HYODのこれまでとこれからと 前編

文・若林葉子/写真・神谷朋公

HYODというブランドのレーシングスーツがサーキットを走り始めて今年で丸20年になる。

しかしHYODブランドを発信するヒョウドウプロダクツは、それ以前の1972年から「革ツナギ」と関わり続けてきた。クシタニを経て、RSタイチやアルパインスターズ契約の日本人選手のOEMメーカーとしても、その技術を磨いてきたのである。今回は、HYODのこれまでの歴史を振り返ってみたい。

HYODのなりたち

 この小稿の主人公は兵頭多美江さんである。多美江さんは革ツナギをはじめとする高品質なレザーウエアのメーカーとして知られる(株)ヒョウドウプロダクツの創業者、故・兵頭満昭氏の妻であり、現社長の兵頭昭則氏の母である。

 2004年に突如出現した、国内最高峰のレザースーツブランドのなりたちと、これまでベールに包まれていたその背景を探るべく、先代社長の満昭氏と多美江さんの出会いまで遡ってみたい。

 時は1971年。ともに22歳だった2人は大阪で出会う。満昭氏はその4年前の1967年に18歳で故郷の宇和島から職を求めて大阪に出てきた。最初に働いたのは紳士服店だ。短い間にその真面目な働きぶりが認められ、デパート内にあった店舗を任されたという。その後、満昭氏は2つ目の職場となる着付け学校の営業職に就き、多美江さんと出会った。多美江さんは当時、生まれ育った浜松で着付け学校の講師として働いており、その大阪の本校こそが満昭氏の職場だったのだ。

 「勉強のために大阪の本校に行ったとき、移動の際の運転手をしてくれたのが主人だったんです。初めて会ったとき、あ、この人と結婚するんだと思いましたね」 後のヒョウドウプロダクツにとって運命の出会いである。多美江さんにとっては、ごく自然な出会いだったが、会社は厳しく社内恋愛を禁じていた。1972年、23歳の2人は会社を辞めて、多美江さんの故郷の浜松に移り住み結婚した。とんとん拍子の良縁であった。

クシタニで働き始める

 とは言え、満昭氏は無職。翌年に長男の昭則氏が生まれているから、何はともあれ働かねばならない。そんなとき、革ツナギで有名なクシタニから、「うちで働かないか」と満昭氏に声が掛かる。クシタニとは1955年に日本で最初にバイク用の革ツナギを作り、販売した会社である。浜松に拠点を置く創業家の次男と多美江さんが高校時代からの知り合いであったことが満昭氏とクシタニの縁を繋いだのだ。
 クシタニで働くようになると満昭氏は、ライダーの生の声を聞くために全国のサーキットに足を運ぶようになる。多美江さんもそんな満昭氏によくついて回ったという。「バイクの世界のことなんて何にも知らなかったし、全然興味もなかったんですよ。でも当時は芸能人もけっこうサーキットに居たりして、それで面白いなって。何より主人と一緒にいたいっていう気持ちが強くてね、いろんなサーキットに行ったんですよ」

 1982年、バイクの国内出荷台数は過去最高の328万台を記録し、この年が日本のバイクブームのピークと言われている。多美江さんによると、満昭氏は国内、海外問わず仕事に明け暮れ、週末はレースのあるサーキットへ出かけて、ほとんど家に帰らないほど多忙を極めていたという。「当時、たくさんの人がクシタニのマークを付けて走ってました。ワイン・ガードナーとかランディ・マモラとかね。それはほんとにすごかったです」

RSタイチの下請けとしてスタート

 満昭氏のそんな忙しくも充実した日々は、突然終わりを迎えることになった。クシタニの創業家の体制に大きな変化があり、企業として組織の刷新が行われ、なんの瑕疵も落ち度もない満昭氏が、本意ではないながらもクシタニを出てゆくことになる。クシタニで働き始めてから15年が経っていた。

