1944-1945
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「ロッキー・マウント (揚陸指揮艦)」の記事における「1944-1945」の解説
1月22日、第5水陸両用部隊はマーシャル諸島へ出航、31日にクェゼリン環礁沖に到着した。クェゼリンが確保される2月4日まで、ターナー少将は本艦で指揮を執った。25日、マーシャル諸島を出て真珠湾に向かい、オーバーホールを受ける。 太平洋の水陸両用部隊司令官となったターナー中将は第5水陸両用軍団司令官ホーランド・スミス海兵隊中将と共に再び本艦に乗艦。5月29日、マリアナ諸島を攻める「統合遠征部隊」(Joint Expeditionary Force)旗艦として出撃。6月15日、サイパンに到着し、初期の上陸作戦を指揮する。24日後、組織的抵抗が終結。6月20日にグアムへと向かい、それから4日後テニアン島へ出航。 8月26日、真珠湾にてフォレスト・ロイヤル(英語版)少将が本艦に自らの将旗を掲げる。9月15日、マヌス島へと出航し、一ヶ月後にフィリピンのレイテ島攻略に水陸両用部隊艦隊旗艦として参加。10月21日から24日までは艦砲射撃に加わり、米軍の戦車揚陸艦数隻に損傷を与えた日本軍の迫撃砲を一時的に沈黙させた。そしてアドミラルティ諸島とニューギニアでの演習のためにフィリピンを離れた。 1945年1月6日、攻撃部隊「ベーカー」旗艦としてリンガエン湾作戦に参加するべくフィリピンに戻る。ベーカー部隊は、ルソン島より飛来する敵航空戦力により頻繁に攻撃された。5週間にわたり「リンガエン湾地域管制群」(Lingayen Area Control Group)旗艦として役割を果たす。3月8日、サンタ・クルス礁まで第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー陸軍中将、ホワイト陸軍准将、J・A・ドウ陸軍少将と幕僚らをサンボアンガ上陸のために輸送した。10日に到着し、その後の2週間は上陸戦の指揮に当たった。 スービック湾に停泊中の4月4日、ロッキー・マウントはRAA(Royal Australian Artillery=王立オーストラリア砲兵隊(英語版))のL・バーラム准将を迎えた。その後フランクリン・D・ルーズベルト大統領の追悼行事に出席するためモロタイ島に向けて出航。23日、RAAのD・A・ホワイトヘッド准将と彼の幕僚を乗艦させ、北ボルネオのタラカン島上陸のために輸送した。5月3日には同じくRAAのG・F・ウッテン少将が本艦に乗艦。ボルネオ反攻の第二弾であるブルネイ湾上陸が始動する。艦砲射撃後の6月10日、ロッキー・マウントは兵員を上陸させた。その1週間後レイテ島へと向かったが、航海の最中の6月18日にロイヤル少将が心臓発作で死去した。 日本の降伏から10日後、ロッキー・マウントは第7艦隊麾下となる。9月1日にマニラで艦隊司令官と幕僚らを乗せて出航し、10日に朝鮮の仁川に到着した。その日に第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド大将が本艦に将旗を掲げた。翌日、黄海を渡って長江へと赴く。 19日、連合国艦船を率いて長江と黄浦江を遡上する。上海に戻ると、河辺に沿った大観衆に歓迎された。 ロッキー・マウントは大戦中の戦功により6つの従軍星章とNavy Unit Commendationを受章した。
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1944 - 1945
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「シェナンゴ (護衛空母)」の記事における「1944 - 1945」の解説
1944年1月13日、シェナンゴはサンディエゴを出撃してマーシャル諸島に向かい、クェゼリンの戦いおよびエニウェトクの戦いを支援した。続いてパラオ攻撃を行う第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に随伴して、補給部隊の護衛にあたった。空襲を終えた後、シェナンゴは4月7日にエスピリトゥサント島に帰投。間を置かずアイタペ(英語版)とホーランディアに対する作戦を支援し、第53.7任務群に属してからはマリアナ諸島への攻撃に参加した。シェナンゴの航空機はパガン島への攻撃を担当し、飛行場と港湾施設を爆撃。また、グアムの戦いに先立って7月8日からグアムの写真偵察を行い、7月21日の上陸作戦以後は攻撃の一翼を担った。シェナンゴは8月13日にマヌス島ゼーアドラー湾に帰投し、訓練と補給を行った。 9月10日から29日にかけて、シェナンゴはモロタイ島の戦いに参加し、ハルマヘラ島の日本軍航空基地に対する攻撃を行ってフィリピンの戦いの露払いとした。ゼーアドラー湾で補給の後、シェナンゴは10月12日にレイテ島攻略部隊とともにゼーアドラー湾を出撃した。この作戦にはシェナンゴを含めて18隻の護衛空母が参加して第77.4任務群を構成しており、司令官トーマス・L・スプレイグ少将はサンガモン (USS Sangamon, CVE-26) を任務群総旗艦にしていた。任務群はさらに3つの部隊、第77.4.1任務群(通称「タフィ1」。トーマス・スプレイグ少将直卒)、第77.4.2任務群(「タフィ2」。フェリックス・スタンプ少将)、第77.4.3任務群(「タフィ3」。クリフトン・スプレイグ少将)に分けられていた。シェナンゴのいる第77.4.1任務群はサマール島南方海域、第77.4.2任務群はレイテ湾口、第77.4.3任務群はサマール島東方海上で、それぞれ哨戒と上陸部隊支援の任務を遂行していった。