1942
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 08:03 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動1941 ← 1942 → 1943 | |
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素因数分解 | 2×971 |
二進法 | 11110010110 |
六進法 | 12554 |
八進法 | 3626 |
十二進法 | 115A |
十六進法 | 796 |
二十進法 | 4H2 |
ローマ数字 | MCMXLII |
漢数字 | 千九百四十二 |
大字 | 千九百四拾弐 |
算木 |
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1942(千九百四十二、一九四二、せんきゅうひゃくよんじゅうに)は、自然数または整数において、1941の次で1943の前の数である。
性質
- 1942は合成数であり、約数は 1, 2, 971, 1942 である。
- 560番目の半素数である。1つ前は1941、次は1943。
- 各位の和が16になる140番目の数である。1つ前は1915、次は1951。
その他 1942 に関連すること
- 西暦1942年
- 1942 (EP) - ソウル・ジャンクのEP盤レコード
- 1942 (ゲーム) - カプコンが発売したアーケードゲーム
- 1942: Joint Strike - 上記のリメイク作品
- バトルフィールド1942 - エレクトロニック・アーツが発売したシューティングゲーム
- 19時42分をさす
関連項目
1942
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:04 UTC 版)
ドイツ空軍は、緒戦の数日間で制空権を獲得し、これに対し赤色空軍は、極東方面から1000機以上の戦闘機と戦闘爆撃機を投入し反撃にうつった。Il-2シュトゥルモヴィーク(対地攻撃機、襲撃機)がドイツ戦車隊と壮絶な戦闘を展開した。赤色空軍は1942年になると高中度からの対地攻撃の有効性に気付き、一つの目標に高中度からの連続攻撃を繰り返す新戦術を採用。また回転サークルと呼称する陣形を導入し、対地攻撃の効果を飛躍的に上げ、損害率も減少した。一方で爆撃機や偵察機の不足から、対地攻撃機が爆撃任務や偵察任務を任されることが増え、Il-2は様々な局面に投入された。回転サークルはドイツ空軍戦闘機隊との戦闘が考慮され、効果的な応戦が可能となっていたが、攻撃離脱時の隙が最大の弱点となっていた。結果、攻撃離脱時を狙われて撃墜されるパターンが増加し、Il-2の全損失数のうち8割が戦闘機による損失だった。無線の不足により護衛戦闘機の配備も効果をあげられなかった。 第11親衛襲撃機航空師団長A.G.ナコネチニコフ大佐は「…襲撃機が敵戦闘機と戦うことなど全く不可能であり…『襲撃機隊員は決死隊も同然だ』と公言する者さえおり、勇気の欠如した一部搭乗員は、自らの命を惜しむあまり怯懦な振舞いを恥じぬようになりつつある」と証言している。襲撃機隊がドイツ空軍の戦闘機により大きな損害を被ったことを受け、1942年10月にはUBT[ベレジン汎用旋回機関銃]を装備した複座型Il-2の生産が開始された。複座型により損害率は減少したが、照準の困難さから対地攻撃能力は低下した。現場での戦術が改良されると同時に、航空軍の効率的な運用がはかられ、赤色空軍の組織改革が実施された。 1942年5月5日に第1航空軍が創設されたのを皮切りに、同じ年の末までには、他の正面軍所属の航空隊も全て航空軍へと改組されていった。同時に、最高司令部の予備戦力たる航空軍団が編成され、さらに混成航空師団と混成航空連隊を同一機種の部隊へ再編するという作業が行われた。 しかし1942年には熟練搭乗員の損失による練度の低下が深刻となり、ドイツ空軍との技量の差が戦場であきらかとなった。赤色空軍の戦闘機隊は空戦機動の技量が極めて稚拙であり、陣形も連携も無視してバラバラに戦った。 1942年9月スタフカ代表G.K.ジューコフ上級大将と全ソ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記G.M.マレンコフ、赤色空軍総司令官ノヴィコフ将軍が、最高総司令官I.V.スターリンに宛てて赤軍戦闘機隊の活動に関する報告書を送付した。 「小職らは直近の6~7日にわたり、我が戦闘機航空隊の活動を観察した。数多くの事例から判断するに、我が戦闘機航空隊の戦いぶりは極めて拙劣であると断言せざるを得ない。敵戦闘機より数倍の優勢にある時でさえ、我が軍の戦闘機は戦いを挑もうとしないのである。また襲撃機の護衛任務を与えられた場合であっても、やはり敵戦闘機に対して向かっていこうとはせず、結果として敵に自由な襲撃機攻撃と撃墜の機会を与えている。この間、我が軍の戦闘機は離れたところを飛んでいるか、すぐに離脱して基地へ帰ってしまう状況すらしばしば生じている。遺憾ながら、この報告内容は、いくつかの固有事例にとどまるものではない。