先日、各県毎の平均寿命が公表され、
が話題になっている。
この順位の理由としては、様々な要因があるが、主な要因として
・食生活
・運動の有無
・健康啓発、検診啓発
・医療体制の充実
が主要因である、と皆思っているだろう。
つまり
★沖縄が今まで長寿日本一だったのは、沖縄料理が長寿に貢献したからだ(海藻が多い、豚肉摂取で適度に動物性蛋白がある)
★だが、沖縄が首位陥落したのは、米軍進駐の影響でステーキ、ハンバーガーなどのファーストフード、ジャンクフードの
★また、那覇都市圏(都市圏人口100万人)に暮らして、マイカー依存で運動しない人が増えたため
★長野の長寿日本一は、減塩食啓発や、健康診断啓発などの地道な努力が結実したから
★青森の長寿最下位は、塩分過多な食生活で、高血圧系の成人病や胃癌などに罹患しやすいから
という説明がなされている。
自分も、上記説明で、各県の寿命差の7~8割は説明できる、とは思っているが、
それ以外の「隠れた副因」も無視できない、と思う。
その理由というのは「住環境の変化」、もっと言えば「冬季、住宅室内が寒いかどうか?」である。
高齢者の死因の一つとして、脳卒中や心筋梗塞等の循環器系の発作というのがあるが、
この発作の発生要因の一つがとして、
「寒い浴室から、急に暖かい湯船に浸かった」のような、急激な温度変化が
循環の異変、ショックを招く、と言われている。
従前の日本の伝統的家屋は、あまり断熱性能も高くなく、(マンションなどに比べると)
冬は暖房なしだと寒かった。
主な居室は暖房を入れても、廊下とか浴室なんかは暖房を入れないため、ヒートショックが起こりがちだった。
一方、沖縄の場合は、冬でもそんなに寒くないから、ヒートショックはあまり発生しない、
つまり本土と比べると循環器系の発作が起きにくい環境であった、と言える。
これが「沖縄が本土より寿命が長かった」要因の一つであった、と自分は推察している。
(勿論、沖縄料理等の要因が主因だとは思うが、副因としては無視できない。)
しかし、本土の方でも、浴室暖房とか、高断熱住宅とか、マンション居住とか、
そうなると、本土のヒートショック回数が減り、寿命が伸びてくる、
逆に言えば「沖縄は追いつかれてしまう、アドバンテージがなくなってしまう」ことになる。
これが、「最近になって、沖縄の寿命順位が下がった理由」の副因である。
一方、青森県であるが、ここは冬寒い。だからヒートショックは本州で最も起こりやすい。
・・・でオシマイにすればいいのだが、青森より北には北海道という最寒の土地があり、
そっちのほうが寿命が短くなるべきなのに、そうなってない。何故なのか?
北海道と青森の住宅を眺めてみると、北海道の方が、より断熱性が高く、
全館空調的な造りになっていることに気がつく。
北海道だと玄関が二重になっていて、断熱性能も二重になっている家屋が多いが、
また、断熱性能に優れた2×4工法は、シェア的には北海道が青森の2倍以上普及している。
よく「北海道では、室内全体にガンガンに暖房している、道産子が東京に来ると、逆に室内の寒さに驚く」
というエピソードがあるが、これなんかも「北海道では室内全体を暖房している、ヒートショックが起こりにくい」
ことの傍証だろう。
「道産子は室内でアイスクリームを食べる、それだけ北海道の室内は暖かい」とも。
(人口構成は札幌都市圏に人口の半数近くが居住しているため、雪下ろしの手間が嫌がられているため)
マンションは全体的に断熱性能に優れており、それゆえヒートショックが起こりにくい。
よって、北海道の寿命が青森より幾分長いことは、これで納得がいく。
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/03/02/131448
なるほど まったくその通りだと思う 反論の余地が無い
ただ、僕は元の脱社畜ブログの違和感というエントリーに違和感があった。突っ込むべき所はそこじゃないだろ…
「脱社畜ブログ」は書いてあるエントリー全てが正論で反論の余地がまったくない。
しかし、それを読んでどうしろと言うの?今ブラック企業に勤めている人間は一瞬スカっとするだけで終わりだ。
学歴も無くブラック企業しか働き口が無い人間にとっては無力なブログだ。
それどころかその人間を利用してアフィリエイトで小銭を稼いでいる。
俺が書いたと思えないほど文章がうまい。
なにこれ、俺文章力劣化したの?確かに仕事でコードばかり書くのに忙しくて長文を書かなくなって久しいが。スキルは使うと成長するが、使わないと劣化するもんだな。
左翼の中には、天皇の名を漢字ではなく、わざと片仮名で書いたり、気に入らない政治家の名前を敢えて間違えて、小馬鹿にする奴らがいるが、そういう「他人の名前も大事にできない連中」が、なぜ朝鮮人の創氏改名を「極悪非道な行い」と主張しているのか分からない。
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できるはずだとおもうけど
とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
これは元増田の発言ですらない。(元増田は外部から推測できる事情を提示しただけだ。)
とちゃんと書いているわけだが。
主張は変わってないよ。お前の要約は歪曲が酷い。
元増田がわざわざ
私が書いた文章を要約する一文としては誤りでは無いと考えるがどうだろうか。ネットでしばしばみられるスラング的表現の一種を用いた手法であり、なるほど分かりやすいと思った
って言ってんのに。何なのお前。一体何と戦ってるのさ。元増田のは誤りじゃないって書いてるのに、じゃあ歪曲されなかったらどういう事になるのさ。
わたし最近会社勤めをやめてフリーになって、確定申告に行ったんですけども
昨年疑問に思っていたことがはっきり数字で示されて驚いたので。
実は自由になるお金(手取り収入)が、あまり変わらないのです。
(正社員とは言え400万程度しか稼いでいなかったので参考にならないかもですが)
会社員というのは税金や社会保険で殆ど消えてしまうのだなあと思いましたよ。
余裕のある生活が出来なくなると言うけれど、本当に必要ですか?
