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philosophyに関するn00dleのブックマーク (6)

  • ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。

    (前回につづき、中沢さんの文章を掲載いたします) どうやら私たち現生人類の心は、 まったく仕組みのちがう、 ふたつの思考のシステムの共存として 働き続けているようなのです。 ひとつは外の環境世界の構造に 適応できるような論理 (それがアリストテレス論理というものの 質にほかなりません) の仕組みをもって作動する言語のモジュールで、 それにしたがって生きるときには、 私たちは合理的な行動ができるようになります。 ところが現生人類の心には それとはまったくちがう、 対称性の仕組みで動く層あるいは領域があります。 ここでは、言語の論理が 分離しておこうとするものをくっつけてしまい、 ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、 時間の秩序からさえも自由になって、 多次元的にさかんに流動していく 知性の流れがみられます。 つまり、人類の心は、 合理的な言語のモジュールにしたがって 組織されて非対称

    ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。
  • 道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    先のエントリでは「x0000000000さんの主張が道徳的詐術である、という論証はどこにもなかった」とだけ述べ、uumin3さんの記事そのものは引用さえしないですませた。むしろ、x0000000000さんの議論を上書きする形で、僕自身の立ち位置を書いた。いわば、構築的に議論を進めたということだ。今回は、uumin3さんの批判記事を具体的に引用しつつ検討し、そちら側から見えるものを明らかにしていこうと思う。今回も、「道徳的詐術」@uumin3の日記を取り上げる。 あらゆる責任に先行する応答責任 私がコンビニに持っていった「その200円」がなかったばかりに一家四人が死んだという仮定。これがまずあり得ないことを言っています。もしそこをアクロバティックに結びつけ得たとしても、そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでし

    道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去

    また南京事件で盛り上がってますね。 中国は南京事件政治利用しているという人がいますが、少なくとも日中国交正常化以降、中国が南京事件に関して「謝罪と賠償」を要求したことは一度だって無いし、毒ガス問題など個別イシューを除けば日中間で歴史認識が政治問題になっているのは唯一靖国くらいのものですが、もちろん中国は南京事件があったことをもって靖国神社への参拝に反対しているわけではないのです。 さて、この問題が蒸し返されるときにはきまって、南京事件あったかなかったか「どうでもいい」と思っているのに南京事件「論争」にはいっちょ噛みたいと思っているのが多すぎるのが問題をややこしくしていると思うのですが、それはポストモダニズム系リベラルの問題として表すことができるかもしれません。 つまり、劣化版東浩紀です*1。 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081215/p1#c122932

    ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去
  • The Official Yamagata Hiroo Page

    リンク、コピーは黙ってどうぞ。くわしくはこちらを見よ。 あとこのサイトはなるべく正しい html5で書くよう心がけてます。が、加筆するうちにバグが入り込む場合が多々あります。たまに、各ページの黄色い「Valid HTML5!」アイコンをクリックして、エラーが出るようなら教えてくださいな。 What's New and That Sorta' Crap 「アルク/マガジンアルク」連載」(2006-2017) を全部 html化。(2021/12/03) クルーグマン「ミレニアムを解き放つ」(2000) 翻訳。(2021/3/19) 古い雑誌連載の『CarX』/『MagX』連載 (2008-2012) が発掘されたので追加。あとなんとなくHTML5 に移行してみるが、テキストだからほぼ関係ないんだよね…… (2020/11/10) エリック・レイモンド「ハッカーになろう」翻訳をアップデート

  • マッシモ・カッチャーリ来日に寄せて/田中純

    年(2002年)の3月下旬から4月初めにかけて、イタリアの思想家マッシモ・カッチャーリが来日する。この間に催される講演会やシンポジウムについては、「批評空間」のサイトでも告知されている通りだ。そもそも日への招聘を企画した時点では、ダニエル・リベスキンドを同時期に招き、磯崎新を交えたシンポジウムを実現するはずだった。「群島」ヨーロッパというカッチャーリの理念と、同じく「群島」をコンセプトにしていた磯崎の「海市」計画とが出会い、あるいはすれ違う局面に、リベスキンドがどう介入するのか。生まれ故郷ポーランドを追われたこのユダヤ人建築家にとって、「群島」ヨーロッパという理念が孕む亀裂は何か、といったことが関心の中心にあったように思う。ともにヴァルター・ベンヤミンの影響のもとに立ちながら、カール・シュミットの「政治的決断」の思想を引き受けるカッチャーリの「地-哲学」に対し、破砕された歴史の廃墟を見

  • デリダ受容の現況に関するMemoRandom/浅田彰

    ジャック・デリダといえば、もう読まなくても分かっているかのように言う向きがある。だが、少なくとも日に関する限り、デリダの仕事はまだまだ十分に紹介されているとは言えない。 そもそも、1967年の『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『声と現象』は早くから翻訳されていたものの、1972年の『散種』と『余白』が書物としてはいまだに翻訳されていない(インタヴュー集の『ポジシオン』だけは翻訳されている)のはどういうわけか。その意味でも、1974年の『弔鐘』の翻訳(鵜飼哲による)の連載が『批評空間』第III期で続行されることになった意義は大きいと思う。1980年の『葉書』の翻訳(東浩紀による)はどうやらずっと「停止中」らしく、残念なことだ。しかし、その後のデリダの仕事に関して、最近いくつか注目すべき翻訳が出ているのは、歓迎すべきことである。 たとえば、『葉書』とも関連の深い1987年の『

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