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【特集】「掃除をするのもアート––––ミエレル・レーダーマン・ユケレスから見た1970年代の政治と芸術の可能性」菅原伸也

ハンス・ハーケの二つの作品

1970年代の劈頭を飾る、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「インフォメーション」展に、ハンス・ハーケは《MoMA世論調査》を出品した。それ以前は生物学やシステム理論に関心を持ち、《結露するキューブ》(1963-65)のように自然のシステムや物理的プロセスに関わる作品を制作していたハーケは、本作において初めて、本格的に政治的な作品に乗り出したのである[1]。展示室の壁に沿って縦長の透明なアクリルの箱が二つ並べられ、「ロックフェラー知事がニクソン大統領のインドシナ政策を非難していないことは、あなたが11月に彼に投票しない理由になるでしょうか」という質問がその壁に掲示されており、それに対して観客はイエスかノーのどちらか一票をアクリルの箱に投ずることができた。当時はいわゆる「ベトナム戦争時代」(1960年代後半から1970年代前半)であり、1970年4月にはアメリカ軍がカンボジアに侵攻し、それに対して抗議活動を行なった学生に向けてオハイオ州兵が発砲して4人の学生が死亡する「ケント州立大学銃撃事件」が5月に発生するなど、まさに動乱の時代であった。この質問内にある「インドシナ政策」とは、周辺地域も含めたアメリカによるベトナム戦争の遂行のことを指しており、「ロックフェラー知事」とは、当時のニューヨーク州知事であり11月に再選を控えていたネルソン・ロックフェラーのことである。ロックフェラーは、ベトナム戦争への支持を表明しており、加えてMoMAの理事でもあった。そうした重層的な状況においてハーケは、ロックフェラーのベトナム戦争支持に対する批判をほのめかす《MoMA世論調査》を当のMoMAにおいて展示し、美術館理事の政治性や館内で理事が持つ大きな権力や影響力を問うたのであった。

その4年後、ハーケは再び美術館理事に焦点を当てた作品を制作する。1971年にハーケはニューヨークのグッゲンハイム美術館で大きな個展を開催する予定であった。しかし、《シャポルスキー他マンハッタン不動産ホールディングス、リアルタイム社会システム、1971年5月1日現在》(1971)(以下《シャポルスキー他》)を含む作品2点の展示を、美術作品の「中立性」を害するとの理由でトーマス・メッサー館長から拒否され、ハーケと担当キュレーターのエドワード・フライはそれを受け入れなかったため、個展は中止となりキュレーターは解雇された。その事件を一つのきっかけとして、ハーケは1974年に、まさにそのグッゲンハイム美術館の理事を取り上げた《ソロモン・R・グッゲンハイム美術館理事会》という作品を制作したのである。1973年9月11日に南米チリで、CIAを後ろ楯にアウグスト・ピノチェト将軍率いる軍部によってクーデターが勃発し、社会主義的な政策を進めていたサルバドール・アジェンデ大統領はその中で死亡することとなった。CIAが介入した要因として、アジェンデ大統領の政策によって銅鉱が国有化され、そのためアメリカ企業ケネコット社が大きな損害を受けたという出来事があった。本作においてハーケは、グッゲンハイム美術館の理事たちが、そのケネコット社と深い関係を持っていたことを暴き出したのである。

これら二つの作品を見てわかるように、ハンス・ハーケは、美術館や美術作品が社会や周囲の環境から自律し中立的に存在するというモダニズム的な幻想を脱神話化しようと試みていた。《MoMA世論調査》では、ネルソン・ロックフェラーが、MoMAにおいて理事として大きな役割を果たす一方、政治家としてニクソン政権のインドシナ政策を強く支持していることを投票という形式を利用して露わにし、《シャポルスキー他》では、グッゲンハイム美術館の理事たちが、チリのクーデターに関与したケネコット社と密接な結びつきを持っていることを暴露した。それによってハーケは、美術館で大きな力を有している理事たちが政治的に問題のある人々であり、美術館がそうした人々の政治的影響下にあって、実際のところ、まったく自律的でも中立的でもないことを明らかにしたのである。

このように、ハーケにとって美術館は決して、外部から切り離されている閉じたシステムではない。実は、《MoMA世論調査》以前に制作された自然のシステムや物理的プロセスに関わる作品において、これら二つの作品に見られる構造がすでに先駆的に提示されていた。《結露するキューブ》は、透明なアクリル板でできた小さいキューブを、少量水を注入した上で展示室内に置き、キューブの内外での温度差によって内部の水が蒸発したり結露して内部の壁の上を流れたりして変化する様子を見せる作品である。すなわち、キューブの内部は、その外部である展示室にいる観客の数や密度によって左右され、外部の状況を反映する。したがって、《MoMA世論調査》と《シャポルスキー他》で言えば、《結露するキューブ》の透明なキューブは美術館の展示室に、その観客たちは理事たちに対応し、外部にいる人々が内部に影響を与えていることを明らかにするという点において両者は構造上共通しているのである。