 「困ったなと思いましたよ。長男は中学生。下には4つ違いの長女もいる。家を建ててローンもありましたからね。これからもっとお金が必要になるのにと」

 しかしさらに困ったことに、 「満昭氏が辞めるなら」と、一緒に働いていた社員が次々と満昭氏の後に続いたのだ。「私たちは、もちろん止めたんですよ。でも結局、辞めちゃって。けど翌朝から、おはようございますってウチにやって来たの。もともと仕事が終わった後に、ウチでご飯食べさせたり、お酒を飲ませたりしてたんですよ。そのせいか、ウチに“出勤”してきたのよ(笑)。だからお昼を食べさせて、夜になるとお酒を出したりして。私が一生懸命、着付けで稼いだお金も、そうやって全部使っちゃったんです」

 満昭氏はそんな彼らを、なんとかして食べさせて行かなければいけないと強く思ったのだそうだ。兵頭夫妻と彼らの間にはそうすることが自然であるかのような、常識では測れない関係が築かれていたのだろう。このとき、兵頭家に“出勤”していた高橋欣也さん(現HYODオリジンワークス部長)はこう語る。「先代は仕事には厳しい人でした。彼が現場にいると空気がピリっとするというか、緊張感がありましたね。でも仕事以外では優しい人で、だからみんな先代を慕っていました」

 そして満昭氏は恩義のある知人を介して大阪の吉村太一氏を訪ねる。吉村氏は60年代を中心に世界的に活躍したモトクロスライダーだ。’74年に引退後、オリジナルのオフロード用品を販売する会社「RSタイチ」を立ち上げていた。

 吉村氏は満昭氏1人ならと承諾したが、満昭氏は自分を含めて8人雇って欲しいと願い出た。すると吉村氏は「そうか分かった。うちは工場を持っていないから、工場を立ち上げて商品をつくるのであれば良いが、どうか」と提案された。「それで主人を社長にして、“RSタイチ浜松”という会社を作ったんですよ。すごく嬉しかったですね」と振り返る。結果としてクシタニで革ツナギを作っていた退職組の若者たちの腕が活きることにもなったのだ。1988年、レザースーツの生産拠点としてRSタイチ浜松がスタートした。ヒョウドウプロダクツはこの年を創業の年としている。

 1988年と言えば、RSタイチと契約していたケビン・シュワンツが世界GP鈴鹿大会で優勝した年でもある。満昭氏はクシタニでもRSタイチ浜松でもその全盛期に居合わせ、常に全力を尽くし、その手腕を惜しみなく発揮している。多美江さんも「主人はなんでもできる人だった」と言うように、どこにいてもその置かれた場所でひととおり以上に結果を出す人であった。

 RSタイチ浜松を立ち上げてから全ては順調に進んでいるように思えた。しかし製造業を日本全体で見ると80年代後半から、人件費や製造コストの安い海外への工場移転が急速に進んでいた。90年代後半になるとRSタイチでも“10万円レザースーツ”を発売し、安価な革ツナギへの需要がじわじわと増えていった。付加価値の高い手作り品と安価な量産品。道は2つに分かれてゆく。この頃、多美江さんは初めて満昭さんの弱音を聞いた。「あのころ主人はだいぶ悩んでいて…もうついていけないかもしれないって」

 クシタニ時代から満昭さんと歩みを共にしてきた鈴木途修さん(現HYOD参与)は、「大阪の商人的な考え方と我々のものづくりの考え方の違いもあったでしょうね」と言う。確かにそうかもしれない。生産者と消費者の間に立ち、物を動かすことによって利益を得るのがビジネスであり、商人。自らモノをつくって少しずつ売り上げと信頼を積み重ねていく“浜松のものづくり”とは考え方が根本的に異なる。その違いが時代の変化とともに顕在化していったのだろう。どちらか一方が正しいわけではなく、おそらくどちらも正解なのだ。それだけにその溝を埋めることは永遠にできない。時代は21世紀に入っていた。

