相変わらず猛暑が続いてはいるけど、8月も今日で終わり。
子供達は、夏休みを満喫したことだろう。
来春の受験やその先を見据えて、勉強漬だった子もいただろうけど。
大人の場合は、夏休みがとれた人もいれば、とれなかった人もいそう。
また、“夏休み”とは名ばかりで、家族サービスや所用のため、仕事のときよりも疲れを抱えた人もいそうだ。
電車の座席、車の運転席、公園のベンチetc・・・疲れきっているおじさん達の姿が、あちらこちらで見受けられる。
そして、その姿には、頷けるものがある。
日本人(大人)の夏休みは、平均して4日~7日だったらしい。
欧米では、一ヵ月の長期休暇も珍しくないとのことだが、そんなに休んで社会や経済が成り立つことや国際競争力に悪影響がでないことが不思議だ。
そこまでいくと、“羨ましい”を通り越して、危機感さえ覚える。
自分がそんなに休んだら、怠け心に歯止めがかからなくなって人間がダメになるに決まっているから。
昨年の私は、6月~9月の間、休みはほとんどとらなかった。
それはそれで収穫はあったものの、何だか、働くことに意地になっていたようにも思える。
しかし、今年は、そのスタンスはやめた。
あることに気づいて、休めるときは休むことにしたのだ。
結果、6月は2日、7月は5日、8月は2日の休みをとった。
そして、色んなところに出掛けて、違う時間を美味しく味わった。
前にも書いた通り、例年になく、この夏は朝欝が深刻。
したがって、休暇明けの朝欝は重いかと思いきや、意外とそうではなかった。
仕事に行くのが億劫ではあったけど、“頑張ろう”という気持ちの方が勝り朝欝を抑えてくれた。
これは、自分でも意外だった。
多分、自分の力が及ばないところで、感性や感覚が変えられているのだと思う。
これが、人としての成長や生きるうえでの力が増すことにつながっていれば、なによりである。
「大変なお仕事ですね」
現場で会う依頼者や関係者から、よくそう言われる。
それは、言葉としては、労いの意味を持つ。
ただ、その言葉の裏に、私の仕事を奇異に思う心情が見え隠れすることが珍しくない。
実のところ、言葉や態度にださないだけで、私のことを奇異に思い、気持ち悪く感じる人は少なくないと思う。
単なる嫌悪感や不快感・恐怖感とは違う、気持ち悪さを感じるのだろうと思う。
私は、そんな感覚を抱く人達を批難するつもりはない。
また、批難できるものでもない。
そう感じ・そう思ってしまうことは、仕方がないことだから。
そして、立場が換われば、私だって同じ感情を抱くだろうから。
とにかく、その辺のことは、あまり気にしないようにしている。
たまに、腹に収めきれず、仲間に愚痴ってしまうことはあるけど。
確かに、この仕事は楽ではない。大変なことは多い。疲れも重い。
しかし、大変なのは、私の仕事ばかりではない。
そして、疲れているのも私だけではない。
仕事なんて、もともと大変なもの。そして、疲れるもの。
その種類や重さが違うだけで、人それぞれが重荷を背負っている。
その中で、皆が頑張っているわけだ。
街の人々を見れば、それが一目瞭然。
多くの人が、色んな職種・色んな職業で奮闘している。
自分のため・家族のため、生活のため・生きるため、一生懸命働いている。
そしてまた、多くの人が、疲れている。
労働に、人間関係に、生活に・・・
単独行動が多いせいか、私は、労苦しているのは自分一人のように錯覚してしまうことある。
また、いらぬ思い煩いが多いため、生きることにしばしば疲れてしまう。
だから、ついつい、人の不幸や苦悩に目を向け、それを自分への励ましや癒しにしてしまう。
低次元の誤魔化しでしかないとわかりつつも、この思考性は古くから抜けない。
この仕事を始める動機ともなった、私の悪い本性だ。
「いつかは、陽の目が見れますよ」
「いつかは、いいことがありますよ」
等と、私が何を言ったわけでもないのに、依頼者や関係者に励まされることもある。
他人から見ると、私は“不幸な男”に映るらしく、そんな言葉をかけてくる。