 

制度批判に内在する男性主義に対するミウォン・クォンの批判

だが、ハーケによって代表されるいわゆる「制度批判(institutional critique)」という動向に実は男性主義が内在していることを巧みに指摘したのは、アメリカの美術史家ミウォン・クォンであった。クォンはまず「私は、制度批判に関する言説の多くに独善的な調子があることをいつも疑問に思ってきた」[2]と述べ、こう続けている。

 

1970年代初期に登場した制度批判の多くの形態は、美術館建築の白さという不可侵のように思える条件を物理的そして象徴的に侵犯し、白い肌の下へ「貫通」しその物理的支持体だけでなくイデオロギー的機能を露わにすることによって、美術館の観念主義的な神秘主義に異議を唱えた。美術館空間と一般的に結びつけられる中立性や純潔、永続性といった性質は、美術館という制度が自己を定義し正当化する際に基礎をなすものであるが––––その建築の白い表面という化けの皮を剥ぐことを通して––––神話にすぎないとしてその仮面が剥がされた。[3]

 

ハーケの作品もまた、美術館の壁の向こう側に隠れている政治的に問題のある理事たちを露わにし美術館のイデオロギー的機能を裸にすることによって、中立性や純潔の象徴である白い壁を「貫通」して汚しているという点において、同様にマチスモのようなものをそこに見出すことが可能だろう。

クォンは、このように制度批判の持つ男性主義を批判した上で、それに対するオルタナティヴとなる活動を行なうアーティストに言及する。

 

こうした抑圧的な白さの押しつけに攻撃的なやり方で(それを汚すことによって)対抗する代わりに、それをきれいにすることを選ぶアーティストについてはどうなのか。美術館に関する内密の「真実」を暴露する代わりに、その公の顔を洗い、ごしごしこすり、磨く——その汚れのない完璧さという幻想を維持する——ことを決心するアーティストは。[4]

 

そうしたアーティストとしてクォンが名を挙げるのが、ミエレル・レーダーマン・ユケレスである[5]。

 

ミエレル・レーダーマン・ユケレスのメンテナンス・アート

ユケレスは特に1970年代前半には、制度批判に対してフェミニズム的介入を行なうことで、制度批判とフェミニズムとが交差する地点で活動していたアーティストである。ユケレスにとって最も大きな転換点は、結婚と出産を経験したことであった。時間の半分を赤ん坊の母親という役割に、もう半分は、赤ん坊を他の人に世話してもらって、アーティストという役割に割くことを強いられて、子育てとアーティスト活動との衝突によって自らが引き裂かれたことを、「私は、一つの身体でありながら二人の別の人間であるように感じた」とユケレスは表現している[6]。アート制作が、自らに押しつけられた子育てによって妨げられているように思ったのである。しかしある晩、大いなる怒りから、「私はメンテナンスを選び、メンテナンスを「アート」と名づける。変わらなければならないのはアートである」[7]というひらめきを得て、家事労働やケア労働といったメンテナンス活動を女性との伝統的な結びつきから切り離しつつ、アーティスト活動にとって重荷でしかないと思っていたメンテナンス労働をアートとして展開することを決心した。そうしたアート概念のラディカルな転換を初めて公に表明したのが、「メンテナンス・アート宣言1969! 「ケア」展の提案」(1969)という、タイプライターで執筆されたA4四枚からなる宣言文の作品である。そこでユケレスは、「私が労働することが作品となる(My working will be the work)」と高らかに謳っている。

 

ユケレスによる、美術館でのメンテナンス・アート・パフォーマンス

『アートフォーラム』誌に掲載された「メンテナンス・アート宣言」を読んで興味を持ったルーシー・リパードからの依頼で、ユケレスは、26人の女性アーティストを集めたリパード企画の展覧会「c. 7,500」(1973-74)に参加した。ユケレスは、展覧会で作品を展示することに加えて、自らの提案によっていくつかの巡回先で、「メンテナンス・アート・パフォーマンス」と自ら称するものを行なうこととした。最初に、2番目の巡回先であるワズワース・アシニアム美術館で四つのパフォーマンスを展開し、そのうちの二つ《洗浄/足跡/メンテナンス:外部》と《洗浄/足跡/メンテナンス:内部》(1973)において、開館時間中に美術館の内外を清掃することによって、家庭でのメンテナンス労働を美術館の制度にまで拡張した。ユケレスはまず、モップとバケツ、布切れを用いて、たびたび画家のような派手さでモップを振り回し、時には四つん這いになりながら、美術館の前にある広場全体を洗った。さらに、美術館の玄関へと続く階段を洗浄し、階段の上に布切れを並べて残った水を吸収させた。それから、ユケレスは美術館の内部へと移動し、エイブリー・コートにおいて、来場者たちの後を這って追い回しながらその足跡を洗浄し拭き取った[8]。

