「ファスト風土」とよばれるような土地を舞台にした話題の小説があるという話は前々から聞いていたのですが、このたび勇気を振りしぼって、山内マリコ氏の『ここは退屈迎えに来て』を読んでみました。
- 作者: 山内マリコ
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2014/04/10
- メディア: 文庫
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以下はこの小説の感想文です。既読の方、未読だけどネタバレ上等の方以外は、注意してお読み下さい。
ファスト風土はなぜ“退屈”なのか
まずこちらの小説に対する私の第一印象なんですが、何かもうタイトルだけで8割くらい持ってってるというか、「勝ち」だな、と思いました。
この小説の舞台は、前述したように「ファスト風土」とよばれるような地方都市です。構成としては全部で8編の小説からなる短編集で、8編それぞれの主人公は別ですが、すべて同じ地方都市を舞台に物語が繰り広げられます。この「地方都市」というのが具体的に何県なのかを推測することにあまり意味があるとは思いませんが(何しろ、特定するような個別性がないところが「ファスト風土」なので)、ある物語の主人公は大学進学をきっかけに東京をめざし、またある物語の登場人物は大阪に住んでいた経験があることから、日本の二大都市である東京と大阪の間*1にある県で、しかも冬になると毎年それなりの量の雪が積もる、というあたりが、これを考えるヒントになりそうです。
8編のうち7編の小説の主人公は、すべて女性です。その年齢は高校生から30歳までと幅広いですが、共通しているのはみんながみんな、タイトルのとおり「ここは退屈」と口には出さずとも思っている(あるいは、意識してさえいないかもしれないけど確実に“退屈”している)こと。そしてやっぱり、「迎えに来て」と、自分の故郷に愛着と快適さを感じながらも、同時に閉塞感を抱えていることです。ちなみにこの「迎えに来て」はだれに対していっている言葉なのかはっきりしませんが、主人公の多くが女性であることから、いつかパートナーになってくれるであろう男性に向けていっていると解釈すると、いちばんすんなりおさまる気はします。でももちろん、実際はそんな単純な話ではなく、この閉塞感から抜け出すには「男性」の力だけでは不可能なのだということは、第2話の主人公である森繁あかねが証明してしまっています。もっとも個人的には、このような閉塞感を抱えながら生きることがそれほど不幸なこととは思えないし、登場人物たちはみな、何だかんだいいつつ幸せそうにも見えるんですけどね。
……と、こんな感じで小説のだいたいの雰囲気はつかんでいただけたのではないかと思うのでここからが本題なんですが、これを読みながら私は、この地方都市の何が登場人物たちを“退屈”させているのか、というようなことを考えてしまいました。
この小説には、ブックオフ、TSUTAYA、洋服の青山、ユニクロ、しまむら、ダイソー、ニトリ、ガスト、スタバ、無印良品、ドン・キホーテなどなど、私たちの生活に密着した様々な「記号」が登場します。登場人物たちの多くは車に乗り、自宅からイオンへ、イオンからTSUTAYAへ、とそれぞれの「記号」の間を移動するわけですが、これらのファスト風土を象徴する「記号」に共通しているのは、それらがすべて何かを「消費」する場所である、ということです。
小説の登場人物たちは、正社員として地元に就職している者もいれば、フリーでライターをしている者、スタバでアルバイトをしている者など様々ですが、物語における彼らの「仕事」の存在感は、決して大きくありません。それよりも、だれかとだれかが出会うゲームセンターや、妙なポエムが貼ってあるラーメン屋、仕事の帰りに寄るファミレスなど、「消費」を行なう場所の存在感が圧倒的に大きいのです。そしてそれが、ファスト風土的な地方都市を“退屈”にさせている所以であるように、私には思えました。
専門家ではないのでどういう理屈なのかは不明ですが、とりあえず人間というのは、「消費」するだけだと退屈する生き物なのではないか、ということがこの小説を読むとわかります。
ファスト風土の“退屈”から抜け出すには
