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ヘルペス脳炎 | kyupinの日記 気が向けば更新

ヘルペス脳炎

ヘルペス脳炎は精神症状が先駆して出現することがあるため、非常に稀だが精神科に初診することがある。

ヘルペス脳炎は極めて稀な疾患であり、精神科医でも生涯、遭遇しない人もいるかもしれない。

僕はヘルペス脳炎は過去に3例経験している。ヘルペス脳炎は日本では年間100万人に3.5人発症するらしいが、新生児~学童期と成人では発症率が異なるため、成人に限れば上の確率より更に低い。過去に僕が調べた際(20年くらい前)100~200万人に1名と書籍に書かれていたが、実際はもう少し高いようである。

成人のヘルペス脳炎はHSV-1により発症するが、普段、このHSV-1は三叉神経節にたむろしている。つまり潜伏感染からの再燃による。それに対し、小児の場合、普通HSV-1の初感染から発展するようである。(そのため抗体の動きが異なる。成人ではIgG、小児ではIgM)

新生児では、母体の産道から感染するため、病原となるウイルスもHSV-2が多くなるが、HSV-1もないわけではない。

成人の場合、精神症状に関しては、奇妙な行動、錯乱・興奮状態、幻覚、意識障害などで初診する。僕が最初に遭遇した男性の主訴は「突然、妻の首を絞めた」というものであった。医師になってまだ4年目くらいである。

その男性は発熱、発汗などなく、血圧、脈拍も正常であり、髄膜刺激症状もなかった。脳波にもややα波が多い程度で極端な異常脳波とは言えず、CTにも異常所見がない(ただし造影はしていない。過去ログ参照)。

当時、MRIは普及しておらず、県に1台あるかどうかの時代である。もしMRIを実施していれば、何らかの異常所見が発見されただろう。

つまりその日の検査所見では、局在性の異常所見など見えなかったのである。

診察時は言葉が少なく大人しい人と思ったが、何しろ普段の様子を知らないので、この数日でどのくらい変化が出てきたのかがわからない。少なくとも言えるのは、精神症状の出方が比較的急性なことである。本人はポヤンとしており、今ひとつ要領を得ず、いったい、この人が本当に奥さんの首を絞めたのか疑問に感じるほどであった。

同伴した奥さんに聞くと、

泳ぐように自分の首を絞めた。

という。だいたいこの男性は表情なども統合失調症のようにはしていないし、急性の経過で「泳ぐように首を締める」という行動も統合失調症的な精神症状とは言えない(参考)。

その日、この男性は髄液検査をしたほうが良いと思ったので病棟に連れて行き、髄液検査をすることにした。精神科医は実は滅多に髄液検査をする機会がないのである。だからこの男性のように、検査時に急に暴れ出したような人は実施は相当に難しい。

ちょうどその日、いつも精神鑑定に陪席し教えてもらっている年配の医師が外来をしておられたため相談した。彼はその男性を少し診察した後、「不審な点が多いので、すぐに(院内の)救急外来に頼んだほうが良い」と助言した。

その男性こそ、ヘルペス脳炎だったのである。

ヘルペス脳炎は、一刻も早くゾビラックス(アシクロビル)の点滴を実施するのが最も重要で、それが予後に大きく影響する。また、集中治療室ではステロイドなども併用して治療されるが、それでも致命率は高かった。(かつては30~40%であったが、近年は10%以下らしい)実は僕は過去にICUでのヘルペス脳炎の急性期の治療に携わったことがない。診断とゾビラックス開始までである。

その男性は救命はしたが、後遺症が残った。

その後、外来の診察時に、ヘルペス脳炎がイメージされた場合、間髪を入れずゾビラックスを実施するようにした。それほど一刻を要すからである。

ゾビラックスはヘルペス脳炎の確定診断を待たず、見込みで処方するのである。

もしゾビラックスで副作用が出たとしたら、その時は仕方がない。その大きな理由は、治療開始の遅れが著しく予後を悪化させるからである。


使った人ならわかるが、ゾビラックスは抗ウイルス剤でありながらかなり副作用が少ない。これはゾビラックスはヘルペス感染している細胞にしか薬理作用を及ぼさないことが関係している。僕は過去にゾビラックスで中毒疹が出た人が1名だけいるが、それ以外は全く副作用らしいものは経験していない。

