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ユダヤ人て殺すのはやりすぎだけど、国を持たないでいるとか迷惑過ぎない?管理する側のこと考えてんのかよ。そんな好き勝手して郷に従えないで差別とか言い出してるならもっと迷惑だし
臼杵陽
日本女子大学 文学部 教授。1956年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際関係論博士課程単位取得退学。在ヨルダン日本大使館専門調査員、佐賀大学助教授、エルサレム・ヘブライ大学トルーマン平和研究所客員研究員、国立民族学博物館教授を経て、日本女子大学文学部史学科教授。京都大学博士(地域研究)。専攻は中東地域研究。著書に『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)、『イスラエル』(岩波新...続きを読む 書)、『中東和平への道』(世界史リブレット)など。
パレスチナ問題・・・パレスチナは「国」ではなくて、「国になれていない地域」ということ? そうです。 イスラエル、パレスチナがそれぞれ国として共存するのが理想なんですが、イスラエルの建国を発端に対立しているのがパレスチナ問題です。
パレスチナ・・・アジアの地中海東岸、ヨルダン川以西の地域。おおむね、現在のイスラエルとパレスチナ国の領域をさす。古くはカナンとよばれ、前12世紀ごろペリシテ人が定着し、名はこれに由来する。オスマン帝国の支配を経て、第一次大戦後は英国の委任統治領。シオニズム運動により移住したユダヤ人が1948年にイスラエルを建国し、先住のアラブ人との間で紛争が発生した。1993年にPLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルとの間で暫定自治協定(オスロ合意)が調印され、1996年にヨルダン川西岸とガザ地区に発足したパレスチナ自治政府は、1998年からパレスチナ国を称する。自治政府は2011年に国際連合に加盟を申請。翌年、正式加盟ではないがオブザーバー国家となった。→パレスチナ自治区[補説]パレスチナの国連正式加盟に対し、常任理事国で拒否権をもつ米国が反対の姿勢を示している。
世界史の中のパレスチナ問題 (講談社現代新書)
by 臼杵陽
さて、パレスチナそのものに目を向けてみましょう。パレスチナ社会の多文化的性格を考えるために言語的・宗教的な少数派について概観してゆきたいと思います。シオニズム運動(第6講を参照して下さい) 開始以前のパレスチナ人口の九〇%はスンナ(スンニー)派のムスリムでした。この圧倒的多数派であるスンナ派ムスリムは日常生活ではアラビア語を話していました。アラビア語はクルアーン(以前はコーランと表記されていました)に使われている言葉に基づく文語のフスハー(正則アラビア語)と、地域によって大きく異なる方言としてのアンミーヤ(方言)の口語アラビア語とに区別されます。しかし、いずれにせよ、アラビア語を話すスンナ派ムスリムがパレスチナの多数派を占めていたことには変わりありません。スンナ派ムスリムがパレスチナ社会の言語的・宗教的な多数派だとすると、その少数派は言語と宗教を基準にして分類することができます。
まず、第一のグループが、言語としてはアラビア語以外を話しているのですが、宗教的にはスンナ派ムスリムに属する人びとということになります。第二のグループはアラビア語を話しているが、宗教的にはスンナ派ムスリム以外に属している人びとです。そして第三のグループとしてはアラビア語以外を話し宗教的にはスンナ派ムスリム以外の人びとということになります。
「アラビア語を話しているキリスト教徒」の三番目は単性論派キリスト教徒です。モノフィジートとも呼ばれます。この諸教会は四五一年のカルケドン公会議においてカトリックから異端とされました。この流れに属しているのが、シリア正教会、アルメニア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会などで、その名の会議で異端とされたので「非カルケドン派」とも呼ばれています。キリストの人性と神性をめぐるキリスト性格論争での対立では、ネストリウス派と違って位格としては一つであると主張した人びとです。
