土居市太郎(明治20年(1887年)11月20日-昭和48年(1973年)2月28日とは、将棋棋士である。名誉名人。
関根金次郎門下。弟子に金子金五郎、萩原淳、梶一郎、加藤博二、大内延介。
概要
大正時代に活躍した棋士である。明治40年(1907年)に関根に見込まれて入門。関根が将棋同盟社を結成すると土居も入社した。大正10年(1921年)に関根は十三世名人を襲位するが、54歳であった関根に対し、土居は34歳で実力は土居が上回っていた。また、実力で関根から名人位を奪取しようとしていた大阪の阪田三吉も、土居が勝ち越したことで名人位を得られなかった。1920年前後は土居が将棋界で実力一であったためこの頃を「土居時代」とも呼ばれる。1923年には東京将棋連盟の会長に就任。
然しながら、1935年に行われた第一回名人戦では、差し盛りを過ぎており木村義雄が初代実力世名人に就任する。1938年には日本将棋連盟初代会長就任。昭和24年(1949年)に引退。ただし、木村以前の将棋界第一人者であったことを考慮し、昭和29年(1954年)に名誉名人の称号が贈られた。昭和48年(1973年)2月28日に肺癌のため死去。葬儀は将棋連盟が主催した。
なお、名人位に就くことなく名誉名人号を送られたため、後に升田幸三が誉名人号をいやがり、実力世第四代名人という称号が作られた。
また、土居が好んで指したことから、矢倉の一種に彼の名前を冠した土居矢倉がある。
関連項目
- 0
- 0pt