一年くらい前から、Twitterやはてブなどで「かわいそうランキング」という単語を目にする機会がある。TLなどに流れてくるのをざっと見た感じでは、「反ポリコレ」「反フェミニズム」、「弱者男性論者」といったクラスタの人々が特によく用いる単語であるようだ。「かわいそうランキング」という言葉のそもそもの提唱者は白饅頭氏であるようだが(有料記事であるため私は未読)、白饅頭氏の議論をまとめた街河ヒカリ氏の定義によると、「かわいそうランキングとは、弱者救済の優先順位や弱者救済にかける質量が決定されるときに使われる序列であり、人から「かわいそう」という感情を抱かれる弱者ほど上位に置かれ、「かわいそう」という感情を抱かれない弱者ほど下位に置かれる。また、かわいそうランキングには人の認知バイアスが伴う。」という現象や概念を指す単語であるらしい。
人々が弱者を救済する運動を行う際や社会問題について考慮する際、あるいは社会政策を決定する際や募金先を選ぶ際などに理性ではなく感情を重視した判断をしてしまい、そのために共感を引き起こしやすい属性を持つ存在は手厚く配慮される一方でそのような属性を持たない存在に対する配慮は不当に少なくなるといった問題、また、感情移入をしやすい少数に対して配慮が集まる一方で感情移入が難しい多数に対する配慮が集まらないという問題は、欧米の倫理学や道徳心理学などの業界でも以前から議論されてきた。「大勢の人が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時よりも、一人の少女が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時の方が寄付金が集まりやすい」という「身元が分かる被害者効果」についてのポール・スロヴィックの議論は有名である。私のこのブログでも、「心理学者ポール・ブルームの反・共感論」という記事で、感情に基づいた判断は理性に基づいた判断に比べてバイアスがかかっているために救済の対象が偏ってしまう・救済の仕方が恣意的で非効率なものになってしまう、という議論を紹介したことがある。倫理学者ピーター・シンガーによるブルームの本の書評記事(「共感の罠」)でも同様の議論がされている。また、別サイトではシンガーによる「効果的利他主義」の主張のあらましを紹介した(「オペラの素晴らしさか、生命を救うことか?選択するのは貴方だ」)。スロヴィックやブルームやシンガーが問題視している事柄と、「かわいそうランキング」という概念が問題視している事柄は、一見した感じでは共通しているように思える。
しかし、Twitterなどで散見した限りでは、「かわいそうランキング」という言葉を用いる人の多くは『「女性」「LGBT」「人種的マイノリティ」という属性を持つ人たち(場合によっては「イルカ」や「猫」など人間からの人気が高い動物も含まれる)に対する救済が、「弱者男性」や「日本人の庶民」に対する救済よりも優先されていること』という現象のみを問題視してその言葉を用いることが多いようだ。一方で、ブルームやシンガーなどの議論では『自国民に対する救済が外国人に対する救済よりも優先されること』や『人間に対する救済が動物に対する救済よりも優先されること』も問題視され、批判されることになる。
この違いは、「かわいそうランキング」の議論ではあくまで「かわいそう」という感情だけが問題視されているのに比べて、ブルームやシンガーの議論では広い範囲での「共感」や「感情」が問題視されている、ということから生じているように思われる。「かわいそうランキング」の議論では、主に女性やマイノリティといった「わかりやすい弱者」に対して湧く「かわいそう」という感情だけが、恣意的で非合理的なものであると批判され、弱者男性といった「わかりづらい弱者」に対しても配慮せよと説かれる。一方で、ブルームやシンガーの議論では、たとえば「愛国心」や「身内贔屓」といった感情も、「かわいそう」という感情と同様に恣意的で非合理的なものであるとされる。感情を排して理性的に考えれば、自国民の救済を外国人の救済よりも常に優先する理由はないし(特に、一般的に途上国や紛争地帯の人々は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える外国人の数は同額の金額で救える自国民よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、外国人の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)、人間の救済を動物の救済よりも優先する理由はない(特に、一般的に家畜などの動物は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える動物の数は同額の金額で救える人間よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、動物の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)。自国民の救済や人間の救済を優先であると私たちが判断しがちなのは、理性に基づいて考えた結果ではなく、自分が属する集団や生物種を優先すべきだという感情(あるいは、外国人嫌悪や食欲などの感情)に基づいたものであるかもしれない。となれば、「かわいそう」という感情に基づいた判断が疑われて批判されるべきであるのと同じように、それらの判断も疑われて批判されるべきであるだろう。
特にシンガーの「効果的利他主義」の議論に慣れ親しんだ身からすれば、「かわいそうランキング」という単語を用いる人たちの多くが「“かわいそう”とされないために救済の手が差し伸べられない弱者男性や日本人マジョリティ」へ救済を施すことを熱心に主張するわりに、(「かわいそう」以外の感情のために救済の手が差し伸べられない)外国人や動物に対する救済については冷淡であったりむしろ批判的であるのは、かなり恣意的で都合のよい話であるように思える。「かわいそう」という感情だけを批判の対象として、身内贔屓などのその他の感情を不問にすることを正当化するのは難しいだろう。