学者にとっての新たな技術は、便利で快適な新しい「商品」としてだけでなく、次なる課題や目的を生み出す「プロトタイプ」として見えるだろう。また美術家にとっての他者の傑作は、ただ美しいだけでなく、次なる挑戦を突きつけるものとして現前している。つまり、彼らにとって現前しているものは〈今ここ〉にあるだけでなく、謎やプロトタイプや課題として即座に過去と未来へ折り返されている。

科学者やアーティストは、合理的に説明できる領域から神秘主義者さながらに、一歩先へと非理由的に飛躍する。徹底的に説明しきること、説明によって理由律の限界を定めること、そこから勇気をもって一歩踏み出すこと。彼らに共通しているのは、消費ではなく制作という視点でモノを見ていることだ。そして、制作という視点でモノを見ることによって、初めてリテラルなモノではない側面が浮き上がってくる。制作者にとって、モノは「商品」という形に画一化、フォーマット化されない余剰を持っている。モノは情報へとデコードされ、再度情報はモノへとコード化される。それも各々が、別々の仕方で。つまり、熱力学第二法則は物理空間上では成立しているにせよ、制作者はモノから無数の潜在的な形式や課題を引き出し、再度別の仕方で時間を折り返すのである。そして、上記の構造上の転回の後、世界を認識する枠組みは、消費から参加へ、そして制作へと、一般化しつつあるのだ。

魅惑するモノたちの声

構造上の転回の後、モノ、情報、人間は水平的な存在論的役割を持つことになる。道具は人間の感性を拡張するものとして人間に対して従属的な立場に留まっていないし、空間は人間の目的によってモノが道具としてネットワーク化した結果生じるものではなくなる。芸術作品は、もはや既存の制度と文脈を前提にするだけでは、その同一性が担保されない。

水平的な存在論の元では、自律的なモノたちが制作、交換、取引を媒介にすることで、主従関係を奪い合いながら局所的なネットワークを形成する。科学者はモノたちが湛える謎に魅惑され、実験室の中で、フラスコや試験管やピペットに囲まれながら、モノの声を聞かされる。モノが人間を動かしているのであって、決して人間が主体的にモノの声を聞くわけではない。身体は動かすのではなく、動かされる。モノはリテラルにそこに実在するだけでなく、無数の声であり、無数の情報であり、無数の虚構を湛えていると同時に誘惑であり、媚態なのである。

また、その声は反復可能な形に整えられ、工学者はその声を工学的に利用可能な水準に安定化するよう呼びかけられる。国際学会は組織を作り、国際的な互換性を高めるために規格化する。情報はアーカイブされ、図書館の一室、あるいはWorld Wide Webの網の上に蓄積されていく。そうして、モノはその機能を、その目的を拡張される。その謎を、その秘密を、人間によって部分的に明かされながら。そして、その結果作られた「商品」「プロトタイプ」「道具」「芸術作品」は、制作者によって再度モノへと折り返され、繰り返し反復しながら差異を生み出し拡張していくのである。

モノの拡張、そして人間の五感の拡張、それは固定的な主従関係にあるのではなく、並行的に協働しながら進化する。何故なら、モノはモノと協働し、相互生成もしているのだから。人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。そのようなイデアは存在しなかった。幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。さらに、蒸気自動車のもつ魅惑がガソリンエンジンを、その熱を冷ますための冷却技術を、高度な計算が可能なコンピュータや計測装置がより空気抵抗の少ないクールなフォルムを、そしてそれらのモノとモノの結合が、現在の自動車を生み出した。そして、今も自動車は、あるいは自動車を構成する各々のモノたちは、制作者たちを魅惑し、課題を湛え、様々な周辺的な技術と結合しながら、異なる仕方で変容しているに違いないのだ。

近代的な制度と文脈の死

モノは謎として課題や機能だけを仄めかすのではない。ある人は高機能マイクロフォンをその本来の機能を全く無視し、そのマイクロフォンの持つフォルムとイメージから機能や目的を転倒し、神を召喚する棒として神聖化するかもしれないし、ある人は微かに放たれるノイズから、異なるモノとの結合可能性を感じ、その結合によって、〈今ここ〉からは想像もつかないクリアでドープな音を再現するサウンドシステムを生み出すかもしれない。ただの便器が『泉』になるように、異なる空間ではコンビニでのレジ打ちの技能が異なる機能や価値を持つかもしれない。常に余剰に目を向け、転用の可能性を忘れないことだ。

