はてなキーワード: bootlegとは
もとよりアイネクライネをはじめとしてLOSER、ピースサインなど若者を中心に認知はされていたけれども、Lemonがこんなにも幅広い年代に聴かれる曲になるとは思っていなかった。音楽といえば昭和歌謡で止まっている私の母でさえもCDで何度も聴きライブDVDを繰り返し観た。その母よりもさらに流行りに疎い父でも、とりあえずは「米津玄師」の名を知っているというほど、Lemonは彼の存在を世に知らしめた。
そして8月5日、米津玄師の3年ぶりとなるアルバム『Stray Sheep』がリリースされた。Lemon、flamingo、馬と鹿など数多の人気曲を引っさげた「最高傑作」と評価されたアルバムだ。
当然私も買った。そして全曲聴き終わった後、脱力してしまった。「みんなのものになってしまった」と、ほんの少しの絶望と寂しさを感じたのだ。
私は彼の大古参ファンという訳ではないが、それでもハチ時代の曲はそれなりに聴いてきたし、米津玄師の名でメジャーデビューしてからはずっと彼を追いかけていた。ボカロPとしては伝説級の人物で、ボカロ全盛期と言われたあの時代を生きた人間にしかこの感覚は分からないと思う。多分この感情を持っている時点で、これからの米津玄師についていける人間のふるい落としにかけられていた。
「ハチ(ボカロ)の曲をバカにしていた友人が米津玄師の曲を褒めているのを見るとムカつく」というのはLemon以前、もっと言えば一回目の転機になったであろうアイネクライネ以前から応援しているファンの中でのテンプレ感情である。「応援してたインディーズバンドがメジャーデビューしてちょっと寂しい現象」と似たものなんだと思う。かくいう私もLemonが大ヒットを飛ばしている最中、自分の事のように誇らしい気持ちの裏にどこかそれと同じ感情を抱いていた。それを拗らせに拗らせた結果がこのブログだ。(そのようなテンプレ感情を患わせた古参米津オタクのみんなにはなるべく新規ファンに優しくしてくれることを祈る)
ただ、それはある種仕方の無いことだ。ハチから米津玄師初期、アルバムでいうとdioramaやYANKEEあたりの曲と、BOOTLEGやStray Sheepの曲の雰囲気はまったく異なるから。新海誠で例えると『秒速5センチメートル』と『君の名は。』くらい違う。
それでも私はあからさまに変わった彼の音楽に対して感じる寂しさを拭えきれなかった。
音楽の専門的なことはよく分からないので「この曲のこの音が〜」などと詳しい話はできないが、単純に昔の彼の音楽が大好きだった。好みの別れそうなおどろおどろしいサウンドや、少し毒々しい歌詞、名前も付けられないような感情を代弁してくれたような優しい歌詞も。米津玄師は私にとって、教室の片隅にちょこんといる人間を、誰も知らないアミューズメントパークにこっそりと連れ出してくれる魔法使いみたいな存在だった。そこで集まったみんなは似たもの同士だった。一種の選民思想的なものさえ感じていた。
だけど今では「好きなアーティストは米津玄師です」と言うのがはばかられる程の人気者になった。好きであろうと嫌いであろうと、とにかく新曲の情報が入ってくる。そんなポップアーティストとなった。
「米津玄師」の名のついたものはなんでも売れる。それくらい、彼は彼自身のブランドを築き上げた。もう小学生が適当に作った曲でも、米津玄師が製作と銘を打てば売れるんじゃないかって、そんな意地悪なことも考えたりするほど。
そして彼を好きであることはアイデンティティでもなんでもなくなった。
みんなが彼の曲を聴くから。彼の音楽が大衆文化として消費されるようになったから。純粋に彼の心地よい魔法にかかっていたのが一変、彼の噂を聞きつけた野蛮な人間に土足で村を踏み入られたように感じられて、なんだか居心地が悪くなった。
米津玄師は度々インタビューで「普遍的なものを作りたかった」と語っていた。そしてそれがLemonであった、と。
その言葉を聞いたときに、「みんなの歌」じゃなくて「私たちの歌」を作ってよ、と叫びたくなった。しかしそれと同時に勘違いしていたことに気づいた。私は勝手に自分のエゴを押し付けていたのだ。彼を自分の代弁者だ、「こっち側」だ、と祭り上げていた。彼が見ている世界は、そんな小さなものではなかったのに。だけど、どうしてもそれが、置いていかれたみたいで嫌だった。
よくよく落ち着いてみると、こうして純粋に彼の曲を楽しめなくなってしまったのは、私が本当に好きだったのが「あの頃の米津玄師」ではなく「あの頃の米津玄師を好きな私」だったからかもしれない。それはそれでかまわない。
どれだけ私が寂しがったところで、彼はこれからも素敵な曲を書きもっともっと愛されるアーティストになっていくだろう。コンサートで「誰一人この船から落としたくない」と語ったように、これからも米津玄師という船は正しく真っ直ぐ平等に、より多くの人を救うような、より多くの人が楽しめる方へと舵を切っていくのだ。