先述のようにハンス・ハーケの作品は、自律性と中立性の場であるとされてきた美術館において、壁の向こうの隠れたところで大きな影響力を行使している理事たちが実は政治的に問題のある人々であることを暴露することによって、白く美しい展示室の壁を象徴的に汚した。それとは反対にユケレスは、壁の向こう側ではなくむしろその手前において美術館を清潔に保っているメンテナンス労働に光を当てたのである。美術館を清掃するといったメンテナンス労働は開館時間外になされる場合が多く、たとえ開館時間中に行われたとしても、そうした労働やその作業員に目を向ける者はほとんどいないため、不可視化されていてその地位や賃金は低い。ユケレスはあえて美術館が通常開館している最中に、アート・パフォーマンスとして美術館の内外で清掃や洗浄を行なうことによって、そうした労働を可視化し地位を高めようとしたのである。ハーケは、真っ白な壁の向こう側で暗躍している権力者の理事たちを暴き立てるという行為に夢中で、本当は見えているはずなのに見えなくなっているその手前の労働や人々(多くの場合女性や移民、労働者階級の人々)に対する視線を欠いている。そうした意味でユケレスのこれら二つのパフォーマンスは、メンテナンス労働を不可視化する美術館の制度に対する批判であると同時に、ハーケのような男性主義的な制度批判に対するフェミニズム的な介入であると言えるだろう。

ワズワース・アシニアム美術館でのパフォーマンスをもう一つ検討することにしたい。前者二つのパフォーマンスの2日前に行われた《転移:美術品のメンテナンス:ミイラのメンテナンス:メンテナンス・マンとメンテナンス・アーティスト、美術館コンサヴァターとともに》には、ユケレスだけでなく美術館のメンテナンス作業員とコンサヴァターも参加した。まずユケレスは、エジプトの女性ミイラが中に入ったガラスケースを選び、メンテナンス作業員にいつものようにそれをきれいにしてもらった。そして、清掃道具(スプレーと布切れ)を作業員から受け取って、「ダスト・ペインティングを行ないます」と宣言してから、作業員とまったく同じようにガラスケースの清掃を行なった。それが終わると、ユケレスは、自ら作成した「メンテナンス・アート・ワーク」スタンプをガラスケースと使用したすべての布切れに押し、その行為によってそれらはアート作品となった。すると、コンサヴァターはすぐにコンディション・レポートを作成した。そしてメンテナンス作業員はアート作品に触れたりそれを清掃したりすることはできない規定があるため、コンサヴァターがメンテナンス作業員に代わって同じようにガラスケースを清掃した[9]。

上述のようにユケレス自身が、スプレーと布切れを用いてこのガラスケースをきれいにしたことを「ダスト・ペインティング(埃拭き絵画)」と呼んでいることからして、マルセル・デュシャンとマン・レイによる《埃の培養(ダスト・ブリーディング)》(1920)を意識していると考えることが可能だろう。実際、デュシャンはユケレスにとってつねに大いなる参照先であった。ここでユケレスはデュシャンへの批判として、あえて正反対のことを行なっている。《埃の培養》は、デュシャンがのちに《大ガラス》(1915-23)の一部となるガラス板の上に埃が堆積するがままにしておいたのをマン・レイが撮影したものである。したがって、そこには、デュシャンがガラス板をほったらかしにして長い間掃除しなかったというメンテナンス労働の欠如を明らかに見て取ることができるだろう。他方ユケレスは、ミイラの入ったガラスケースに付着した埃を拭き取るというメンテナンス作業を「ダスト・ペインティング」というパフォーマンス作品として披露し、そうした労働の重要性を強調したのである。

 

掃除せずに散らかし汚すアヴァンギャルド・アーティストたち

アメリカの美術史家ヘレン・モールズワースは、「埃の培養」というデュシャンの「怠惰」に「掃除をすることへの拒否」を見出し、さらにジョージア・オキーフがニューヨークにあるデュシャンのスタジオを訪れた時の証言を引用している。

