1940
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 18:08 UTC 版)
「タスカルーサ (重巡洋艦)」の記事における「1940」の解説
ノーフォークで1940年を迎えたタスカルーサは、1月11日にサンフランシスコおよび第5戦艦戦隊の戦艦ワイオミング (USS Wyoming, BB-32)、高速輸送艦マンリー (USS Manley, AG-28) とともに西インド諸島へ向かい、カリブ海での演習に参加した。1月16日にクレブラ島に到着したタスカルーサや他の艦艇は2日後にグアンタナモ湾に移動し、1月18日から27日まで艦隊訓練に従事した。1月29日にノーフォークに戻ったタスカルーサは、2月2日までノーフォーク海軍造船所でルーズベルト大統領の旗艦用設備の整備を行った。2月7日にグアンタナモ湾に到着し、3日後には駆逐艦ラング (USS Lang, DD-399) とともにペンサコーラに向かい、14日に到着した。 翌日、タスカルーサはルーズベルト大統領を乗艦させ、護衛のジョーエット (USS Jouett, DD-396) とともにラテンアメリカ沿岸視察に出港した。タスカルーサがパナマ運河を通過した際、ルーズベルト大統領は運河の太平洋側の防衛施設を視察し現地の陸海空各部隊の司令官と会合を行った他、様々な場所で釣りを楽しんだ。しかし、釣果は芳しくなかった。タスカルーサはペンサコーラでルーズベルト大統領を降ろした後、3ヵ月のオーバーホールのためブルックリン海軍工廠に向かった。オーバーホールを終えると中立パトロールに戻り、夏から秋にかけてはバミューダ諸島とカリブ海との間を哨戒した。 12月3日、ルーズベルト大統領はタスカルーサに乗艦してマイアミに到着。イギリス海軍に供与される50隻の平甲板型駆逐艦を見学した。その後、タスカルーサはキングストン、セントルシア、アンティグア島およびバハマを訪問。ルーズベルト大統領はバハマで、バハマ総督ウィンザー公および公爵夫人とともに釣りを楽しんだ。ルーズベルト大統領がラテンアメリカの島々を訪問している間、イギリスへの武器供与の方式についての問題が浮上した。当時のイギリスは夏のバトル・オブ・ブリテンを乗り切った直後であったが、依然として戦略物資を欲していた。そこで、アメリカは武器をイギリスに売却することとなり、これは中立法を侵害する可能性があった。しかし、イギリス側の資金が少なかったので、ルーズベルト大統領は「武器貸与プログラム」という形でイギリスに武器を供与する決定を下し、レンドリース法を制定した。12月16日、ルーズベルト大統領はチャールストンでタスカルーサから降り、計画を実行に移すためワシントンD.C. に急行した。タスカルーサはノーフォークに向かい、12月22日に駐仏大使として赴任するウィリアム・リーヒ大将夫妻を乗せ、駆逐艦アップシャー (USS Upshurm, DD-144) とマディソン (USS Madison, DD-425) に護衛されてポルトガルのリスボンに向かった。その際、タスカルーサの二番砲塔と三番砲塔には、誤爆防止のため星条旗が描かれた。リスボンでリーヒ夫妻を降ろしたタスカルーサは、1941年1月11日にノーフォークに帰投した。
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