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毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

何者かになる必要はない。今自分が何を感じているか。

世の中の事は確かに知った方が良い。そう思います。その為の知識も確かに必要だし、経験も必要です。

世の中は自分だけが生きている自己中心的な世界ではないですから、自分以外の人たちがどのように生きているのか、社会がどのように構成されているのか、確かに、より知っておくほうが良いと思います。

ですが、それには限界があるし、全てを完全に知る事は出来ません。

出来ませんが、出来る範囲で、経験して知って、学習して、そして、でも、やっぱりその社会の中で、自分は自分で生きていく。そのような生き方は大事だと思います。

自分で生きていくと言っても、自分に過剰にこだわる必要も本来は無いと思います。別にこだわるほどの自分は無いわけですから、それにむしろ、固定化させる事も無いわけです。

人間は学習する生き物ですから、ある意味、常に、生きながら変容を求められていて、というか、自ら自然に環境とともに変容していて、ある種、固定化させられる力が自分にかけられているわけです。

あれは、ある意味での、環境に対する人間の適応能力ですが、それは自然に起こる事であり、それ以上に自分自身で自分を固定化させる必要は無いわけです。

固定化という意味での変容は、自然に起こればいいわけで、世の中との調和、そして、周囲との調和は、それで十分なされるわけです。

ですから、その上で、過剰に、何者かになろうとする必要はなく、それは無理な力をかけるという事になってしまうわけです。

あるがままとは、その意味で、あるがままであって、自然な力で変容すればよく、そして、その自分で十分自分であるわけです。

人間の適応力と変容力、基本的には、これに自然に従いながら、それ以上の過剰な自分を作り上げようとしない。人は、そのような柔らかさで、十分力を発揮できるんです。

感じる力を大切にするのが良いのかもしれません。自分に過剰にならなければ、人はその分の柔軟さと自由度を獲得できます。そして、その自由の中で、伸びやかに、自分の感受性を発揮して、より良い方向に自分を持っていけるかもしれません。

自分を何者かに仕立て上げようとすればするほど、自分をないがしろにしがちです。自分が今何を感じているかを無視しがちです。大事な事は、むしろ、今何を感じているかです。そして、その事を知る事です。これが案外出来そうで出来ないわけです。

自分の中の、というか、自分の底の、無意識のうちに根として張っている固定観念から逃れ、自由を取り戻して、心を自由にするんです。何者かになる必要なんてないんです。

何者かになるのも自分にこだわるのも止めて、脱力して生きる。

人は、何かと自分にこだわってしまいます。自分が何者かである事を求めて、気が付いたら自分に無理な生き方をしてしまいます。ですが、その「何者」にはなかなか到達しません。きっと、そんなものは無いからです。

ある面においては、社会的に何者かにはなるかもしれませんが、あくまで社会的であって、一方で必ず自分は自分自身なわけで、自分ではない「何者」に100%なる事はありません。

例えば、成功者になる、みたいな事は、社会的な何者かになるというのに似ていて、今の自分ではない何者かになろうとする事であるわけですが、仮にその状態に到達しても、きっとその時には、さらなる成功者の像が、もっと向こうに遠のいているわけです。

何かと、何者かにならなければならない、とか、自己実現したいとか、今の自分ではない何者かになるために、自分を無理にプッシュアップして、そして、いつまでも、その状態に到達できず、落ち着かないわけです。

いつも自分を無理させてしまいますから、エネルギーは足りなくて、満ち足りる事も、安心が得られる事もありません。

だから、どこかで、そろそろ、脱力が必要であるわけです。脱力して生きる。

別に、何者かになる必要はない。何者になるかも何も、すでに自分は何者かであって、それは自分自身であるわけです。

ただ、何かをやっているだけであって、それで社会的には何者かであって、それ以上でもそれ以下でもなく、何者かであって、それでいいわけです。

そして、それは、つまり、何者かになる必要は無いという事です。

誰も何者かになる事は求めていないし、求めているのは自分だけだし、そして、その自分さえも何者である事を求めなければ、もう誰も自分自身が何者である必要も無いわけで、それが分かれば、無理やりな自分自身のプッシュアップは止めて、ただ自分でいればいいんです。

