世の中の事は確かに知った方が良い。そう思います。その為の知識も確かに必要だし、経験も必要です。
世の中は自分だけが生きている自己中心的な世界ではないですから、自分以外の人たちがどのように生きているのか、社会がどのように構成されているのか、確かに、より知っておくほうが良いと思います。
ですが、それには限界があるし、全てを完全に知る事は出来ません。
出来ませんが、出来る範囲で、経験して知って、学習して、そして、でも、やっぱりその社会の中で、自分は自分で生きていく。そのような生き方は大事だと思います。
自分で生きていくと言っても、自分に過剰にこだわる必要も本来は無いと思います。別にこだわるほどの自分は無いわけですから、それにむしろ、固定化させる事も無いわけです。
人間は学習する生き物ですから、ある意味、常に、生きながら変容を求められていて、というか、自ら自然に環境とともに変容していて、ある種、固定化させられる力が自分にかけられているわけです。
あれは、ある意味での、環境に対する人間の適応能力ですが、それは自然に起こる事であり、それ以上に自分自身で自分を固定化させる必要は無いわけです。
固定化という意味での変容は、自然に起こればいいわけで、世の中との調和、そして、周囲との調和は、それで十分なされるわけです。
ですから、その上で、過剰に、何者かになろうとする必要はなく、それは無理な力をかけるという事になってしまうわけです。
あるがままとは、その意味で、あるがままであって、自然な力で変容すればよく、そして、その自分で十分自分であるわけです。
人間の適応力と変容力、基本的には、これに自然に従いながら、それ以上の過剰な自分を作り上げようとしない。人は、そのような柔らかさで、十分力を発揮できるんです。
感じる力を大切にするのが良いのかもしれません。自分に過剰にならなければ、人はその分の柔軟さと自由度を獲得できます。そして、その自由の中で、伸びやかに、自分の感受性を発揮して、より良い方向に自分を持っていけるかもしれません。
自分を何者かに仕立て上げようとすればするほど、自分をないがしろにしがちです。自分が今何を感じているかを無視しがちです。大事な事は、むしろ、今何を感じているかです。そして、その事を知る事です。これが案外出来そうで出来ないわけです。
自分の中の、というか、自分の底の、無意識のうちに根として張っている固定観念から逃れ、自由を取り戻して、心を自由にするんです。何者かになる必要なんてないんです。