一般的にモノからいかなる情報が引き出されるかは明示できない。自動車のイデアが存在しないように、最終目標や究極の形相は存在しないのだから。そして、車が人間の足を拡張し、電話が耳と喉を拡張しているように、モノは人間の感性を拡張しているが、同時に人間もモノの機能やイメージ、フォルム、目的を変容している。あるモノが別のモノとの結合可能性を湛えていることが、潜在的に可能な空間を切り開き、人間がその媒介となることによって、現実空間における機能や目的が転用され変容していくのである。

かつて人間は、不当に重要な役割を自らに課していた。今や人間は、世界を安定的な定点から観察し消費することはできない。観察するためには、人間を安定的な実在として扱い、記述する地位を与えなければならないからだ。つまり、人間が主であり、動物、植物、無機物が従属する図式を必要とするのだ。同一平面の元、モノと情報と人間は各々が自律的な役割を与えられ、それぞれが主と従を相互に奪い合いながら相互生成している。人間も含め世界を構成する全ての演算子は、観察するという特権的な地位を与えられていない。むしろ、全ては自己制作的であり相互制作的なのである。それは同時にあらゆる領域における定義の再編成を僕たちに要請するだろう。なぜなら、そもそも人間が自らのシステムを「感性」「悟性」「構想力」「理性」と整理し、世界を現象や確定記述の束として扱ったり、その外側をモノ自体として不可知に定めることを通じて、様々なモノの定義がなされていたからである。つまり、人間は不当に特権的な場所から、観察し、定義し、消費して、あらゆるモノたちへ光を注ぎ込んでいる気になっていたのだ。

僕にとって、カンタン・メイヤスーを初めとした相関主義批判の重要性は、現代社会の複雑性が相関主義的な世界認識で捉え切れないのを明示したことにある。近代以降、「芸術作品」は自律的かつ単独的であるが故に普遍的価値を持つというロマン主義的な前提の上に組み立てられている。あるいはその延命装置としての関係性やプロセスに関する「芸術作品」に対して、現代哲学が疑問符を付け、再度「芸術とは何か?」という問いが問い返されていることは、消費から制作へと認識の枠組みをシフトしてしまえば、当然浮上するのである。近代的な枠組みの死は、〈人間の死〉と同時に、「鑑賞する」という特権的な態度の死を意味している。更に言えば、既存の論理に基づく「芸術の自律性」の死を意味している。何故ならそれらは、近代的な制度や文脈を前提としているのだから。

無数の異なる身体のためのブリコラージュ

これからの芸術は、既存の制度や文脈を前提にすることはできない。それにも関わらず、歴史や文脈は悠然と存在している。僕たちにはなにも残されていないように見える。あらゆる物事は既に開発されきっているように思われる。人々は「分からない」というよりも先に、既存のカテゴリーに基づいて「分かる」と発してしまう。あらゆるモノたちが既存のカテゴリーに安易に収められてしまう状況はアートにとって、非常に困難な状況である。その状況下では、奇抜な行動や新しい試みは素朴に存在することができない。僕たちは、素朴な神秘主義者として振る舞うことができない。

しかし本来、芸術作品は「非芸術作品」を経由することでしか芸術作品になることができないのだから、現代のアーティストも説明のつかない未だ認識できないモノへと歩を進めなければならないのは、過去のアーティストと同様である。僕たちはあらゆる行為がカテゴライズされてしまう時代を引き受け、まずは頭をクールに保ち、そして様々なダンスを身につけることにしよう。徹底的に説明すること、そして余剰への愛を捨てないこと。過去の文脈や制度を学び、しっかりと整理すること。シャーマンのように、動物や植物、モノたちとの交流の道を絶たないこと。複数の環世界を横断するための身体を開発することだ。「分かる」ことから「分からない」ことへと進むために。理由律による世界から非理由律による世界へと進むために。

僕たちは神話的世界を再度、現代の技術によって別の仕方で蘇らせようとしている。人間は上からモノたちを観察し、消費する立場を失った。しかし、悲しむことは何もない。むしろ、人間を含めたあらゆるモノたちが能動的に、並列的に、自己制作的に、自律していながら、相互生成、共進化し、協働している世界が開かれているのだから。過去の枠組みで世界を額面通りに認識し、今にも溢れ出しそうな余剰を抑圧しようとする人々はまだ存在するし、これからも存在しつづけるだろう。僕たちは彼らとも協働していけばいいのであって、彼らを敵だと思う必要はない。僕たちは新しく始まったばかりのこの世界で、これからの芸術について思考し、対話し、実践していこうと思う。世界を止めるのではなく動かそう。僕たちは額面通りの世界から、イメージやフォルム、機能や目的、魅惑に満ち満ちた神話的世界へと、別の仕方でもう一度放浪するのだ。この近代化された身体をもって、習慣を解きほぐしながら、あらゆる時代、地域を移動し、あらゆる素材をブリコラージュし、無数の異なる身体を作り上げていくように。