パレスチナに関して言えば、エルサレム旧市街にはアルメニア教徒地区があります。ここには聖ヤコブ教会および修道院があり、またアルメニア教徒たちの居住区もあります。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、また第一次世界大戦頃にオスマン帝国領で起こった大虐殺から逃れてきたアルメニア教徒もいます。アルメニア教徒は、宗教的にはキリスト教徒であり、言語的にもアルメニア語であるという点で、言語と宗教が一致した民族集団であるということができます。もちろん、アルメニア人の中には次に述べるユニエート教会あるいはプロテスタントに改宗したアルメニア・カトリック教徒あるいはアルメニア・プロテスタント教徒もいます。
前述のようにユダヤ教から見れば、キリスト教は「ユダヤ教ナザレ派」ともいうべき位置づけになります。ヘブライ語でキリスト教は「ナツルート」(「ナザレ(ナツラト)」が語源)と呼ばれます。このイエスの出身地を名前にしてしまうという表現法にも「ナザレのイエス」の名残があります。いずれにせよ、キリスト教はその母体であるユダヤ教の律法を教義的に否定します。例えば、ユダヤ教徒が絶対に口にすることのなかった豚肉をキリスト教徒は食べます。また、ユダヤ教徒が生後八日目にその男子に神との契約のしるしとして施す割礼(包皮を切り取る儀式)を、キリスト教徒は精神の割礼で十分だということで行わなくなります。ユダヤ教からの継承という意味ではイスラームの方が忠実といえます。イスラームでは豚肉食は禁止されていますし、割礼は行われているからです。
本講ではイスラームがどのようにユダヤ教とキリスト教を見ているのかを考えていくのですが、まず、イスラームとは何かという問いから始めます。イスラームとは文字通りには「アッラーへの絶対服従」ということになります。アッラーとはイスラームの唯一絶対的な神のことです。アッラーに絶対服従している人がムスリムなのです。すべての人がアッラーの前に絶対服従した状態がサラーム(平安、平和)です。アッラーが預言者ムハンマドを通じてなされた啓示の言葉はアラビア語です。そのアラビア語の啓典がクルアーン(コーラン)です。しばしばクルアーンは翻訳してはならないといわれますが、イスラームではアッラーの言葉はアッラーの存在の「しるし」だから、これを翻訳してはならないということになるのです。イスラームが人知の及ばない絶対不可知の唯一神を信仰する一神教たるゆえんです。
なぜこのようなことから始めるかというと、イスラームといえばがんじがらめに約束事や規則ばかりに縛られていて不自由だというイメージを持っている人が日本には意外に多いので、あえて書いているのです。イスラームはクルアーンとスンナ(預言者ムハンマドの言行)あるいはその言行録であるハディースを法源とするイスラーム法(アラビア語でシャリーアといいます)の解釈(類推=キヤース)とその合意(イジュマー)に基づく信仰体系といってもいいのです。それぞれの宗教の決まりごとはそれなりに理由があって決められています。その決まりごとの中で生きている人にとってその規範(イスラームの場合はシャリーアとその解釈)は「血肉化」されているので、外側からの尺度で判断するのはとても危険なことだということになります。日本人も日本社会の規範に縛られており、外国人から見ればしばしば不自由なものに映りますが、当人たちは少しも苦に思っていないことがあるのです。もちろん、その社会規範に抵触するとたいへんな「制裁」があるのは洋の東西を問わず共通しています。
たとえば、 というように母音を振れば、「イスラーム」になります。「(神に)服従すること」という動名詞になるのです。だから、イスラームとは「アッラーへの絶対服従」という意味になります。 だと「サラーム(平和、平安)」という意味になります。イスラーム教徒があいさつのときに使う「アッ・サラーム・アライクム(あなたに平和を)」という表現はご存じの方も多いかと思います。また、muSLiMは「ムスリム(イスラーム教徒)」で、「(神に)服従する人(男性形)」という現在分詞のかたちになります。女性形は語尾に普通は発音されない「ターマルブータ」と呼ばれる女性形を示す文字を付加して「ムスリマ」になります。