どうも、私のやっている仕事が、私を不幸者に映してしまうよう。
人前でハツラツとしていても、人にそう映ってしまうことが、何だかおかしく思える。
私は、不幸な男だろうか・・・
“世界一の幸せ者だ”と威張れはしないけど、自分では、結構な幸せ者だと自負(勘違い?)している。
だって、幸せに思えること・幸せに感じられることは、身の回りにたくさんあるから。
過酷だろうが、汚かろうが、こうして働けることも幸せの一つ。
仕事ができなくて苦しむより、仕事が過酷で苦しむ方がずっといいと思っている。
大学生・高校生の就職率が、悪かった昨年にも増して深刻な状況にあるという。
何もかも時代や時勢のせいにばかりするような人に未来は開けないような気はするけど、
それを勘案しても、今の学生は気の毒だ。
仕事に就きたいのに就けない、仕事がしたいのにできない・・・
これは、学生に限ったことではなく、その苦境にある人は、世の中に多くいる。
そして、その苦しみが大きいものであることは、容易に推察できる。
私は、それが、本人の生活だけでなく命まで脅かす要因になること、そしてまた、関係者の人生を狂わせてしまうのを、幾度も目の当たりにしてきているから。
私は、多くの人が嫌悪し恐怖する、腐乱死体現場の片付け屋。
特別な目で見られることもやむなしか。
多くはないけど、私に聞こえていないつもりで交わされる心無い会話が聞こえてくるときがある。
態度や言動の露骨さに、反応に困ることもある。
私のことを、“普通の仕事に就けない特別な事情がある”“奇人・変人”“変わった趣味・志向がある”等と思う人も少なくないだろう。
そんな境遇に、悲しく・悔しい思いをすることがある。
それでも、この労苦は、感謝と喜びに値するものと思っている。
この仕事は、“将来の夢”だったわけではない(っていうか、“職業”としてなかった)。
それどころか、将来、こんな仕事に就くことになるなんてことは、夢にも思っていなかった。
今だって、たいした志があるわけでもなく・・・まぁ・・・生きるために“なりゆき”でやっているわけで・・・
だから、誇れることなんて何もない。
ただ、自分でプライドを持ちたいのは、自分にこの仕事が自分に与えられたこと・続けることができたこと、そして、こうして続けることができていること。
更に、誰もが嫌がる腐敗汚物を、自分の中で人に昇華できるようになったこと。
しかし、それもこれも、根本的に、自分の力で成していることではないと思う。
私は、そこまで力と知恵がある人間ではないから・・・
とてつもなく、弱い人間だから・・・
それでも、こうして命がある。人生を歩いている。
その不可解な幸せを想うと涙がでる。
人前で涙を流すことは少ないけど、一人の特掃時・一人の車中etc・・・涙が流れて仕方がないときがある。
そして、その涙もまた、私を生かし、生きていることを証しているのだろう。
死体業に就いたときは、自他共に認める“お兄さん”だった私。
それが、それから18年経つ今では、自他共に認めざるをえない“おじさん”になっている。
頭と精神はまだしばらくもちそうだけど、体力がどこまでもつものか・・・
体力の限界が近づいていることを、ヒシヒシと感じさせられている。
今夏の猛暑を差し引いても、身体能力が衰えているのが明らかにわかる。
そして、それが、将来への不安感となって、いつも私に重くのしかかっている。
「俺、一生、この仕事かなぁ・・・」
自分に訊いてみた。
「“違う!”とは言えないよな・・・」
答えたくなかったが、そう答えるしかなかった。
「やっぱり・・・そうか・・・」
自分でもわかっていた。
「フフ・・・」
苦笑いするしかなかった。
「とにかく、今を頑張るしかない!」
そう、自分に言いきかせた。
思いつくがまま、とりとめのないことを書き連ねたけど、とにもかくにも、“働くおじさん”は今夜もアルコール燃料を注入して、明日もガンバルつもりなのである。
公開コメントはこちら