兵頭満昭/Michiaki Hyodo

1949年~2002年。愛媛県宇和島生まれ。大阪の紳士服店を経て1972年に浜松の「クシタニ」に入社。企画から生産、販売までの全ての業務を統括し、70年代から80年代に掛けて日本のレザースーツやバイク用品の礎を築く。1988年に「RSタイチ浜松」を設立。レザースーツの生産のほか、製品開発やレーシングサービス活動に深く携わる。

加藤大治郎選手のこと

 そして2002年、満昭氏は53歳という若さで旅立ってしまった。しかしそれは終わりではなく、新たな始まりでもあった。満昭氏の想いは息子である昭則氏に引き継がれる。昭則氏は信念の人だ。満昭氏の旅立ちから2年後の2004年、30歳の昭則氏のもと、生前の満昭氏の念願でもあった自社ブランド、「HYOD」が誕生する。長年お世話になったRSタイチと吉村太一氏には深い感謝を感じながらも、浜松のものづくり集団は袂を分かち、自らのブランドで勝負していくことを決意したのだ。満昭氏はいなかったが、このときもまた、加賀山就臣選手を始めとする国内のトップライダーの多くがHYODを選んでついてきてくれたのである。

 クシタニに入社した1972年以降、当然のことながら兵頭家とライダーとの縁は何十年と続いてきている。仕事のない経済的に厳しい時代にも、慕ってくれた元社員たちにご飯を食べさせていた多美江さんである。若くして厳しいレースの世界に身を置き、むき身で闘うライダーたちを放っておける訳がない。惜しみなく与える、その心がヒョウドウプロダクツの原点なのだ。

 藤原克昭選手のフェイスブックにこんな投稿を見つけた。「レース業界の母、ヒョウドウプロダクツ専務の多美江ばぁば。21歳で浜松に住んでいた頃、怪我して動けない時、熱出して泣きそうな時、母のように毎日ご飯作って貰って…洗濯して貰って…もう26年になるんやね。タイに住んでた時も毎週のようにちゃんとご飯食べてるか、体調は大丈夫か心配してくれた…(中略)いつもいつもありがとう。これからも俺たちの母として元気でいてね」と記されている。

 革ツナギはライダーの身体を守るものであるが、同時にライダーの心も守られなければならない。多美江さんはただ甘やかすだけではない、率直に歯に着せぬ意見も言う。ときには叱り、ときには励ます。大きなレースの時は、サーキットでライダーの家族のためだけに大きな個室を借り切って小さな子供の面倒までみている。しかしレースの前に、自分からライダーに声をかけることはしないし、ましてピットの中に入っていくようなことも絶対にしない。

 2003年のあの日もそうだった。加藤大治郎選手が鈴鹿サーキットのシケインでクラッシュして意識不明のまま病院に運ばれたあの日だ。多美江さんは大治郎選手を高校生になったばかりのときから知っている。「土曜日の夜、(大治郎選手が)『多美江さん、帰るね』って言いに来て、バイバイってして。あの日の朝も『おはよう』って。私はあんまりレースの前にライダーと会わないようにしてるんですけど、あの子はいつも『おはよう』って来るんですよ。私が寝ていたら、起こさず黙ってそばで静かにしているような、そんな子でした」事故の後、関係者のピリピリした雰囲気をおもんばかり、あえてお見舞いには行かなかったが、大治郎選手の奥さんから電話が入って病院へと向かった。そしてそれが最期の日となった。

 その悲しさや辛さをヒョウドウプロダクツの誰一人として口にはしない。言葉になどできないのだと思う。彼らのその言葉にできない思いは、革ツナギやライディングウエアのものづくりへと昇華される。ライダーを守る、というだけでは足りない。ライダーを失う辛さを誰よりも知っているからこそ、ライダーを待つ家族も悲劇から守りたいのである。「100%」「完璧」はないと分かっていても、限りなくそこに近づくことが彼らの使命なのである。

フラッグシップストア HYOD PLUS HAMAMATSU

住所:静岡県浜松市中央区市野町2732
TEL:053(465)8282
営業時間:10:00~19:00(毎週火曜日定休)
https://www.hyod-products.com/store/hamamatsu/


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