ムハンマドを預言者とする信徒(ムウミン)としてのムスリムの共同体はウンマと呼ばれます。イスラームの発展はウンマの拡大ともいえるわけです。六二二年のマディーナへのヒジュラ(聖遷)はウンマ拡大の契機だったわけですが、その後イスラームのウンマは近代以降、国境を越えてトランスナショナルな共同体へと発展していきます。ウンマを構成する信徒がムスリムです。ウンマは名詞形としては女性形ですが、ウンムになると「母」の意味になります。エジプトの著名な国民的女性歌手の名前がウンム・クルスームです。このウンマがどこかで母性のイメージにつながっているのは、ムスリムがお互いに同胞(イフワーン)であることを示唆しています。ムスリムは本当の血のつながりを持つ者よりも絆は強いというメッセージであり、疑似的な血縁関係を強調するという意味ではたいへん強烈な表現であるともいえます。
イスラームはまた、自らを「アブラハムの宗教」と位置づけています。このことはイスラームがその起源と系譜的な継承をアブラハムに求めているということになります。系譜論的にイスラームはイシュマエル(イスマーイール)を通じて直接的にアブラハムに回帰します。イスラームはそのために、イサクを通じてアブラハムに遡及するユダヤ教とキリスト教に対抗し得るものとなったのです(図6参照)。
スファラディームの多くは北アフリカのムスリム王朝やもっと東方の東地中海のオスマン帝国領に逃れてこのイスラーム帝国の保護の下で繁栄しました。サロニカ(現ギリシア領テッサロニキ)の人口の半数以上がユダヤ教徒だったともいわれています。スルタンの王宮で医者、商人、官吏などとして重用されたのです。スファラディームはオスマン帝国に軍事技術をももたらしたといわれており、スペインは「敵」に貴重な情報源を提供してしまったことになります。スファラディーム系の代表的な名望家には、ナスィー家、ベンベニステ家などがあります。現地のロマニオット(ビザンツ帝国以来のユダヤ教徒)は結果的に、文化的水準が高く、オスマン帝国に新たな技術をもたらしたスファラディームに同化されてしまいました。このスファラディームはパレスチナのエルサレムやサファド(ヘブライ語ではツファト)に定住しました。
アフガーニーは「内には改革、外には連帯」というスローガンに代表されるように、帝国主義的な植民地支配に対して戦うと同時に、オスマン朝やカージャール朝のムスリム君主の専制に対しても批判的な姿勢をとっていたのです。彼はイスラーム改革運動を遂行するに当たって内外両面において戦う二正面作戦をとったわけです。このような立場は彼自身がイギリス植民地支配下のインドで教育を受け、一八七〇年代にはエジプトに滞在して、その後パリに滞在したという国際的な体験によって育まれたものでしょう。そのため、彼が滞在した地域の政治指導者とも密接な関係をもつことになり、エジプトのオラービー運動、イランのタバコ・ボイコット運動などに影響を与えたのでした。
「西洋の衝撃」はイスラームに対しては改革運動を用意しましたが、ナショナリズムのレベルでも新たな展開を見ることになりました。アラブ・ナショナリズムという新たな世俗的な考え方の誕生です。アラブ・ナショナリズムは一九世紀中頃にレバノンのキリスト教徒によって提唱された考え方です。アラブ地域の人びとが話しているアラビア語という言語とアラビア語の文化的伝統に基づいて「アラブであること(アラブ性)」を強調する文化的運動として出発したのです。「アラブ性」を強調するということは、アラブ人とはアラビア語を話し、アラビア語に基づく文化的伝統を共有する人びとであることを意味することになります。
