概要
11世紀前半の北欧地域においてイングランドやノルウェーを手中にし、北海帝国と呼ばれる一大国家を築き上げたデンマーク王。カヌート、クヌーズとも表記される。デンマーク王としてはクヌーズ2世、イングランド王としてはクヌート1世と表記する。
世界史の教科書の上では単なる征服者としてしか描かれないが、実際の事績をみてみると彼一代にしてやってのけたことではないことがうかがえる。以下にその事績をあげていくことにする。
王位継承と王になってからの事績
そもそも、デンマーク王国によるイングランドやフランス(フランク)など諸地域への遠征・侵略はクヌートが即位する200年前から断続的ながらも行われている。特にそれが激しく行われるようになったのがクヌートの父にあたるスヴェン王の時代であった。
1001(1002)年にそれまで比較的友好関係を保っていたイングランドが、無策王(無思慮王)として悪名高いエゼルレッド2世の命で突如デーン(デンマーク王国の人々のイングランドからの呼称)人を虐殺した。これに激昂したスヴェン王は報復も兼ねてイングランドへ派兵し、10年単位で征服活動を続ける。この終盤にあたる1013年頃よりクヌートも軍を率いてそれに加わった。
エゼルレッド2世はデンマーク軍に全く歯が立たず、離反も相次いだため1013年に王妃の縁を頼ってノルマンディー公国へと亡命した。それに伴い、スヴェン王は1013年中に賢人会議(ウェテナイイェモート)によってイングランドの王として認められることになった。しかし、そこから間もなく1014年にスヴェン王は急死。クヌートはイングランドの一部の民衆やバイキングからは王として追認されたものの、先の賢人会議では掌を返してエゼルレッドをイングランドに呼び戻し、クヌートと対峙させることになった。
スヴェン王の死によって動揺が広がっていた為、クヌートはデンマーク本国への帰還を決断した。デンマークに帰ったクヌートは兄であり新たにデンマーク王に即位したハーラル2世の命で1015年夏にイングランドへ再侵攻する。
1016年までに再びロンドンまで攻め上がって決戦を迎えようとしていたが、その前にエゼルレッド2世は崩御し、続いて剛勇王の異名を取ったエドマンド2世はクヌートを破り、その後エドマンドがウェセックスを保持し、クヌートがテムズ川以北のイングランド全土を持つ和議を結んだ。しかし、これまた幸いなことにエドマンド2世が間もなく1016年10月に崩御。クヌートは素早く行動にでてエドマンドの旧領を編入して11月にイングランド王に即位。エドマンドの未亡人を娶ってその基盤を固めた。
1018(1019)年に先にあげた兄のハーラル2世が崩御すると、多少のいざこざはあったものの1019年にクヌートはデンマーク王位を継承。これで彼はデンマークとイングランドを手中に収めたことになる。1028年にはノルウェー王であったオーラヴ2世を追い払ってノルウェー王の座につき、また現在のスウェーデンの一部も手中に入れて彼は北海の覇者となったのである。
クヌートは軍事力も用いたもののどちらかといえば策謀や、入念な下準備をした上での表面上穏便なやり方でその領域を広げている。また、王位に就いた背景にはその地域における貴族や王族の内紛もあり、それに上手に介入して北海に面するほぼ全域を手中にするほどの大王となさしめたのである。
また、当人もキリスト教徒だったことから教会保護を積極的に行った。イングランドにおける主要な教会であったカンタベリーやウィンチェスターに免税特権や港の利権、大量の寄進を惜しみなく与え、信心深いイングランドの地元民からは大きな称賛をもって迎えられたという。また、基本的にオーディンを最高神とする北欧神話の神々を崇め、キリスト教徒には苛烈であった他のバイキングの諸王や酋長と異なり、このように融和的であったことも彼の評価を高めている一因であるともされている。