くり返しますが、閉塞感を抱えながら生きること、日常に“退屈”を感じることが、あまり悪いことだとは私は思いません。しかし、「退屈は人を殺す」という言葉があるように、それはある種の人間にとっては死の宣告に等しいものでもあります。
ではこの“退屈”から抜け出すにはどうしたらいいかというと、とても単純に考えて、「消費」の逆をやればいいんじゃないかと思ったのです。つまり、「生産」です。
前述したように、この小説の登場人物たちにとって、もっとも身近な生産手段であるはずの「仕事」の存在感は、あまり大きくないように読み取れます。学生が主人公の第5〜8話は置いておくとしても、第1話の主人公はニート同然のフリーライター、第2話の主人公は元モデルだけど今はスタバのアルバイト、第3話の主人公はなかなか論文が書けない大学院生、第4話の主人公はやっぱりアルバイト。もちろんフリーターやニートが悪いというわけではなく(それはまた別の話)、あくまで物語における職業・仕事の存在感が薄い、という話をしています。
本の第4話には『君がどこにも行けないのは車持ってないから』というタイトルの物語がありますが、これはおそらく作者の山内さんなりの皮肉で、本当の答えをいうなら「君がどこにも行けないのは“生産”していないから」。こっちなんじゃないかと私は思いました。
「生産」の方法
で、感想文をここで終わりにしてもいいのですが、「生産」の具体的な方法として、どういうものがあるかを少し考えてみました。
まず真っ先に思い付く方法として、「子供を産むこと」と「仕事」、この2つをあげることができます。退屈から逃れるために子供を産む、というのはあまり健全な考え方ではないよう聞こえますが、それでも子供がいれば、「ここは退屈」なんていっている暇は精神的にも物理的にもなくなるはずです。いわゆる「ファスト風土」とよばれる地域には幸せそうな家族が多いイメージがあるのですが、それはやはり無意識に、これを実践しているからではないでしょうか。
もう1つは仕事ですが、これは単純に何かの職を得ればいいという話ではもちろんなくて、精神的にも時間的にも、それなりに打ち込める仕事を得る必要があります。こちらは、子供を持つことよりもある意味でハードルが高いかもしれません。
でも実際は、「子供を産むこと」も「仕事」もできないから困っていて、それこそがこの小説の主人公たちなのだ、と考えることもできます。そういう場合はどうすればいいのか。
旅行好きの私がいうと自己弁護のように聞こえるかもしれないんですが、とりあえず無理のない範囲で、でもできる限り物理的に遠いところへ、1回旅行に行けばいいんじゃないかなと思いました。旅行というのは紛れもない「消費」なんですけど、しかし「限りなく生産に近い消費」だと個人的には考えています。「できる限り物理的に遠いところへ」というのがポイントで、近場で済ますと本当にただの「消費」になるので注意です。そしてその旅行記をブログで公開するの、これおすすめです。
とりあえず、「消費」から距離を置くこと、置こうとすること。精神論になっちゃう部分もあるのですが、これが“退屈”から抜け出す唯一の策であるように私は思います。
★★★
「消費」と「生産」というワードで思ったのは、『ここは退屈迎えに来て』は確かに地方都市が舞台の物語なんですけど、「私は東京に住んでるから大丈夫」「オレは大阪に住んでるから無関係」と思ってしまうとダメ、ということです。地方都市でも生産はできるし、都会でも消費するだけの生活を送ることもできます。むしろ、都会の刺激的な「消費」はときに「生産」と見紛うことがあるぶん、悪質かもしれません。
「ファスト風土」を描いた物語ではあるものの、そこからいろいろなことを読み取れる*2なかなか示唆にとんだ小説である、と個人的には思いました。読書の秋にぜひ。
- 作者: 山内マリコ
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2014/04/25
- メディア: Kindle版
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参考
■「漫画がファスト風土を描かない」という話題が面白いので何か書き散らします - ←ズイショ→
■国道沿いの「退屈」について――『ここは退屈迎えに来て』 - シロクマの屑籠