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産業と歴史に関するsatisのブックマーク (6)

  • 人力車夫の寿命は5年問題

    いまや観光名物となった人が車を引き人を運ぶ人力車。その普及当時、引き手の車夫は過酷な仕事から心臓や肺が5年ほどで死んでしまうといわれたらしい…あぁ恐ろしい恐ろしい。おぉショッギョムッギョ。運動は足りてるので睡眠と瞑想と野菜不足だろうか。 ことの情報源はイザベラ・バードの日奥地紀行。 文を引用してそうな文章では https://twitter.com/noa_izumi1998/status/1405647209043922950 『人力車を引けばほとんどどの職工より儲かるので、何千人もの立派な若者が農業に従事するのをやめて人力車の引き手になろうと町に集まってきます。』 とはいえ車夫になってからの平均寿命は五年しかない、その多くが心臓または肺の重い疾患に罹かかると言われています。まずまず平坦な地面の上を、優秀な車夫は時速四マイル[約六・四キロ]で一日五〇マイル[約八〇キロ]走ることもあり

    人力車夫の寿命は5年問題
  • 林業の過去、現在、未来

    花粉症の原因となるスギはなぜ植えられたのか 日の林業は産業として成り立つのか という2点について多くの人が興味を持っているようなので、それについてまとめておく。 概要 日の林業に関する現状は、戦後直後の状況に原因がある。これについてまず箇条書きで示す。 戦後直後には住宅は6000万人分程度を賄うほどしかなく、復興需要とその後のベビーブームに伴い絶対的な建築材不足が生じた。 敗戦直後は経済的にも沈滞し、輸入材を買えるほどの外貨はなかった。 住宅供給を求める声は中流や下流に多く、その圧倒的多数の世論を背景に住宅建設のための政策が推進された。 林業関係者は樹齢・樹種のバランスを取って伐採するべきと主張したが、世論は「成長の早いスギを植えれば問題ない」として急ペースでの伐採とスギ植林を進めた。 1950~1966年の期間に使える樹は伐りつくしてしまい、植林地域は樹齢15年以下の若木ばかりとなっ

    林業の過去、現在、未来
  • おたくの為のSNS おたくMk2

    黒色火薬の標準組成は、硝石:七五、硫黄:一○、木炭:一五です。 しかし日は天然の硝石を産出しませんでした。よって、一五四三年の種子島での鉄砲伝来からほとんどをポルトガル商船による輸入に頼っていました。 ほとんどということは一部国産もしていたわけで、それは硝石培養法といって、動物性タンパク質中の窒素や尿中のアンモニアが、酸化バクテリアの作用により亜硝酸に変わり、酸化されて硝酸となり、土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムになり、これに炭酸ガリが作用して硝石になるのです。 ヨーロッパでは、牛馬の糞や魚のはらわた等とを石灰に混ぜてねかし、一~二年で硝石含有土を作っていたようです。 では、日ではどうだったかについては月刊『Gun』七三年一月号に「合掌の里に残る硝石製造」という記事があります。 これは合掌造りで知られる富山県五箇山が、かつて加賀藩の隠れた硝石製造地であったことを、現地からレポー

  • 火縄銃の火薬は、どうやって作ったんでしょうか? - 火薬の原料の硫黄は国内に産出しますが、硝石は日本では取れません。輸入品だったん... - Yahoo!知恵袋

    おっしゃる通り日では鉱物として硝石(硝酸カリウム)は産出しません。 火縄銃伝来当初に輸入された以降は工業的に生産されています。 美濃、加賀(現在の岐阜県、富山県)では1600年頃から製法や製造組織が 確立されていたようです。 ●硝石(硝酸カリウム)の概要 当時は、煙硝、焔硝、塩硝、硝石 などと呼ばれていました。 加賀前田藩など生産地では主に 塩硝 と、呼んでいたようです。 いずれも 成分は 硝酸カリウム(KNO3)です。 無色透明の柱状結晶で臭いはなく、塩味があります。 古書や文献によると、地方(藩)ごとに色々な製法が有りますが、いずれも、 床下や専用の製造小屋の中で、土・草の混合物や糞尿を腐させて、 水溶液を煮詰めて結晶を取り出す製法でした。 下に幾つかの製法を紹介します。 ●硝石製造方法 1.古土法 鉄砲と共に伝来したと言われている方法で、幕末頃まで全国の多くの藩で行わ れていまし

    火縄銃の火薬は、どうやって作ったんでしょうか? - 火薬の原料の硫黄は国内に産出しますが、硝石は日本では取れません。輸入品だったん... - Yahoo!知恵袋
  • 連載第36回 ラジオの登場で売上25分の1になったレコード産業、イノヴェーションを重ね復活 | Musicman-net

    <エピローグ『未来は音楽が連れてくる』> レコード産業、壊滅の危機から復活した歴史トーマスエジソンとフォノグラフ。後世、レコードの発明は「科学がエンタテイメントにもたらした最大の貢献」と賞されるようになる。 レコード産業は、フリーメディアのラジオに勝てず、かつて売上が25分の1に落ちたことがある、と書いた。1930年初頭のアメリカのことである(※1)。 1930年代の不況はエンタメの明暗を分けた。ラジオと映画は力強く、30年代に黄金時代を築いていった。一方、レコード産業の売上は30年代のうちに、恐慌前の水準へ戻すことはなかった。 現代のレコード産業を彷彿させる状況だ。 新たなフリーメディアのインターネット。ソーシャルゲーム、スマートフォンアプリ、次々とあらわれるエンタメ産業の競合。彼らに押されたレコード産業の売上はピーク時の半分にまで落ちた(※2)。 だが80年前の米レコード産業は諦め

    satis
    satis 2013/02/22
    レコード、ラジオ、映画の歴史。破壊的イノベーション、大恐慌に襲われるレコード業界だが、それでも業界が消えなかったのはコンテンツである音楽の魅力か。
  • ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち (1/4) : Market Hack

    まだ第二次世界大戦が終焉する前、1943年頃から連合国の巨頭たちは戦後のヨーロッパがどうあるべきかについての話し合いを始めていました。 写真は左からソ連のジョセフ・スターリン、米国のフランクリン・ルーズベルト、英国のウインストン・チャーチルです。ジョセフ・スターリンはヒトラーのロシア侵攻を喰いとめ、ドイツ軍を撃退したことから戦争が終わったあかつきにはポーランドなどの領土をソ連に入れることを主張しました。また英国と米国がDデイでノルマンディーから上陸し、ドイツを挟み撃ちにすることを約束しました。作戦は成功し、連合国は第二次世界大戦に勝つわけですが、このときのジョセフ・スターリンの東欧への領土的野心は後の冷戦へと発展し、次第に西側と東側、資主義と社会主義というイデオロギーの戦いへと発展します。でもその前に第二次大戦直後のヨーロッパのみじめな状況をみてみましょう。 この写真はドイツのドレスデン

    ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち (1/4) : Market Hack
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