識 る
主要施設
山門(三門)
[重要文化財]
山門【さんもん】は、江戸時代中期の寛延三年(1750)に建立されて以来、大勢の参拝者を本堂に迎え入れてきた歴史ある門です。様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋【いりもや】造りの栩葺【とちぶき】で、国の重要文化財に指定されています。弘化四年(1847)の善光寺地震や、昭和四十年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、加えて全体の老朽化も進んだことから、平成十四年(2002)10月から平成十九年(2007)12月までの約5年間、山門としては初の大規模な修復工事となる平成大修理を実施しました。
これにより山門は従来の檜皮葺【ひわだぶき】屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦りました。この修復後、約40年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成二十年(2008)から再開しています。
鳩字の額
楼上には輪王寺宮【りんのうじのみや】公澄法親王【こうちょうほっしんのう】筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。大きさは約三畳分あります。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、三文字の中に鳩の姿が五羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われています。現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目であり、先代の額は現在史料館で見ることができます。
内部
楼門上部には、山門の本尊である文殊菩薩騎獅像と四方を守護する四天王像をはじめ、色鮮やかに修復された仏間の障壁画、四国八十八ヶ所霊場分身仏などが安置されています。壁面には墨字で書かれた落書きが多く残されています。これは江戸期から昭和初期までの間に登楼された参拝者が自らの名前を残したものです。
中には「島津藩の家紋と共に書かれた桜島と思われる山の絵」や浅野家の後に赤穂を治めた「赤穂藩森家家中の名前」や会津討伐の後に立ち寄ったと思われる「長州奇兵隊」といった記載が見られる。
※文化財への落書きは犯罪になります。絶対にしないでください。
回廊に出ると鳩字の額を間近に見ることができ、北側には本堂が迫り、南側は善光寺参道や長野市の眺望を眼下に収めることができます。
経蔵
[重要文化財]
経蔵【きょうぞう】は、宝暦九年(1759)に建立された五間四方宝形【ほうぎょう】造りのお堂です。昭和四十九年(1974)に江戸時代を代表する経蔵建築として重要文化財に指定されています。
内部中央には八角の輪蔵【りんぞう】があり、その中には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版【てつげんおうばくばん】『一切経【いっさいきょう】』全6,771巻が収められています。高さ約6m重さ約5t奥行約4mの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、収められた『一切経』を全て読んだことと同じ功徳【くどく】が得られるといわれています。
また、経蔵入口には輪蔵を考案した傅大士【ふだいし】の像があります。その他にも、経蔵内には伝教【でんぎょう】・慈覚【じかく】の両大師像などが祀られています。また経蔵の前には南無阿弥陀仏の六字が刻まれた石の輪を回す輪廻塔【りんねとう】があり、その輪を回すことで功徳を積み、極楽往生ができると言われています。
日本忠霊殿
日本忠霊殿【にほんちゅうれいでん】は明治三十九年(1906)に境内に建立され、昭和四十五年(1970)に現在の三重塔構造に建て替えられました。
戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまで、戦没者二百四十万余柱の英霊を祀る我が国唯一の仏式による霊廟です。御本尊は一光三尊阿弥陀如来の分身仏です。
善光寺史料館
日本忠霊殿の一階には善光寺所蔵の什物【じゅうぶつ】を展示する「善光寺史料館」が平成11年に併設され、善光寺所蔵の什物を常時展示しています。
かつて本堂に架けられていた絵馬や、永代開帳額などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます。
その他にも算額や、快慶一門の作による阿弥陀如来像、ダライ・ラマ法王14世が来寺された際に開眼された砂曼荼羅なども展示されております。その中でも特に高村光雲・米原雲海作の仁王像は、仁王門に安置された像の1/4原型像として注目されています。また、史料館の出入り口には善光寺が隔年で戦没者慰霊に訪れるサイパン島・テニアン島で回収した遺品も展示されております。
仁王門
[登録有形文化財]
仁王門【におうもん】は宝暦二年(1752)に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、大正七年(1918)に山形村永田兵太郎翁の寄進により高さ約14m間口約13m奥行約7mのケヤキ造りで再建されました。この門には善光寺の山号である「定額山【じょうがくざん】」の額が掲げられています。再建までの間、露座【ろざ】の仁王として親しまれた仁王像は現在、飯山駅前に安置されています。
仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に近代彫刻家として著名な高村光雲・米原雲海による作です。仁王像は一般的な配置と逆になっています。右に吽形(総高617.2cm)左に阿形(総高595.1cm)が安置されています。
造形の特徴として高村光雲は西洋の技法を多く取り入れています。小さな原型から大きな像を作る星取り法で用いた1/4の仁王像、1/3の二天像の原型は、日本忠霊殿内にある史料館にて展示されています。それに加え像の体と頭のバランスや筋肉の表現などそれまでの伝統的な日本彫刻には無い西洋的なスタイルであり、これまでにない新たな仁王像を作ろうとする高村光雲・米原雲海両氏の思いが込められた像です。また、100年後も変わらない姿を保つ為に仁王像には着色はされませんでした。そのため、建立当初の仁王像は木材そのままの白色でした。現在の黒ずんだ姿は経年によるものです。最近の調査により、この仁王像は重心のバランスを取ることにより自立していることが判明し、大きな驚きをもたらしました。
仁王像の裏側には右に三面大黒天(総高367.7cm)左に三宝荒神(総高428.6cm)が安置されています。
三面大黒天とは名前の通り三つの顔を持ち、左右に毘沙門天・弁財天、正面に大黒天の顔があります。大黒天は元々ヒンドゥー教の神であり戦闘の神として信仰されていましたが、中国に伝わってから財宝の神となり、さらに日本へ伝わった神です。日本ではその後、大国主命と習合して、五穀豊饒、商売繁盛、家内安全の神として信仰されています。
三宝荒神とは日本特有の神であり、仏・法・僧の三宝を守護し、不浄を清める神、竈神【かまどしん】、火伏せの神として広く信仰されています。善光寺は幾多の火災に遭っており過去の仁王門も火災で焼失している為、火伏せとして安置されています。
鐘楼
[登録有形文化財]
嘉永六年(1853)に再建されたこの鐘楼【しょうろう】は、南無阿弥陀仏の六字にちなみ、六本の柱で建てられています。屋根は大正十五年(1926)に瓦葺から檜皮葺へと変更されております。梵鐘は建物よりも古く、寛永九年(1632)高橋白蓮により発願鋳造されましたが、寛永十九年(1642)の火災により焼失、寛文七年(1667)に再造立された名鐘であり重要美術品に指定されています。毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として親しまれています。更に長野オリンピックでは開会を告げた鐘として有名になりました。