14-16世紀
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「ラージュヴァルディーナ」は、モンゴル支配下において小焚の技法が定着したものである。この語はペルシア語で「ラピスラズリ」を意味し、ラピスラズリを含む非常に鮮やかな青の釉薬が用いられることから来ている。この技法はアブル・カシムの記事で紙幅を割いて記述されているが、13世紀の終わりから14世紀(1374-1375のものが最後)までの間にのみ、主にカーシャーン(唯一の確かな中心地)において用いられたものである。用いられる色数はハフト・ランギよりも少ない。青、白、赤および金のみであるが、釉上にも彩色され、2度目の焼成で低温で焼かれた。金色も低温で彩色されることがあった。具象的な人物像などの装飾は見られなくなった。 ラスター彩の革新はモンゴル支配下においても見られた。コバルトブルーおよび/もしくはターコイズによるハイライトが用いられるようになり、また型取りしラスター彩を施したタイルも出現した。ラスター彩は建築装飾に非常に頻繁に用いられ、器の方では「スルターナバード彩」と呼ばれる、釉の上下にスリップを施した装飾が用いられた。 14世紀には西方で「クエルダ・セカ」(cuerda seca)の技法も開花した。これはスペイン語で「乾いた紐」を意味し、黒い素材(マンガンを含む油もしくは蝋)によるある種の仕切りを、紐を補助的に用いて置くことによって陶工たちが複数の色を分離したことからこう呼ばれる。焼成の際にはこの素材は燃えてしまい、黒い痕跡が残るのみとなる。イスタンブールの「シミリ・キオスク」[訳語疑問点]で用いられたこの技法は、サファヴィー朝の建築装飾においてもよく見出される。 陶芸によるモザイク装飾は、ルーム・セルジューク朝の作例があるので14世紀よりやや前に発明されたものと思われる。しかしながら、モザイク装飾が繁栄を見るのは15世紀、ティムール朝においてであった。陶工たちは異った色の施釉タイルを必要な形に切り取り、それらを漆喰の中で組み合わせてモザイクを作り出した。ティムール朝では、柱やミフラーブなどに彫刻を施した焼き物が用いられることも時折あった。
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14 - 16世紀
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「リンカン (イングランド)」の記事における「14 - 16世紀」の解説
リンカンは、13世紀にはイングランドで3番目に大きな町になっていた。しかし、14世紀に入ると町の低地の部分が頻繁に洪水に見舞われるようになり、疫病も流行するなど不運に見舞われるようになる。そして16世紀には、宗教改革に伴う修道院廃止の動きが衰退に拍車を掛けた。司教の収入源であり権力の基盤であった修道院が多数閉鎖され、司教は急速に力を失っていったのである。その後、清教徒革命の際、国王派と議会派との抗争に巻き込まれたことも大きな打撃となった。
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