 

部屋の真ん中に多くのものがあり、至るところが埃でとても厚く覆われていて、信じがたいほどだった。埃を被ったこの場所に非常に腹が立ち、次の日に来て掃除したいくらいであった。[10]

 

オキーフによれば、《埃の培養》と同様に、実際のデュシャンのスタジオもその全体が散らかっていて埃に覆われていたというのである。モールズワースは、家庭空間のテイラー主義的効率化への抵抗としての労働の遅延をデュシャンのこうした「怠惰」に見出し肯定的な評価を下している。しかしながら、むしろ私たちはデュシャンに、メンテナンス労働への忌避を、そして維持管理を行わずにほったらかしにするというマッチョな態度を見て取ることができるのではないだろうか。

振り返って考えてみるならば、デュシャンに限らず多くのアヴァンギャルド・アーティストたちに、同じようなメンテナンス労働の忌避、さらにはあえて汚したり散らかしたりするといった行為を発見することができる。先ほど《洗浄/足跡/メンテナンス:外部》に関して「たびたび画家のような派手さでモップを振り回し」たと述べたが、ユケレスは、「メンテナンス・アート宣言」において「床を掃除しワックスで磨く」ことを「フロア・ペインティング」と呼んでいたことと合わせて考えるならば、《洗浄/足跡/メンテナンス》の二つのパフォーマンスにおいてジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」を意識し、それに対する批判を試みていたと考えられる。周知のように、ポロックはポーリングやドリッピングといった手法を用いた作品において、生のキャンバスを床に置き、薄く溶いた絵の具だけでなくタバコの吸い殻、ゴミ屑などをその上に撒き散らした。批評家のロザリンド・クラウスはそうした行為に、「水平性という状態の「低級さ」」[11]を読み取り高く評価している。他方ユケレスは、モップを振り回すという「アクション・ペインティング」さながらの身振りをしながらも、液体やゴミを撒き散らすポロックとは正反対に掃除を行ない、メンテナンス・アートというオルタナティヴなアートのあり方を提示しつつメンテナンス労働の重要性を示した。むしろ四つん這いになって懸命に床を拭くユケレスにこそ、ポロックとは別の「水平性という状態の「低級さ」」を見て取ることができるはずだ。

クラウスとイヴ=アラン・ボワが『アンフォルム 無形なものの事典』において、デュシャンやポロックに連なるアーティストとして評価する人々には、例えば、床置きのキャンバスに小便を撒き散らしたり(アンディ・ウォーホル《酸化絵画》シリーズ)、糸くずをばら撒いたり(ロバート・モリス《無題》(1968))、斜面にアスファルトを流したり(ロバート・スミッソン《アスファルト・ランダウン》(1969))と、既存の物をメンテナンスしてきれいに保つどころか、逆に当てつけのようにして汚したり破壊したり物を撒き散らしたりする者が多い。メンテナンス・アートという観点を通して見ると、アヴァンギャルドの歴史は、さまざまなやり方で物を汚し毀損してきた歴史であったかのように思えてくる。そして、クラウスとボワのような批評家たちは批評や理論という立場から、エントロピーや重力、水平性といった抽象的な概念を駆使して、これらの散らかし汚すアーティストたちに対してお墨付きを与え続けているのである。

 

なぜメンテナンス労働は嫌われるのか

そもそもなぜこれらのアーティストや批評家たちはそれほどまでにメンテナンス労働を嫌い、汚すことに喜びを覚えるのであろうか。メンテナンス労働は、決して終わることのない繰り返しの労働である。そのため、地味で退屈に思われがちであり、それゆえ忌み嫌われ低い評価を与えられている。特に家事労働といったメンテナンス労働は、伝統的に女性と結びつけられ、実際に女性がその多くを担うことを強いられてきた。すなわち、メンテナンス労働はジェンダー化されており、不当にも「女性的な労働」として広く認識されてきたのである。

ジョルジュ・バタイユを最大の理論的参照項とする『アンフォルム』では、バタイユの「埃」という短文が二度も引用され重要な役割を果たしているが[12]、「埃」でバタイユは次のように書いている。

 

