劉岱とは、後漢末期の武将、政治家である。字は公山。三国志において同姓同名同字の人物が二人いるため、ここではその二人とも取り扱う。
なお、字については岱が泰山を意味するために山を、長男であったために公をつけたことでたまたま一致したと考えられている。
他に三国時代末期~西晋の武将で劉沈の父がいるが、ここでは割愛する。
青州東莱郡出身の劉岱
生年不明、没年192年。揚州刺史、後に揚州牧を務めたが孫策に打ち破られたことで知られる劉繇の兄である。
元は侍中だったが、董卓が権力を掌握した後は兗州刺史となった。袁紹を盟主とする反董卓連合の結成の呼びかけに呼応するも、酒宴ばかりで積極的に戦うことはなかったようである。また、同じく反董卓連合に参加した橋瑁と対立し、殺害している。
袁紹と公孫瓚の双方と親しかったため、袁紹の家族と公孫瓚の騎兵が劉岱のもとにいた。この二人が対立した際、公孫瓚から袁紹の家族を差し出すよう要求されたが、程昱からの助言により拒否したということが程昱伝に記されている。
青州の黄巾残党が兗州に侵攻してきたときに防衛のため出陣したが、かなわず討ち死に。兗州刺史はその後曹操に継承されることになった。
徐州沛国の劉岱
生没年不明。記述が少ないため詳細はほとんど不明。
曹操配下であり、小沛で独立した劉備を攻撃したものの敗北したこと、司空長史となり、後に列侯に封ぜられたことのみが分かっている。
三國志演義における劉岱
兗州刺史として反董卓連合に参加。橋瑁とは兵糧の問題で対立し殺害した。
青州の黄巾残党が兗州に侵攻してきたときに敗北するも、殺害されることはなく曹操の家臣となる。
小沛で独立した劉備を攻撃したものの敗北し張飛に捕縛され、後に釈放。曹操の怒りを買い、降格処分を受けた。
これを見れば分かる通り、二人の劉岱が合体した人物となってしまっている。出身が違うし、東莱郡出身の劉岱は没年もはっきりしているにもかかわらずである。これに関しては、同姓同名同字であり、どちらも兗州周辺が活躍の場であったことから混同されたものと考えられている。
関連項目
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