子供達は、夏休みを満喫したことだろう。
来春の受験やその先を見据えて、勉強漬だった子もいただろうけど。
大人の場合は、夏休みがとれた人もいれば、とれなかった人もいそう。
また、“夏休み”とは名ばかりで、家族サービスや所用のため、仕事のときよりも疲れを抱えた人もいそうだ。
電車の座席、車の運転席、公園のベンチetc・・・疲れきっているおじさん達の姿が、あちらこちらで見受けられる。
そして、その姿には、頷けるものがある。
日本人(大人)の夏休みは、平均して4日~7日だったらしい。
欧米では、一ヵ月の長期休暇も珍しくないとのことだが、そんなに休んで社会や経済が成り立つことや国際競争力に悪影響がでないことが不思議だ。
そこまでいくと、“羨ましい”を通り越して、危機感さえ覚える。
自分がそんなに休んだら、怠け心に歯止めがかからなくなって人間がダメになるに決まっているから。
昨年の私は、6月~9月の間、休みはほとんどとらなかった。
それはそれで収穫はあったものの、何だか、働くことに意地になっていたようにも思える。
しかし、今年は、そのスタンスはやめた。
あることに気づいて、休めるときは休むことにしたのだ。
結果、6月は2日、7月は5日、8月は2日の休みをとった。
そして、色んなところに出掛けて、違う時間を美味しく味わった。
前にも書いた通り、例年になく、この夏は朝欝が深刻。
したがって、休暇明けの朝欝は重いかと思いきや、意外とそうではなかった。
仕事に行くのが億劫ではあったけど、“頑張ろう”という気持ちの方が勝り朝欝を抑えてくれた。
これは、自分でも意外だった。
多分、自分の力が及ばないところで、感性や感覚が変えられているのだと思う。
これが、人としての成長や生きるうえでの力が増すことにつながっていれば、なによりである。
「大変なお仕事ですね」
現場で会う依頼者や関係者から、よくそう言われる。
それは、言葉としては、労いの意味を持つ。
ただ、その言葉の裏に、私の仕事を奇異に思う心情が見え隠れすることが珍しくない。
実のところ、言葉や態度にださないだけで、私のことを奇異に思い、気持ち悪く感じる人は少なくないと思う。
単なる嫌悪感や不快感・恐怖感とは違う、気持ち悪さを感じるのだろうと思う。
私は、そんな感覚を抱く人達を批難するつもりはない。
また、批難できるものでもない。
そう感じ・そう思ってしまうことは、仕方がないことだから。
そして、立場が換われば、私だって同じ感情を抱くだろうから。
とにかく、その辺のことは、あまり気にしないようにしている。
たまに、腹に収めきれず、仲間に愚痴ってしまうことはあるけど。
確かに、この仕事は楽ではない。大変なことは多い。疲れも重い。
しかし、大変なのは、私の仕事ばかりではない。
そして、疲れているのも私だけではない。
仕事なんて、もともと大変なもの。そして、疲れるもの。
その種類や重さが違うだけで、人それぞれが重荷を背負っている。
その中で、皆が頑張っているわけだ。
街の人々を見れば、それが一目瞭然。
多くの人が、色んな職種・色んな職業で奮闘している。
自分のため・家族のため、生活のため・生きるため、一生懸命働いている。
そしてまた、多くの人が、疲れている。
労働に、人間関係に、生活に・・・
単独行動が多いせいか、私は、労苦しているのは自分一人のように錯覚してしまうことある。
また、いらぬ思い煩いが多いため、生きることにしばしば疲れてしまう。
だから、ついつい、人の不幸や苦悩に目を向け、それを自分への励ましや癒しにしてしまう。
低次元の誤魔化しでしかないとわかりつつも、この思考性は古くから抜けない。
この仕事を始める動機ともなった、私の悪い本性だ。
「いつかは、陽の目が見れますよ」
「いつかは、いいことがありますよ」
等と、私が何を言ったわけでもないのに、依頼者や関係者に励まされることもある。
他人から見ると、私は“不幸な男”に映るらしく、そんな言葉をかけてくる。
どうも、私のやっている仕事が、私を不幸者に映してしまうよう。
