訓読 >>>
4282
言(こと)繁(しげ)み相(あひ)問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも
4283
梅の花咲けるが中にふふめるは恋か隠(こも)れる雪を待つとか
4284
新(あらた)しき年の初めに思ふどちい群れて居(を)れば嬉(うれ)しくもあるか
要旨 >>>
〈4282〉人の噂がうるさいので訪問しないでいるうちに、あの子の家の梅の花が、雪にあたって萎れて散ってしまうのではないかと思い、気が気ではない。
〈4283〉梅の花が咲いている中に、まだ蕾のものがあるのは、その内に恋が隠れているのだろうか、それとも雪を待って咲こうとしているのだろうか。
〈4284〉新しい年を迎え、気の合った者同士がこうして集まって過ごしているのは、何とも嬉しいことだ。
鑑賞 >>>
天平勝宝5年(753年)1月4日、治部少輔(じぶのしょうふ)石上朝臣宅嗣(いそのかみのあそみやかつぐ)の家で宴をした歌3首。治部少輔は、治部省の次官。石上宅嗣は中納言・乙麿の子で、昇進して正三位大納言となり、また、芸亭(うんてい)という書庫を公開したとして名高い人です。芸亭は、日本で最初の図書館ともいわれます。
4282は、主人の石上宅嗣の歌。「言繁み」は、人の噂がうるさいので。「うつろふ」は、花が散る。4283は、中務大輔(なかつかさのたいふ)茨田王(まんだのおおきみ)の歌。「中務大輔」は中務省の次官。「ふふめる」は、蕾でいる。梅の花を女性に、雪を男性に譬えています。4284は、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)道祖王(ふなどのおおきみ)の歌。大膳大夫は、天皇の食事や宮廷の食糧調達を掌る役所の長官。「思ふどち」は、気の合った者同士。「い群れて」の「い」は接頭語。
なお、道祖王は天武天皇の孫にあたる人で、この時は30代前後。その3年後に、聖武上皇の遺詔によって孝謙天皇の皇太子に立てられましたから、王としては意気軒高の時期だったかもしれません。しかし、聖武上皇が崩ずると、たちまち廃せられ、翌年の橘奈良麻呂の乱に連座したとして処刑されてしまいます。ここの歌が詠まれ、意気高く仲間と杯をあげた時には、そんな非常な運命が待ち受けているとは予想もしなかったことでしょう。爛熟したかのようにみえる天平の世ですが、一方では陰謀と疑心暗鬼が渦巻く苛烈な時代でもありました。
宴席のあり方
当時の宴には、一定の約束事がありました。宴には、原則として主人(あるじ)と正客(しょうきゃく:主賓)とがおり、他の客はいわば正客のお相伴にあずかるような形でした。そして、宴は基本的に夜通し行われました。このような宴のあり方は、その起源である神祭りと関係します。祭りの本質は、神を迎えて饗応することにあり、宴はその饗応に起源をもちます。宴の正客が神に対応し、主人は祭り手の立場に重ねられ、宴が徹夜で行われるのも祭りのあり方を受け継ぐものです。
宴の次第についても原則があったらしく、まず客を迎える主人が歓迎の言葉を述べ、客もまた招かれたことへの感謝の意を示します。酒杯の取り交わしにも、それぞれの挨拶が求められました。宴が果てると、客からもてなしの礼と辞去の言葉が、また主人から引き留めの言葉が述べられます。客は名残を惜しみつつ帰途につくことになります。そして、それらの挨拶は、歌を伴うのが通例でした。このような宴の次第は、神を迎え、饗応し、送るという祭りのあり方とぴたりと符合するのです。