したがって、アラブ人はイスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒をも含むという考え方でした。というのも、アラビア語はイスラーム勃興以前から存在していたので、アラビア語という絆が宗教・宗派を超えて人びとを結びつける役割を果たすことになったのです。レバノンのキリスト教徒がこのような世俗的な考え方を提唱したのもうなずけるのです。なによりもまず、アラブ人としての民族的な覚醒は近代アラビア語の復興とその編纂事業として実現されました。このようなアラブ民族主義的な復興運動を「アラブの覚醒(ナフダ)」だとか、「アラブ・ルネサンス」などと呼んでいます。
アラブにおけるナショナリズムは二種類あります。まず、人びとが同じ場所に住んでいるという点に注目して地縁(ワタン)的な絆を強調するワタニーヤ(パトリオティズム)という考え方があります。日本語の「くに」に近い考え方で、祖国といったニュアンスになります。たとえば、エジプト・ナショナリズムといった個別の国家のナショナリズムがその事例となります。フランス語のパトリ(祖国、生まれ故郷)に近い考え方です。それに対して、たとえば、アラビア語のような共通の言語に注目して、疑似血縁(同胞=カウム)的な関係を強調するカウミーヤという考え方がありました。…
まず、言語改革運動としてのアラブ運動を見てみたいと思います。その代表者が、ブトルス・アル・ブスターニー(一八一九~八三年) です。彼はレバノンのマロン派キリスト教徒ですが、近代アラビア語での教科書・雑誌・新聞などを多数出版して「アラブ・ルネサンスの父」と呼ばれました。アラビア語百科事典『ムヒート・アル・ムヒート(大言海)』を編纂・刊行し、さらに聖書を近代アラビア語に翻訳しました。アラブ・ルネサンス運動の先駆者として文化的なアラブ・ナショナリズムのさきがけとみなされています。アラブ・ナショナリズムの勃興には、一八六六年にベイルート・アメリカ大学を設立するなど、アメリカのキリスト教ミッショナリーが教育を通じてナショナリズムを広める上で重要な役割を果たしました。
ただ、バルフォア宣言の最終文言自体はロイドジョージ首相、バルフォア外相、アルフレッド・ミルナー無任所相の戦時内閣の強力なトリオのイニシアティブによって一九一七年一〇月に閣議決定されることになりました。もっとも強く主張したのはロイドジョージ首相だったと最近の研究は明らかにしています。というのも、ロイドジョージ首相はユダヤ人こそが歴史の歯車を回すのだという反ユダヤ主義的な誤った見方に基づいて行動していたからです。ロイドジョージ首相の誤ったユダヤ人観は、フランス嫌いという感情とともに、イギリスの支配層に共有されており、幅広い支持者を見出すことができました。イスラエルの歴史家トム・セゲヴはイギリス人の愛憎相半ばするユダヤ人に対する感情を次のように指摘しています。すなわち、「英国人がトルコ人を破ってパレスチナに入った。英国人はフランス人をパレスチナから引き離すためにパレスチナに留まった。それからシオニストにパレスチナを与えた。なぜなら、英国人は『ユダヤ人』を賞賛し同時に軽蔑しつつ、嫌っているにもかかわらず愛していたからだ。……バルフォア宣言は軍事的あるいは外交的利益の産物ではなく、偏見、心情、そして手練手管の産物だった。宣言を産ませた父親はキリスト教徒であり、シオニストであって、多くの場合、反ユダヤ主義者だった。そんな人びとはユダヤ人が世界を支配していると信じていた」とセゲヴは述べています(Tom Segev, One Palestine, Complete: Jews and Arabs under the British Mandate, New York: Picador, 2001, p.33)。
ところで、パレスチナ・アラブ住民の難民化に関しては、隣国トランスヨルダン(一九四九年四月にヨルダン・ハーシム王国と改称)も深くかかわっています。オックスフォード大学セント・アントニー・カレッジ中東研究センターのアヴィ・シュライムの見方を中心に考えてみましょう。シュライムはイラクで生まれイスラエルで育ったユダヤ人国際政治学者です。シュライムのシオニストとトランスヨルダンとの関係についての歴史研究が「修正主義」と目される 所以 は、シオニストとアブドゥッラーは秘密交渉を行ってパレスチナを両者で分割するという「共謀(collusion)」を行い、パレスチナ・アラブをその共謀の犠牲にしたと指摘したためです。