周りの誰もそれで何も困らないし、自分が過剰に自分こだわっていない分、むしろ周りにとっては接しやすくなるくらいで、有難いほどです。

自分だけが、確かに自分の事ですからそれはそうなのですが、自分に過剰にこだわっているのであって、周りからすればそれはどうでもいいし、むしろ、こだわらない方が周りからしてもスムーズに接しやすいわけです。

そして、自分自身も楽になるんです。パフォーマンスも自然なものになるし、むしろ、上がるし、自分も皆もハッピーであるわけです。

だから、脱力して生きるんです。何者かになろうとするのも止めて、自分に過剰にこだわるのも止めるんです。楽に生きて、パフォーマンスを自然に上げるんです。

不安とともに生きていく。

人間ですから、不安はあります。大きい不安から小さい不安まで、たくさんあります。それが普通なんです。

確かに、調子の良い時は、不安は感じないかもしれません。ですが、時間が経てば、また不安は訪れます。人間とはそういう生き物です。

不安は、精神状態のひとつで、よく生じる感情です。少ない方が良いですが、無いものにはできません。ですから、いかに、不安と付き合っていくか。そういう事です。

日々、いかに、不安と付き合うか。日常とはそういうものです。不安を気にしたり、不安を無視したり、時には、不安と向き合い、またある時には、不安を振り切るわけです。

不安は付きまといますが、不安といつも向き合いっぱなしである必要は無いし、放っておいても良いんです。

また、不安と戦う日々という事もあります。不安と向き合い、不安と戦いながら、不安に負ける日もあれば、不安に打ち勝つ日もあるわけです。

不安は、別の意味では、サインです。危険や危機を教えてくれるサインです。確かに、感じているわけです。このサインは、確かに自分の身体が感情を通して送ってきているわけで、対応する必要があるわけです。

ある意味では、危険や危機の状態だから、対応してくれ、そして、対処してくれと言っているわけです。

だから、対応するんです。対処するんです。とは言え、どのように対応し、対処すればいいか、分からないわけです。

分かればすぐに対処して、それで解決するわけですが、そうはいかないわけです。

ですが、確かに、不安はサインであり、どうにか対処するんです。色々やってみて、すぐに解決する事もあれば、解決に時間がかかる事もあります。

その場合は、思い切った判断、もしくは、決断が必要かもしれません。

リスクを取って、思いっきり何かに挑戦する必要があるのかもしれません。もしくは、何かを思い切って断念して、諦めて、止めて、捨てないといけないのかもしれません。

またある時は、辛抱の時かもしれません。忍耐の時かもしれません。今は不安を抱えながら耐え忍び、この難所をくぐり抜けるのを、ただ待つだけかもしれません。

先はどうなるか分かりませんが、思い切った手を打たなくても、解決されるかもしれません。

とは言え、また、不安はやってきます。不安はいつも自分のそばにあって、何かあれば、危機や危険があれば、すぐに現れます。

ですが、不安は人間としての普通ですから、それを完全に無いものにはできません。不安と上手く付き合い、たまには、無視し、たまには、振り切り、戦い、そして、向き合うんです。

いずれにしても、精神的には大変ですが、不安とともに生きていくんです。

焦りと散漫さと集中と没頭。余裕ある時間を作る。

気が付くと、人は焦っています。焦ってしまいます。そもそも、人は焦りやすい生き物ですから、出来るだけ焦らないようにする事が大切です。

その為には、余裕を持つ事が大切です。余裕を感じる時間を作る事が大切です。

不安があると、それも焦りの原因になります。もちろん、逆もあって、焦りがあると、それが不安の原因になります。

いずれにしても、焦りを出来るだけ抑えて、その為にも、余裕ある時間を作ることが大切です。

同様に、散漫さも問題です。気が付いたら、人はすぐに散漫になっています。生物一般、何か刺激があると反応してしまいます。そのようにできています。

ですが、気が散るもの、気を引くものは、周りにたくさんあります。ですから、それらに無防備でいると、すぐに反応して、容易に散漫になります。

散漫さは、周りからの刺激だけが原因ではありません。自分の頭の中にもあります。あらゆる記憶の断片や思考の断片も、囚われの原因になります。そして、頭の中はすぐに、分散され、散漫になります。