10月20日のレイテ島上陸作戦当日、シェナンゴは3機の日本機の攻撃を受けたが、サンガモンと共同して全て撃墜し、パイロット1名を捕虜とした。10月24日、シェナンゴは航空機受領のためサギノー・ベイ(USS Saginaw Bay, CVE-82) とともに第77.4.1任務群を離れてモロタイ島に向かった。このため、シェナンゴとサギノー・ベイは10月25日のレイテ沖海戦に参加する事ができなかったが、初めての神風特別攻撃隊の攻撃にも遭わなかった。海戦後の10月28日に第77.4.1任務群に再合流したシェナンゴは、レイテ沖海戦で奮戦した他の護衛空母に航空機を補充していった。翌日、シェナンゴはシアトルでオーバーホールを受けるため東に向かい、到着後1945年2月9日までオーバーホールに入った。 オーバーホールを終えたシェナンゴは、3月4日にツラギ島に到着。訓練を行いながら西航しウルシー環礁に到着。3月27日、シェナンゴは沖縄戦に参加するためウルシー環礁を出撃し、沖縄島南方海域への欺瞞上陸作戦に対して空中援護を行った。続いて、神風の根拠地と目された先島諸島の日本軍航空基地への攻撃を行ったが、その最中の4月9日、1機の戦闘機が着艦に失敗して破損し、シェナンゴの飛行甲板上で火を撒き散らした。シェナンゴの乗員の働きは素早く、適切な処置を行って重大な損害に拡大する事を防いだ。シェナンゴは6月11日まで沖縄方面で行動し、タンカー船団を護衛してレイテ島サンペドロ湾 (フィリピン)に向かった。その後は日本本土への攻撃を行う第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の伴をして、補給部隊の護衛を担当した。
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1944 - 1945
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「アドミラルティ・アイランズ (護衛空母)」の記事における「1944 - 1945」の解説
アドミラルティ・アイランズは7月2日に整調訓練のためピュージェット湾へ向けて出航し、その後艦の燃料と航空燃料を補給するためサンフランシスコに向かう。サンディエゴに7月14日到着し訓練を行った後、太平洋艦隊(チェスター・ニミッツ大将)の空母輸送部隊に加わり、前線の空母部隊支援のため航空機、資材、兵員輸送に従事する。 真珠湾での短期間の停泊後、アドミラルティ・アイランズはマーシャル諸島に向けて進行する。8月9日にマジュロで積荷を下ろし、真珠湾へ直ちに帰還する。その後航空機と兵員をサンフランシスコに輸送し24日に到着した。9月の一ヶ月間も西海岸からニューギニアのフィンシュハーフェンへの往復輸送に従事し、10月7日にサンディエゴに帰還すると、8日から29日まで別の任務に従事する。10月29日にアドミラルティ・アイランズはニューギニアへの陸軍機および兵員を搭載するためアラメダ (カリフォルニア州)の海軍航空基地へ向かう。11月21日にフィンシュハーフェンへ到着、積み荷を降ろすとマヌス島へ向かった。11月23日にゼーアドラー湾で停泊した後、12月6日と7日に真珠湾で停泊し、一週間後にサンディエゴで航空機と兵員を搭載した。12月24日に真珠湾に戻り、クリスマスの後にグアムに向かう。 アドミラルティ・アイランズは1945年1月6日にグアムに到着した。二日間にわたって搭載航空機を揚陸し、10日に真珠湾に向かう。ハワイには20日に到着し、同地で主機の修理を行う。修理は1月31日に完了し戦闘で失われた航空機を補充するため61機の航空機を搭載した。2月2日に真珠湾を出航し、硫黄島攻略作戦に参加する空母部隊の後方支援を行う。エニウェトク環礁とウルシー環礁に停泊した後、2月16日に第50.8任務群の一部として出航し、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の後方支援任務に従事する。2月いっぱいを空母部隊が失った航空機及びパイロットの補給任務に従事し、3月2日に補給と外装修理のためグアムに帰還する。3月13日に再び第50.8任務群に合流し、沖縄攻略戦の支援任務に就く。この支援任務は補給のためグアムに帰還時に中断されただけでその後も継続された。
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1944 - 1945
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「ビスマーク・シー (護衛空母)」の記事における「1944 - 1945」の解説
1944年(昭和19年)7月から8月にかけて、ビスマーク・シーはカリフォルニア州サンディエゴとマーシャル諸島の間で船団護衛を行う。サンディエゴでの修理および追加の訓練の後にウルシー環礁に向かい、第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に合流する。11月12日から11月23日までレイテ島沖での作戦活動に従事した。 「ミンダナオ島の戦い」および「ミンドロ島の戦い」も参照 1945年(昭和20年)1月9日から1月18日にかけてルソン島攻略作戦にともなうリンガエン湾上陸作戦に参加した。この支援作戦は日本陸海軍機の激しい特攻攻撃に晒され、大きな被害を受けた。
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