1223年
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1223年(1223 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
- 1 1223年とは
- 2 1223年の概要
- 3 誕生
1223年
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「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」の記事における「1223年」の解説
詳細は「チンギス・カンの西征」を参照 ヴォルガ・ブルガールがモンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。スブタイおよびジェベの率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムを出てカフカスを迂回し、キプチャク草原に入って5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネツィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させた。この時点で、チンギス・ハンの軍は負け知らずであった。彼らは分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。しかしその年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州の、ヴォルガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させた(サマラ屈曲部の戦い(英語版)あるいはケルネクの戦い)。ブルガールの王(iltäbär)、ガブドゥッラー・チェルビル(ポーランド語版)(Ghabdulla Chelbir)率いる軍は、モルドヴィン人の公(inäzors)であるプレシュ(英語版)(Puresh)およびプルガス(英語版)(Purgaz)の軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せしてさんざんに打ち破ったという。この戦いについてはブルガールの口承による部分が多く、戦いの実際や被害については不明な点も多い。この戦いの後、モンゴル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。
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「1223年」の例文・使い方・用例・文例
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