こんな低金利で貯金するのもいいけど、大事なものを失ったと思いますよ。
昨今の厳しい状況で、結婚して働き続けていると相当会社からのプレッシャーがあったと思います。
私も「残業してないで早く帰って家事しなさい」と悪気無く言われたことがあります。
子ども生んで仕事しながら育てるプレッシャーも男の人にはわからないと思いますよ。
まず自分の一部だった赤ん坊が離れて、保育士さんの手からミルクを飲んで、はじめてのあんよの瞬間も見られなかった。
時短があっても会社に迷惑かけているという精神的負担は相当図太くないとやっていられません。
そんな中で勤め続けたのは何より夫の支え。家事を負担してくれるのは勿論ですが精神的な支え。
自分のためだけに生きていて生きている意味があるのかなと思いました。
誰もが稼げなくなるリスクがあるし、男性の方が老いるのが早いのですよ。
しかし電池のデザインがダサイと騒ぎになったというのがよくわからない。ただロゴが書いてあるだけだし、そもそも使用中に視覚に入るもんでもないのに。
電池マニアじゃ無いが、他人からみたら馬鹿馬鹿しいと思われるような所にも気を遣うって気持ちはわかるよ。美しいものを使いたいっていう本能というか、洗練されたものに振れていることで、自分のセンスが鈍らないように常に高めておくというか。朱に交われば赤の逆のパターンね。何というかな、気合いを入れるときにちょっといいネクタイをしめると、俺はいいもん使ってるって気合いがはいるとかさ。気持ちの問題。
そう言う感覚以外、実用面でも批判されている部分があって、多いのは、eneloopブランドは全部二次電池だったのに「Panasonic」とでっかく書かれたおかげで一次電池と見分けがつきにくくなった、と言う批判ね。これはわかるんだよ。うちの親は「ケータイのeneloop」とか意味の分からん事を言うし。SONYのファミコンみたいなもんで、要するにケータイ用の外部バッテリーの事を言ってる。だから混乱するだろってわけさ。
ただねえ…。
昔の蓄電池思い出してもらうと分かるけど、電池ってみんな派手な色してなかったか?
たとえば昔のミニ四駆に使ってたニッカド電池は黄緑色だったでしょ。派手な色で分かるようになってた。あと、EVOLTAは橙色で派手に「蓄電式」って書かれてるよね。あれって実はリサイクルを推進するための規格で決まってて、ニッカド電池は黄緑色、ニッケル水素電池は橙色、リチウムイオン電池は青色って決まってるのよ。
昔は転がってても色で識別できるように色がリング状になってて、昔は特に、口にれたらまずいってことが分かるように、とても食い物に見えない毒々しい色がつけられていたわけだよ。
だけどeneloopは、シンプルなデザインで攻めてきたよねえ。これね、今までの業界の常識を打ち破ったといえばそりゃ聞こえはいいけど、従来の「一目で見て蓄電池だとわかり、一目で見て食えないと分かる」って観点から選択されていたデザイン指針を全く無視しちゃったわけ。安全性重視だったのをデザイン重視にしちゃったわけよ。タブーを打ち破ったって言うか。
eneloopは蓄電池しか無いからこれでもいいって考えはそりゃ無くは無いしさ、各社共に対抗するため追従しているって事実があるににしたって、eneloopが安全性のデザインを破っといて、eneloopブランド名が分かりにくくなったら蓄電池だって分かりにくいから危険だなんてのは、ちょっと事情をしってるともにょるよ。
FDKが自分で出してる富士通ブランドのニッケル水素蓄電池は、きちんと橙色つかって、リング状に色がついてるところがあるんだよね。昔に較べりゃ薄いけど。eneloopってほんと、マーケティングが生んだ化け物だったなって思うよ。
その後もエコイメージだかなんだかしらんけど緑色つかう馬鹿な会社があるしさ。緑はニッカド電池だって言ってんだろ!おい!Twitterで自虐マーケティングなんかやってる暇あったら色使い直せ!