今までこのような判断でゾビラックスを投与した人はたぶん20~30名くらいだと思うが、そのうち、実際にヘルペス脳炎だった人はなんと2名もいたのである。驚異的な確率と言うほかはない。(正体不明の脳炎が他に1名。また予後の良いタイプのウイルス性髄膜炎が2名。)

当時、医局のボスは自分のことを「悪魔的な引きの強さ」などと呼んでいた。これはたぶんあまり良い意味で使われてはいない。つまり、外来でチンピラに刺されそうになるとか、夜間、救急に呼ばれて、大変な目に合うとか、このように珍しい疾患に遭遇するのが「悪魔的な引き」なのである。

この悪魔的な引きの意味であるが、

珍しい疾患の人はそれが診断できる人に不思議と集まってくるのである。

その点で20数名しかゾビラックスをしていないのに、その内2名が本物だったのは僕の誇りでもある。(自分がそう思っているだけだが)

しかし、もう10年以上ヘルペス脳炎を疑い、ゾビラックスを点滴したことがない。精神科医を始めてからほんの7~8年以内に立て続けに遭遇したのである。(若い人の進行麻痺やクリプトコッカス脳炎はここ15年以内に遭遇している)。

民間の精神病院の場合、ヘルペス脳炎を疑い、髄液検査を実施し外注で結果を待つのは全くの後手必敗のパターンである。時間がかかりすぎる。「一刻も早く」最高の治療を開始できないからである。

今はヘルペスもPCR法で診断できるので早期に診断できるが、民間病院であれば、機器の面で髄液を取ることすらできないこともあるので、そのまま急いで救急病院に搬送するべきである。その際、紹介状を書く時間すら惜しいと思う。

細かいこと言えば、髄液検査を実施前にゾビラックスを開始した場合、PCR法で陰性の結果が出ることもあるという。普通、点滴用ゾビラックスは民間の精神科病院には置いていないことも多く、やはり何も検査せず、ヘルペス脳炎疑いということでICUを持つ地域の中枢病院に搬送した方が良いであろう。

僕が経験した2人目の人(年配の男性)は不思議な精神症状であった。その男性は、ある大きなサービスエリアで、家族がトイレに行くように言ったところ、トイレに入らずその横の草むらに立小便をしたというのである。

これは明らかに統合失調症の症状ではない。そういうことも区別がつかない、あるいは疑う感性がない人は精神科医に向かないと思う。(新人なら良いが)。

この症状は今から考えると、一見、FTD(前頭側頭型認知症)の精神症状のように見える。(過去ログではFTDは単に前方型認知症と記載している)。

FTDの「反社会的行動」は重要な精神所見の1つである(トイレがすぐ横にあるのにその傍で立小便をするのは反社会的行動。統合失調症の患者さんには普通これはない)。


このような脳炎とFTDの精神症状の面だけの相違だが、急性に出現するかあるいは慢性にゆっくり出現するかだと思う。時間が経つと脳炎は感染症なので全身状態が悪化し、次第に意識障害が進行するため、それでも鑑別診断できるが、その時点から治療を開始するのはもうかなり遅れている。

ヘルペス脳炎のように急な処置を要する人はなぜか週末に初診することが多い。精神科の場合、よくわからない患者は、週末であれば「とりあえず病棟に入院させて様子を見ておこう」という感覚になるが、週明けには全身状態が既にかなり悪化している可能性が高い。(予後不良)

ヘルペス脳炎は、精神科医の日常のテンポでは手遅れになりやすいのである。だからこそだが、統合失調症でない奇妙な精神所見を見たら、十分に注意して診察すべきである。

参考
70%の確率
器質性うつ状態と広汎性発達障害
このブログを読んで、精神科医になりたいと思う人へ