ですから、出来るだけ散漫さを抑える事が大切です。そして、散漫さを抑える為にも、その事に気付いて回避できるように、余裕ある時間を作る事が重要であるわけです。

焦りに対しても、散漫さに対しても、余裕ある時間を作り、これらに気付いて、対処するという事です。

そして、物事に集中する事が大切です。目の前の取り組んでいる事に、集中するんです。

焦っていると、何事にも集中できませんし、何かに集中していても、気が付いたら頭の中は散漫になって、集中は容易に妨げられます。

ですから、集中を持続する為にも、余裕ある時間を作って、焦りや散漫さを抑制するんです。

意識を目の前の事に集中させ、それを持続していく事で、没頭する事が出来ます。没頭は人間にとって心地よく、自分自身のパフォーマンスを上げてくれます。出来れば、そのような状態に持っていきたいわけです。

集中と没頭はとても良い状態であるわけです。

一方で、長い間、集中力を持続する事は出来ません。ですから、時には休憩が必要です。そのような時間もとる事が大切です。休憩する時間をちゃんととることで、その後に集中力を上げる事が出来ます。そして、没頭する事が出来ます。

その為にも、余裕ある時間を作る事が何より大切です。そのような時間をちゃんと作る事で、焦りやすい自分を、また、散漫になりやすい自分を抑制して、目の前の事に集中するんです。そして、没頭するんです。

そうする事で、心地良い状態になり、パフォーマンスも上がるんです。

自分が感じる時間を作る。

もちろん、時間は存在するし、時計の刻む時間はあります。ですが、気が付くと時間が経っている事もあって、忙しく、マインドレスの状態では時間は感じられません。

それでは、人は時間の中を生きているとは言えません。時間は無いのと同じです。

そうではなく、人は時間を感じる事が大切です。そのような時間を作るんです。

時間を作るという事は、今を感じるという事です。今この瞬間を感じる事によって、時間を感じられます。時間を持っていると言えます。

今という時間の中で、ここに自分が居る事に気付けます。自分が何を感じているかも気付けるし、分かるし、考えられます。そのような時間を作るんです。

そして、時間を作る事が出来れば、快適さを感じられます。心地良さも感じられます。そのような時間を作れなければ、快適さも心地良さもありません。ただ、時間は過ぎていき、流れていく時間に気付く事も無く、快適さも心地良さも無く、つまり、自分にとっての時間は無きに等しいわけです。

そして、時間があるという事は、心が落ち着いているという事です。心が落ち着いていなければ、時間なんかありません。冷静さはとても重要です。冷静になれれば、今自分がここに居る事にも気付けるし、自分らしく居る事も出来ます。

その反対が、焦りです。そして、不安です。そのような状態では、時間はありません。焦りに急かされて、心ここにあらずの状態で、不安でいっぱいで、何も手につきません。

しっかり手につくようにする為には、時間を作る事です。

そのような時間を作れれば、快適で、冷静で、余裕が生まれます。余白であり、スペースです。

そして、そのような時間の中で、目の前の事に集中できます。没頭できます。安心して、快適さに包まれて、思いっきり没頭できるわけです。

同時に、目の前の対象に手を付けて、面白さを感じられます。楽しさが生まれます。そして、喜びももたらされます。

それらの感情は、この時間の中で、十分にフィードバックされ、さらなる集中と充実感が得られます。

そのような時間の中は自由であり、想像的であり、そして、創造的になります。色んな事を考え、想像し、試し、生み出します。アイデアであれ、実際的な事であれ、何であれ、です。

そのような創造性や自由、快適さ、落ち着きが、今という時間を感じる事によってもたらされます。その為に、今この瞬間、時間を感じ、時間を作るんです。時計の刻む時間ではなく、自分の中の、自分が感じる時間です。

脳内の快適空間とジャーナリングの創造の現場。

人は色んな情報に触れて、それらを自分の頭の中に取り込んでいます。それらは断片的で、単なるモザイクにしか見えない、バラバラなものです。それらは、整理しないといけません。

情報はあまりに多く、断片的過ぎるので、自分なりに、脳内で整理する必要があって、でなければ、情報の断片に埋もれ、身動きできなくなってしまいます。もはや、人間は、それらを片付けずにはおれないわけです。

ですから、断片的な大量な情報は、自分なりに形作って使えるものにする必要があって、意味があるものにする必要があるわけです。

人間のゲシュタルトの性質が、それをそうせざるにはおかないわけです。そうする事で、形を作り、意味を成し、何かを創造するわけです。そうしなければ、形もなく、意味もなく、何も生み出さないわけです。

