旋律をデザインすることについて考えることが増えた。
旋律は往々にして、日常と記憶の混交がその大きな伏線になっているものなんだな、
と気づき始めている。
例えば今日がそう。やや肌寒く午後まで寝ていて、起きても頭が重くやる気が出ない。
場所を移動してカフェに行く。
音楽だーーそう思ってyoutubeでポルガーシューカイの70sトリビュートっぽい曲を。
https://youtu.be/W-3pj3maYUU
聞いた瞬間、あるイメージに自分の時間が定着する。今が、あたかも例えば年末の、ポッカリ開いた夕刻の、
街中自由タイムのようにイメージづけされるーー全然サンデーモーニングではないけど。
そうなってやっと、つまりイメージ、物語に定置してやっと、今日がちゃんと着色され、肉体が血流を始める。
きっと、何か明確なボタンが押されたんだと思う。
押されるべきボタンがわからないと、心身ともに宙に浮き、そこでは<何も起動しない眠さと気怠さ>が広がる。
よくあることだ。
でも何かが起動すればこの通り、たった2分かそこらで私はこんな量の文章を書いている。
そういうものなのだ。
この起動要因を、サラリーマンなら会社通勤というトリガー、家族サービスというトリガーできっと代用してきたのだろう。
でも時代意識の変容、エピステーメの変更によってそのトリガーはうまく使えなくなるのかもしれない。わからない。
でも自分自身がちゃんと、この起動トリガーや「ボタン押し」に覚醒的であることはかなり大事だ。それはセルフコンフィデンスにつながる。
さて今日はどのスイッチを押そうか?それは大体気まぐれで偶然。まあ、youtubeのプレイリストでどの曲を再生させるか、みたいなもの。
いや待てよ、、
youtubeの曲のリストでどの曲を再生させるかによって、その日最初に押されるボタンは決まる。確かにそれはそうだ、当たり前だけどそう。
そこから旋律が始まるよね。プレイリストの順番に委ねるのか、リストの順番を変更するのか、あるいは新しい曲を足すのかーーきわめて効率が悪いがこれが最も革新的だーーそのどれかによって一日の旋律は紡がれていく。
新しい曲ーー当然だがAppleMusicやYoutubeの話ではもはやないーーが見つかるといいけどね。
旋律は往々にして、日常と記憶の混交がその大きな伏線になっているものなんだな、
と気づき始めている。
例えば今日がそう。やや肌寒く午後まで寝ていて、起きても頭が重くやる気が出ない。
場所を移動してカフェに行く。
音楽だーーそう思ってyoutubeでポルガーシューカイの70sトリビュートっぽい曲を。
https://youtu.be/W-3pj3maYUU
聞いた瞬間、あるイメージに自分の時間が定着する。今が、あたかも例えば年末の、ポッカリ開いた夕刻の、
街中自由タイムのようにイメージづけされるーー全然サンデーモーニングではないけど。
そうなってやっと、つまりイメージ、物語に定置してやっと、今日がちゃんと着色され、肉体が血流を始める。
きっと、何か明確なボタンが押されたんだと思う。
押されるべきボタンがわからないと、心身ともに宙に浮き、そこでは<何も起動しない眠さと気怠さ>が広がる。
よくあることだ。
でも何かが起動すればこの通り、たった2分かそこらで私はこんな量の文章を書いている。
そういうものなのだ。
この起動要因を、サラリーマンなら会社通勤というトリガー、家族サービスというトリガーできっと代用してきたのだろう。
でも時代意識の変容、エピステーメの変更によってそのトリガーはうまく使えなくなるのかもしれない。わからない。
でも自分自身がちゃんと、この起動トリガーや「ボタン押し」に覚醒的であることはかなり大事だ。それはセルフコンフィデンスにつながる。
さて今日はどのスイッチを押そうか?それは大体気まぐれで偶然。まあ、youtubeのプレイリストでどの曲を再生させるか、みたいなもの。
いや待てよ、、
youtubeの曲のリストでどの曲を再生させるかによって、その日最初に押されるボタンは決まる。確かにそれはそうだ、当たり前だけどそう。
そこから旋律が始まるよね。プレイリストの順番に委ねるのか、リストの順番を変更するのか、あるいは新しい曲を足すのかーーきわめて効率が悪いがこれが最も革新的だーーそのどれかによって一日の旋律は紡がれていく。
新しい曲ーー当然だがAppleMusicやYoutubeの話ではもはやないーーが見つかるといいけどね。