彼の素晴らしい旅路に祝福を。無惨にもその船から零れ落ちて溺れ死んだ人間から、ささやかな反逆心を持って言葉を送らせてもらう。
米津さんのLemonをYoutubeでピアノ演奏している動画があって、それで初めてLemonの曲を聴いたんだけど。
正直、腰が抜けた。
この部分はあの曲のオマージュ、あの部分はこの曲のオマージュというツギハギじゃんか。一部、自分のわからない部分もあったけど、そこまでオマージュが多いなら、その部分も自分の知らない曲からのオマージュなんだろうと思う。
こ、これは…と思って調べてみたら、出るわ出るわ。やはりネット上でも検索で多くヒットする。
で、調べたらBOOTLEGとかいうアルバムに関するインタビュー?で"「何でもかんでもパクリという言葉でくくることがいただけない」「引用されて不快な訳がない」"と言っているらしい。
ネット上でもそれに同調するような"オリジナル信仰を打ち破れ"とか、わけわかなことを言っているブログ?もある。
まったく話が違う。
そりゃ、カバー曲やオマージュした曲なんて欧米の曲を含めていくらでもあるけど、それは原曲に対するリスペクトを持っているかどうかが問題なんだ。
原曲に対するリスペクトがあって、それに対する新解釈のような形で新曲を作ることで、驚きを与えるのがオマージュだろう。それができるバンドなんて、日本にも欧米にもうじゃうじゃいる。
Lemonの様に、多数の曲のおいしいところだけかじってツギハギを作る方法には原曲に対するリスペクトが全く感じられないんだよ。
自分は音楽とは全く別の分野の専門家ではあるが、一般に創造性は最も敬意を払われるべきだと考えている。
今じゃ、創造性をコケにするような手法が受け入れられているのか?しかも、上記のインタビューの内容やオリジナル性の軽視を賛美するような文章をみるとゲロが出そうだ。
まあ、自分の専攻している分野にも似たようなのは腐るほどいるが、そういう腐れた奴らがこれからもっとあふれてくるのだろうか。絶望的だ。
ちへ、という方がいる。
野外型アニソンクラブイベント「Re:animation」というイベントのオーガナイザー。
所謂リアニのえらい人。
このイベントの凄いところはアニソン系クラブイベントの中でも巨大で、近年ではアニメ公式とコラボしたりなど
アンダーグラウンドな世界である「アニクラ」を陽の目を当ててきているという点。
クラブという文化を広めていこう、世界にアニクラを知らせよう、というのをモットーとして近年活動を行っている。
という点が今自分の中でとても引っかかっている。というのも以下になる。
https://twitter.com/tommy_zina/status/808645900562141184
気になっているのがこのツイート。
>【ダメ絶対】今日聴いたアニソン/JPOPのDJに関する衝撃の話。
>世界中で販売してるDJソフト&コントローラのサポートデスクで
>入手元不明の音楽ファイルの使用率が日本人が頭抜けて多いのだとか。
原因不明の動作の対応で音楽ファイル送って貰った時に分かるんですって!お恥ずかしい(´Д` )
要はCDから入れた以外の音源が原因でエラー吐いてるみたいですよーって話。
ここでもう一つ文化を説明する。bootlegという文化である。
bootlegというのは既存のアニソンのボーカルを抽出してクラブ向けのサウンドと合体させる、というもの。
このbootlegというのは非公式の音源が多く、だが海賊版とは違うといったもの。
もしこのちへさんが本当に「割れ音源」だけについて語っているのであるならば話は別だが(割れ音源は私もNG)
もしbootlegについて触れているのであるならば公式から許可が下りて公式bootleg、つまりRemix音源を出してる側の人間が言っていいのか、といった話。
なんの為に陽の目に当てるつもりなのか。
それならそれで結構だが。
楽曲の話なのか録音の話なのか,作り手の話か聴き手の話か,
すっちゃかめっちゃかですが列挙して分類してみました.
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続きなんです系
曲作りのきっかけやヒントをいただきました系.
お題をいただきました系.
面白く可笑しく改変させていただきました系.
もう一度やらせていただきました系.
私好みに改変させていただきました系.
今風に改変させていただきました系.
音を素材としていただきました系.
がっつり参考にさせていただきました系.
こっそりいただきました系.
おいしい所取り出して作り直しました系.
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「この曲のソロがカッコいいので,ソロだけの曲に作り替えました!」とか
「汽車を待つ君の横で時計を気にしている僕の後日談を歌にしました!」とか?