その為には、頭の中で、あるいは、脳内で、断片としての情報を整理する必要があります。自分なりに論理立てて、意味あるものとして形を作るんです。

そして、それらを整理する為には、脳内に、快適な空間を与えてあげる必要があります。自由にそれらの情報を触れ、並べ替えて、意味を形作るための空間です。

その空間で、大量の断片的情報を整理するには、時間も必要です。焦っていては何もできません。何にも手が付きません。十分な時間が必要なんです。

安心できる時間であり、ゆっくりとひとつずつ情報を手に取って見て、そして、並べる場所と時間が必要なんです。

それは、快適な空間であり、情報を整理する場所であり、ゆっくりと落ち着いていられる場所です。自分の居場所とも言えます。

そのような快適で、自由で、ひとつひとつ整理するだけの十分の時間があって、そこで、自分なりの形と意味をゆっくり作るんです。創造の現場でもあるわけです。

そのような空間は、ゆっくりできる自由で、想像的で、そのような活動を助ける実質的な想像の現場、あるいは、ものづくりの現場の道具としての、ジャーナリングであり、ノートであり、言葉であり、文字であるわけです。

そのような快適空間で、今十分な時間を感じて、想像し、言葉と思考を整え、理解し、解釈し、解読して、意味を作るわけです。

そして、それらに基づいて、ゆっくりと時間を使って、何かを設計し、構築し、創造するわけです。それが、ジャーナリングの創造の現場です。

ジャーナリングは、そのような快適な創造の空間を、もしくは、自分らしくいられる居場所を提供し、意味の無い断片的情報を整理して、意味ある何かを生成し、想像するわけです。

普通という概念から生まれる違和感から生き始める。

人は、ゲシュタルトの性質により、普通という概念を生み出します。生み出してしまいます。目の前に広がった世界を生きていく為に、普通という枠組み、普通という形を自ら作り上げるわけです。

普通という概念をくみ上げなければどうなるのか。それは、今自分の目の前に広がる世界が形成されず、バラバラの世界を生きる事になります。ですから、無意識に、自ら、普通という概念を作り出してしまうわけです。

情報は、自分の中の普通の概念を生み出す源になります。自分の中に入ってくるありとあらゆる情報の断片を活用して、「普通はこのようである」という概念を作り上げるわけです。

人が言った言葉や、メディアに流れている言葉、ありとあらゆる言葉を取り込むわけです。

これは人間が自然に行う事でありますが、同時に、自ら作りあげた普通という概念によって自分の首を絞めてしまう場合があります。

もちろん、自ら首を絞めなくても、他人の「普通の概念」によって「普通」を強制されることもあり、この事によって苦しめられる事もあります。

普通の概念は、あくまで普通の概念であって、それに自分が合致しているわけではありません。むしろ、ほとんどのケースで、自分と合致しません。

部分的に、あるいは、大部分は、普通の概念に当てはまっていても、別のある部分は、普通の概念から外れています。

ですから、その普通からの「ずれ」によって、知らず知らずのうちに苦しむ事になります。

当然、普通の概念は他人からももたらされますから、自分自身の普通の概念からの「ずれ」がずれとして認識させられるわけです。

本来、ずれは、問題ではありません。ですが、普通からのずれは、この世界に生きていながら、違和感を生みます。そして、生きづらさを生みます。

ですから、生きづらさは、たいていの人が経験します。人は多様ですから、必然的に普通からずれるわけで、同時に、違和感を生み、生きづらさを生むわけです。

人は、自分を安定化させるためのアイデンティティとして、普通の概念をアイデンティティとする場合が多いわけですが、違和感に基づく生きづらさから、アイデンティティを獲得する可能性もあります。

生きづらさは、普通の概念からのずれによるわけですから、それは、自分の特徴でもあるわけです。多様である人間にとっては当然であるわけです。必然であるわけです。

ですから、自分の特徴、自分らしさ、というものを、違和感からの生きづらさから発見する事があり得るわけです。

それは、自分自身を支える新たなアイデンティティにもなり得、普通の概念からも解放されうるわけです。

人は、そこから、ようやく、自分らしく生き始めるわけです。