しかし、アメリカの中東政策の原点はソ連が中東に影響力を行使することを封じ込める反共政策にありました。したがって、アメリカ当局者の発想は主に共産主義の脅威に対抗するというグローバルな反共路線に基づいており、中東地域が直面する特殊な政治状況は無視して中東政策を決定することがしばしばありました。
ところが、アラブ諸国からみれば、アラブ・ナショナリズムのイデオロギーという観点からはソ連という共産主義の脅威よりもイスラエルというシオニスト国家の脅威の方が大きく、はるかに優先順位の高いものでした。また、アメリカとアラブ諸国との同盟関係を考えても、アラブ諸国の国王や大統領などの政治指導者の個性によって決定され、その関係には濃淡があったといえます。換言すれば、アメリカとアラブ諸国の関係は、必ずしも米ソ冷戦の文脈のみで決定されていたわけではなく、アラブ・イスラエル紛争の文脈で決定される場合も多く、米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争の文脈での利害関係は必ずしも一致しなかったということです。
バグダード条約とは、一九五五年一一月、トルコ、イラク、イラン、パキスタン、イギリスの五ヵ国がバグダードで調印した集団防衛条約のことです。この条約加盟をめぐってアラブ諸国は分裂することになります。一九五二年のエジプト革命後に就任したアイゼンハワー米大統領(在任一九五三~六一年) の下でダレス米国務長官は一九五三年五月の中東訪問を機に中東政策を立案しました。当時のアメリカの政策決定者にとってアラブ世界に対する地域政策は世界的な冷戦構造を前提としたグローバルな対ソ戦略の下位に位置するものでした。したがって、前述のとおり、アメリカは対ソ封じ込めのためにトルーマン・ドクトリンを通じてギリシアやソ連と国境を接するトルコ、イランの北
層諸国に対してはすでに支援を行っていました。
一方、一九七八年に共産主義政権が成立したアフガニスタンにおいてムジャーヒディーン(「ジハードの戦士たち」の意味)と呼ばれるムスリム武装義勇軍が結成され、イスラーム的抵抗運動が展開されました。それに対してソ連はアフガニスタンの共産主義政権が持ちこたえるのはむずかしいとして軍事作戦の展開を決定しました。七九年一二月のソ連のアフガニスタン侵攻です。
アメリカは対共産主義勢力として育て上げたムスリム武装組織がアフガニスタン版「フランケンシュタイン」になってしまって、自ら墓穴を掘ってしまいました。それは対イラン政策として選択したサッダーム・フセインへの軍事的支援がサッダームというアラブ版「フランケンシュタイン」を生み出したのと相似形ということができます。
ところで、ホブズボームは「アラブの春」について次のように語っています。「アラブの春で私は一八四八年を思い出すのです。それは自己推進力をもつもう一つの革命で、ある国で始まり、それから短期間でヨーロッパ大陸中に広がった革命です」。前述のとおり、「アラブの春」は社会主義体制の崩壊の「東欧の春」にならったものでした。しかし、ホブズボームはさらにそれ以前の一八四八年革命にたとえるのです。 一八四八年革命というのは、世界史の教科書的には、この年に連続して起こったヨーロッパ諸国の一連の革命の総称です。同年二月に起こったフランスの二月革命は、ウィーンとベルリンの三月革命に連動して、これがオーストリア・ハンガリー帝国内やポーランドなどの民族主義を触発しました。
九・一一事件以降、しばしば指摘されたのは「反米主義(アンチ・アメリカニズム)」といった中東におけるアメリカの覇権への素朴な反発の感情でした。「ヨーロッパ対イスラーム」といった伝統的な二項対立に基づく「文明の衝突」論を 煽るようなイスラモフォビア(イスラーム嫌悪)への過敏な反応の一形態ともいえます。アラブ民衆のあいだで鬱積した嫌米感情が時として間欠泉のように暴力的行為として噴出してきました。