物語作家たちは、眠れる森の美女が、厚い埃の層に包まれて目覚めたとは想像しなかった。彼女が動き始めたときに、その赤毛が引き裂いた不気味な蜘蛛の巣のことも、彼らは考えなかった。[中略]「万能女中」である太った女の子たちが、毎朝、大きな羽箒や電気掃除機さえも持って武装するとき、おそらく彼女たちは、もっとも実証的な知識人と同じように、清潔さと論理に吐き気を覚える有害な亡霊を、自分が遠ざけているのをおそらくまったく知らないわけではない。しかし埃は残り続けるのだから、いつの日かきっと、見捨てられた建物や人気のない倉庫の広大な瓦礫を満たして、おそらく家政婦たちに勝利し始めるだろう。そしてその遠い未来には、夜の恐怖から救い出してくれるものは、もはやなにも残らないだろう。[13]

 

ここでも、掃除というメンテナンス労働が「女中」や「家政婦」といった女性と結びつけられていることは指摘するまでもないだろうが、このように埃は、横たわった女性の身体を上から覆い、いくら抵抗されようとも女性たちに対して確実に勝利を収め、無駄なことはせず女性たちがただ身を委ねるべきものとして描かれているという点において、強く「男性性」を帯びている。デュシャンやポロックなどのアーティストたちも同様に、たとえ無意識だとしても、メンテナンス労働とは真逆の汚損行為をあえて行ない、そうした労働と結びつけられてきた「女性性」を汚し否定することによって、自らの「雄々しさ」を誇示し証明しようとしていると言えるのではないか。『アンフォルム』においてアーティストたちのこうした行為を称賛する際に用いられる、エントロピーや重力、水平性といった批評概念もまた、同様の視点から再検討を加えられるべきであろう。

 

結論

繰り返される地味なメンテナンス労働と比べて、先述のアーティストたちのように汚したり壊したりする行為は、確かに派手で勇ましく、はるかに魅力的であるように思えるかもしれない。隠された汚点を曝け出し、象徴的なやり方で美術館を汚すハンス・ハーケの作品もまた同様である。しかし、日々反復されるメンテナンス労働こそが、美術館だけでなく私たちの生活を支えているのである。「女性的な労働」や繰り返される退屈な労働を忌避する「自律的」なアーティストたちもまた、生活や生命を維持するためには他の人々(多くの場合女性)のメンテナンス労働に実際のところ依存しているのであって、そうした事実をないものとすることでその「自律性」は確保されている。ミエレル・レーダーマン・ユケレスは、マッチョなアート概念をラディカルに転換し、メンテナンス労働をアートとして行ないメンテナンス労働の重要性を主張することを通じて、アートという枠組みをも超えてメンテナンスの考えを基盤とした社会の可能性を示したのである。

 

[1]ハンス・ハーケに関しては主に、以下の文献を参照。ベンジャミン・H・D・ブークロー「1971 初期の制度批判」平芳幸浩訳『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』東京書籍、2019年。ジュリア・ブライアン=ウィルソン「ハンス・ハーケの事務仕事」長谷川新訳『アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』フィルムアート社、2024年。

[2]Miwon Kwon, “In Appreciation of Invisible Work: Mierle Laderman Ukeles and the Maintenance of the White Cube,” Documents, no. 10 (Fall 1997), p. 15. 拙訳。以下同様。

[3]Ibid.

[4]Ibid., pp.15-16.

[5]ユケレスに関しては、クォン論文に加えて以下の文献を参照。Patricia C. Phillips, Mierle Laderman Ukeles: maintenance art (New York: Prestel, 2016)。さらに、主にこの展覧会カタログに依拠しつつユケレスについて書かれた日本語文献として、伊東多佳子「革命の後、月曜の朝に誰がゴミを拾いに行くのか?」『GEIBUN : 富山大学芸術文化学部紀要』第12巻、2018年がある。

[6]Toby Perl Freilich, “Blazing Epiphany: Maintenance Art Manifesto 1969! An Interview with Mierle Laderman Ukeles,” Cultural Politics, Volume 16, Issue 1 (March 2020), p. 16.

[7]Ibid.

[8]Patricia C. Phillips, op. cit., p.60.

[9]このパフォーマンスについては以下のインタビューを参照。“Mierle Laderman Ukeles in conversation with Alexandra Schwartz”(2024/10/24参照) https://www.afterall.org/articles/mierle-laderman-ukeles-in-conversation-with-alexandra-schwartz/

[10]Helen Molesworth, “Work Avoidance: The Everyday Life of Marcel Duchamp’s Readymades,” Art Journal, Vol. 57, No. 4 (Winter 1998), p. 59.

[11]ロザリンド・E・クラウス「水平性」加治屋健司訳『アンフォルム 無形なものの事典』月曜社、2011年、110頁。

[12]『アンフォルム』、37頁、255頁。

[13]ジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』江澤健一郎訳、河出書房新社(河出文庫)、2014年、98〜100頁。