しかし、クヌートの築き上げた帝国は彼一代限りであった。ノルウェーは1030年代に入った時点でクヌートが任じた支配者であるスヴェインとエルギフが在所のトロンハイムを離れざるを得なくなるほど人心が離れ、1035年にはクヌートが死ぬ直前に先にあげたオーラヴの子マグヌス1世を掲げた謀反の影響で、ノルウェー自体からも追い出される羽目になっている。1035年にクヌートが崩御すると、更に崩壊が進み、クヌートの王子であるハーデクヌーズを掲げる貴族と異母兄のハーラルを掲げる貴族の間で内紛が発生。1042年にはイングランドではエゼルレッド2世の子、エドワード証聖王がイングランドの支配権を奪い返し、北海帝国はクヌートの死後10年も持たずに歴史から消え去ることになった。
しかし、現在の英語にもノルド語(デーン人の話していた言葉)由来の語彙が多く残っており(Happy、Birth、Seekなど)、その影響はわずかながらも残り続けている。
潮汐の逸話
『ヴィンランド・サガ』の方でもこれをもとにした話が描かれているが、絶対的な力を持つクヌートに対して美辞麗句を並べ立てる家臣たちを前にして、海岸に玉座を置いてそこに座り、潮に対して自らの足を濡らさぬように命じた。当たり前だがそんなことは無理な話である。その後、彼は玉座の後ろに回って「王の力は、森羅万象を司る神に比べれば無力である」と言いながら、十字架を立て、その上に自らの王冠を掲げて「全能の王たる神に敬意を表して」と誓いを立ててそれを守り続けたという。
これはクヌートの敬虔さと謙遜を示すエピソードで、また、避けることの出来ない出来事に対して、それを止めようとすることの無益さを示す寓話として用いられることがある。
『ヴィンランド・サガ』において
クヌートが登場する創作作品といえばやはり幸村誠の『ヴィンランド・サガ』である。初登場は第3巻21話『ヴァルハラ』より。アニメでは第8話。CVは小野賢章。
姫とも見紛う中性的な美男子として登場し、当初は引っ込み思案で守役のラグナルと神父のビリバルドとしか交流をしようとしなかった。しかし、アシェラッド兵団の護衛を受けながら軍団本拠まで戻ろうとする最中、クヌートを直接守る役目を担った主人公・トルフィンと出会って、歪ながらも心を開くようになる。
イングランドに雇われたトルケル率いる軍団の追尾を逃れようとする中、守役のラグナルを失ったことで彼は王として目覚め、神の恩寵を否定し、自らの手で楽土を作り上げる決意を固める。それを見たトルケルは見届けるという名目でクヌートの支配下に入った。
その後は父・スヴェン王と確執の末に、兵団の長から従者となったアシェラッドがイングランド全土を支配下に入れた祝いの式典の最中にスヴェンを殺害した事でただちにその仇を取り、王の代行としてイングランド全軍の指揮を取ることになった。
その後はだいたい上記の事績の通り王権を手にしていくのだが、王として歩む決意をした彼はその大半を毒殺と謀略によってイングランドを支配下に入れ、やがて兄・ハラルド(ハーラル)をじわじわ毒で弱らせて殺すことに成功し、史実の通りデンマーク王にも即位した。
その後、イングランド軍団の維持費補填の為として農場接収を企て、手始めにデンマーク南部のケティルの農場を手に入れようとするも、農場の奴隷となっていたかつての従者であり主人公のトルフィンの説得に折れて農場接収は取り下げ、イングランド軍団は解散することを決定した。王の懸念に反してイングランドの民衆は王から信頼されているとしてその決断を賞賛したという。
このように、ヴィンランド・サガにおいてはヴィンランドに追放・迫害された人々のための村を作ろうとするトルフィンのもう一方の存在として、もうひとりの主人公のような、キーパーソンとしての立ち位置となっている。
関連動画
ヴィンランド・サガ 第8話 海の果ての果て |
ヴィンランド・サガ 第11話 賭け |
ヴィンランド・サガ 第16話 ケダモノの歴史 |
ヴィンランド・サガ 第19話 共闘 |
ヴィンランド・サガ 第20話 王冠 |
ヴィンランド・サガ 第21話 再会 |
関連静画
関連項目
- 1
- 0pt