しかし、中東でこのように嫌われるのがアメリカであって、何故かつての植民地帝国・イギリスではなかったのでしょうか。現在の中東問題の元凶といっていい、ほとんどすべてを植え付けたのがイギリスであったのに、イギリスが中東地域で現在、それほど嫌われていないのと対照的に、何故アメリカだけがこれほどまでに嫌われるのでしょうか。しばしば投げかけられる問いですが、英米の中東政策の大きな違いはやはりイスラエルというユダヤ人国家への対応の違いに帰着します。
イギリスはバルフォア宣言でパレスチナ問題という厄介な国際問題の種をまきながら、三九年のパレスチナ白書で親シオニスト的立場は御破算にしてしまったため、イギリスがシオニスト・ユダヤ人にはナチス・ドイツと同じくらいに憎まれていることは日本ではあまり知られていません。イギリスは第二次世界大戦後のイスラエル建国をめぐる動きにはもっとも責任のある当事者でありながら距離を置きました。イギリスは一九四七年の国連パレスチナ分割決議案では棄権しました。第 10 講で指摘したように、隣国のヨルダンを支援することで側面からパレスチナ問題に関与し続けたのです。これを ジョン・ブル の現実主義に基づく外交上の 老獪 さと アンクル・サム の理想主義に基…
安江に英語通訳として同行した酒井勝軍は米国留学経験のあるキリスト者であり国粋主義者ですが、酒井は欧米への劣等感をバネに、ユダヤ人の欧米での差別・迫害の境遇と日本人を重ね合わせるかのように、日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという「日猶同祖論」という持論を展開します。また、日本精神と一神教的神が無
媒介に結合して、世界に君臨する天子(=天皇)はメシアでありキリストであるという神秘的天皇主義をも唱えるようになります。
聖書に表象されるユダヤ人に関する日本人の固定的なイメージを語りつつ、厳しい国際政治の現実を知らない日本人に対して権謀術数が渦巻く権力政治を激しい差別と迫害にもかかわらず生き延びてきた 逞しいユダヤ人やイスラエル国家を称賛するという親ユダヤ的議論でありながら、その根底にはユダヤ人を特別視するという意味では反ユダヤ主義的な発想にもつながってしまうユダヤ人論の古典的なパターンです。
世界史の中のパレスチナ問題を考えるにあたって、現代という視点から重要だと思われる事件を切り抜いて解釈を加えるという作業を通じて、私たちは今、何を学ぶことができるのでしょうか。パレスチナ問題の解決はむずかしいというのはいわば常套的な表現ですが、歴史的な解釈の積み重ねの上に築かれた、「現代」から見たそれぞれの時代における諸相はパレスチナ問題が抱え込む世界的な重層構造の中で形成されたことを認識させられます。
世界史とは「統一的な連関をもつところの全体としてとらえられた人類の歴史」ということであれば、本書は、一神教の聖地という観点からは「世界の中心」であり、同時に中東地域の一部という観点からは「世界の周縁」でもある両義的な性格をもった、パレスチナという地域から見た世界史ということになります。ヒト・モノ・カネ・情報が国境を超えて瞬時に行き交うグローバル化の時代において、パレスチナ問題を通して世界史を再考することは、問題自体が現在進行形で進みつつあり、また現代世界が直面する矛盾を集中的に抱え込んでいるがゆえに、いよいよ重要になりつつあります。
私自身、かつてパレスチナ問題を語ることは人類の解放を語ることにつながるのだという確信をもち、差別や抑圧のない社会を作るための一助になりたいという理想に燃えていたことがありました。しかし、現実のパレスチナが置かれている政治的状況はひじょうに厳しく、現在ではさらに絶望的なものになっています。なぜこのような不正・不義が放置され続けるのかと憤ったりして、私自身の歴史認識が常に問い直されることばかりでした。このような新書を著すことによって問題の所在を明らかにして解決の方向性を見出そうと試みたのですが、いっそう深い森に迷い込んだ感じで、むしろ将来的な展望が見えなくなってしまったというのが本音といったところです。