我が軍は、上述の如き戦闘機隊の恥ずべき振る舞いを、毎日のように目撃しているのである。小職らも自らの目で10を下らぬ事例を確認することとなった。一方、戦闘機隊の評価すべき行動は一度たりとも観察できていない…」 戦闘機隊の技量だけでなく両軍の戦闘機の性能にも大きな差があった。ドイツ軍の戦闘機はプロペラ・エンジン自動制御ユニットを搭載し、燃料と空気の混合や冷却水及び潤滑油の温度、過給機とプロペラの回転速度を自動的に調節できた。搭乗員は空戦機動に専念することが可能であり、調整を手動で行うしかない赤色空軍の戦闘機隊に対しドイツ空軍は大きなアドバンテージを持っていた。 赤色空軍の研究委員会は赤色空軍がドイツ空軍相手に航空優勢を保つには2倍の戦力が必要だと結論付けている。 スターリングラードの戦いがはじまると赤色空軍は一つの戦区に航空支援を集中させるやり方を採用した。航空支援の不足はドイツ軍に防衛ラインを再編する余裕を与え、赤軍の攻勢を頓挫させる大きな要因となっていた。大規模な戦果を期待するなら、地上の諸兵科軍が行動する場所と時間に合わせ、前線の狭い範囲に空軍の大部隊を投入しなければならないという認識は、今や赤軍航空隊と諸兵科軍の全ての指揮官に共有され、空軍と地上軍の共同作戦を組織化し、対地攻撃機の運用法を改良することが求められていた。地上からの航空誘導・指揮用の無線機材が持ち込まれ、空軍から派遣された連絡将校が地上の攻勢軍に同行した。スターリングラードの戦いでは地上軍と空軍の組織的協力が実現し、赤軍は枢軸軍の防衛ラインを破り包囲することに成功した。空中でも赤色空軍戦闘機隊が反撃に転じていた。1942年秋まではドイツ空軍がかろうじて優位であった制空権も、季節が冬に入ると、暴風雪や霧の影響で稼働率が極端に下がった。1942年末の1週間におけるドイツ軍の損害の約半数が天候による事故であったという。これに反し赤色空軍は「冬将軍」という味方とともにYak-9D戦闘機やPe-2爆撃機を中心に反攻し、ドイツ機500機と1000人のパイロットを殲滅した。ここに至り、スターリングラードの制空権を奪回した。この逆転劇を可能にした要因には、天候に恵まれた事だけでなく、レニングラード他の工場が壊滅的に破壊されたあとでも、東部のカザンやクイビシェフといった僻地へ工場を疎開移転し新鋭機を製造し続けることができた事、初期の損害の大部分が地上撃破によるもので、搭乗員の損害があまり無く再編後一線に補充し得た事、連合国よりの機体の供与を受けられたことなどがあげられる。両国の航空機生産にも大きな差がひらきつつあり、1942年度のソ連の戦闘機生産は、おおよそ9300機で、これに連合国より供与されたトマホークやハリケーンを含む援助機が2200機あった。これに対し、ドイツの1942年度の戦闘機生産は4600機にすぎなかった。
※この「1942」の解説は、「赤色空軍」の解説の一部です。
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「1942」の例文・使い方・用例・文例
- 1942年に準備された秘密の米国のプロジェクトのコード名で、第二次世界大戦で使用する原子爆弾を開発するためのもの
- 第二次世界大戦における日本の敗北(1942年5月)
- 第二次世界大戦の激戦(1942年)で、ロンメル率いるドイツ軍隊に対して、モンゴメリー率いる英国軍により連合軍の決定的な勝利に終わった
- 第二次大戦中の太平洋での戦い(1942年−1943年)
- 第二次大戦中の海戦(1942年6月)
- 人種的平等のためにジェームス・レオナルド。ファーマーによって1942年に作られた機関
- 1942年にフェルディナンドとイザベラによって占領されるまで、ムーアの王国の首都であったスペイン南部の都市
- 米国のプロボクサーで、3度、世界ヘビー級チャンピオンになった(1942年生まれ)
- 米国の作曲家、劇作家で、愛国的な歌で有名(1878年−1942年)
- 白昼の襲撃に際し東京上空に16台の爆撃機の戦隊を先導することで1942年に世界にショックを与えた米国空軍将校(1896年−1993年)
- 米国の市民権運動の指導者で、1942年に人種平等会議を設立した(1920年生まれ)
- イタリアの原子物理学者(1939年以降、米国)で、中性子衝撃によって引き起こされる人工放射能に取り組み、1942年に初の制御された核反応を実現したグループを率いた(1901年−1954年)
- 英国の理論物理学者(1942年生まれ)
- 米国のギタリストで、エレキギターによる革新的なスタイルがロック・ミュージックの発展に影響を及ぼした(1942年−1970年)
- 米国の暗くユーモラスな小説の作家(1942年生まれ)
- 米国の作家(1942年生まれ)
- 英国の人類学者(ポーランド生まれ)で、関与的観察者の技術を導入した(1884年−1942年)
- 英国のロックスター、ベース奏者、ソングライターで、ジョン・レノンとともにビートルズの音楽の大部分を書いた(1942年生まれ)
- カナダ人の小説家(1874年−1942年)
- 米国の映画製作者(1942年生まれ)
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