人前でハツラツとしていても、人にそう映ってしまうことが、何だかおかしく思える。
私は、不幸な男だろうか・・・
“世界一の幸せ者だ”と威張れはしないけど、自分では、結構な幸せ者だと自負(勘違い?)している。
だって、幸せに思えること・幸せに感じられることは、身の回りにたくさんあるから。
過酷だろうが、汚かろうが、こうして働けることも幸せの一つ。
仕事ができなくて苦しむより、仕事が過酷で苦しむ方がずっといいと思っている。
大学生・高校生の就職率が、悪かった昨年にも増して深刻な状況にあるという。
何もかも時代や時勢のせいにばかりするような人に未来は開けないような気はするけど、
それを勘案しても、今の学生は気の毒だ。
仕事に就きたいのに就けない、仕事がしたいのにできない・・・
これは、学生に限ったことではなく、その苦境にある人は、世の中に多くいる。
そして、その苦しみが大きいものであることは、容易に推察できる。
私は、それが、本人の生活だけでなく命まで脅かす要因になること、そしてまた、関係者の人生を狂わせてしまうのを、幾度も目の当たりにしてきているから。
私は、多くの人が嫌悪し恐怖する、腐乱死体現場の片付け屋。
特別な目で見られることもやむなしか。
多くはないけど、私に聞こえていないつもりで交わされる心無い会話が聞こえてくるときがある。
態度や言動の露骨さに、反応に困ることもある。
私のことを、“普通の仕事に就けない特別な事情がある”“奇人・変人”“変わった趣味・志向がある”等と思う人も少なくないだろう。
そんな境遇に、悲しく・悔しい思いをすることがある。
それでも、この労苦は、感謝と喜びに値するものと思っている。
この仕事は、“将来の夢”だったわけではない(っていうか、“職業”としてなかった)。
それどころか、将来、こんな仕事に就くことになるなんてことは、夢にも思っていなかった。
今だって、たいした志があるわけでもなく・・・まぁ・・・生きるために“なりゆき”でやっているわけで・・・
だから、誇れることなんて何もない。
ただ、自分でプライドを持ちたいのは、自分にこの仕事が自分に与えられたこと・続けることができたこと、そして、こうして続けることができていること。
更に、誰もが嫌がる腐敗汚物を、自分の中で人に昇華できるようになったこと。
しかし、それもこれも、根本的に、自分の力で成していることではないと思う。
私は、そこまで力と知恵がある人間ではないから・・・
とてつもなく、弱い人間だから・・・
それでも、こうして命がある。人生を歩いている。
その不可解な幸せを想うと涙がでる。
人前で涙を流すことは少ないけど、一人の特掃時・一人の車中etc・・・涙が流れて仕方がないときがある。
そして、その涙もまた、私を生かし、生きていることを証しているのだろう。
死体業に就いたときは、自他共に認める“お兄さん”だった私。
それが、それから18年経つ今では、自他共に認めざるをえない“おじさん”になっている。
頭と精神はまだしばらくもちそうだけど、体力がどこまでもつものか・・・
体力の限界が近づいていることを、ヒシヒシと感じさせられている。
今夏の猛暑を差し引いても、身体能力が衰えているのが明らかにわかる。
そして、それが、将来への不安感となって、いつも私に重くのしかかっている。
「俺、一生、この仕事かなぁ・・・」
自分に訊いてみた。
「“違う!”とは言えないよな・・・」
答えたくなかったが、そう答えるしかなかった。
「やっぱり・・・そうか・・・」
自分でもわかっていた。
「フフ・・・」
苦笑いするしかなかった。
「とにかく、今を頑張るしかない!」
そう、自分に言いきかせた。
思いつくがまま、とりとめのないことを書き連ねたけど、とにもかくにも、“働くおじさん”は今夜もアルコール燃料を注入して、明日もガンバルつもりなのである。
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