関 孝和 (せき たかかず)
1640?〜1708 (??年〜宝永5年) |
【和算家】 独学で和算を大成。筆算で精緻な円周率を算出した、日本の天才数学者。 |
和算家。甲府藩主徳川綱重・綱豊(のち家宣)に仕え、綱豊が5代将軍綱吉の養子になると同時に、直参の旗本となった。独学で数学を学び、筆算式の代数学の確立や方程式・行列式の創始など、日本における数学研究を高めた。和算は関孝和から始まるとされる。著書に「発微算法」など。 |
年(和暦) | ||
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | |
●1698年 (元禄11年) | ■江戸大火(勅額火事) | |
●1702年 (元禄15年) | ■赤穂浪士討ち入り | |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 | |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 | |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 |
関孝和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/27 03:09 UTC 版)
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛永14年(1637年)または寛永19年(1642年) |
死没 | 宝永5年10月24日(1708年12月5日) |
別名 | 新助 |
墓所 | 浄輪寺 |
官位 | 贈従四位 |
幕府 | 江戸幕府 西の丸御納戸組頭、小普請 |
主君 | 徳川綱重、家宣 |
藩 | 甲府藩 勘定方吟味役 |
氏族 | 内山氏、関氏 |
父母 | 父:内山七兵衛永明 母:湯浅与右衛門の娘 養父:関五郎左衛門 |
兄弟 | 永貞、孝和、永行、永章、女子、女子 |
子 | 平蔵、新七郎久之 |
円周率 |
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使用 |
特性 |
数値 |
人物(日本人) |
人物 |
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歴史 |
文化 |
関連項目 |
関 孝和(せき たかかず)は、日本の江戸時代前期の和算家(数学者)、武士、甲府藩士のち旗本。本姓は藤原氏(結城一族)。内山氏の生まれで、関氏の養子となった。通称は新助[1]。字は子豹、号は自由亭。算聖と称される[2]。
生涯
関孝和の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子の関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである[3]。
徳川忠長に仕えた武士・内山七兵衛永明の次男として生まれ[1][4]、母は安藤対馬守の家来・湯浅与右衛門の娘[5]。永明の父は安間三右衛門国重といい、永明は母方の祖父・内山左京吉明の養子となった[5]。吉明は元々芦田信蕃の家臣で、芦田康貞が上野国藤岡(現・群馬県藤岡市)に封じられるとそれに随い藤岡に住み、康貞の改易後も藤岡に留まった。慶長5年(1600年)の第二次上田合戦以降徳川家康の家臣となり、寛永6年(1629年)以降は徳川忠長に附属させられたが忠長の改易により吉明・永明は牢人となり藤岡に閑居した。永明は寛永16年(1639年)御天守番となり徳川の家臣に復帰した[6][3][7]。
孝和の生年は寛永14年(1637年)[注 1]と同19年(1642年)[注 2]の2説があり、生誕地についても上野国藤岡と江戸[注 3]という説がある[8][9]。実父が寛永16年(1639年)に藤岡から江戸に移っているので、それ以前の生まれならば生地は藤岡、それ以後ならば江戸と推測される[8][10]。
5歳のころ[要出典]、甲斐国甲府藩(現・山梨県甲府市)の勘定を勤める関五郎左衛門の養子となり[11]、甲府藩主徳川綱重とその子綱豊(徳川家宣)に仕えて勘定方吟味役(勘定方用改)を勤めた[3]。宝永元年(1704年)に家宣が将軍世嗣となり江戸城西の丸に入ると、孝和も直参・旗本となり、西の丸納戸組頭を拝命して300俵を与えられた[3][12][1]。
没後30年ほどして書かれた『武林隠見録』によると、師につかずに吉田光由の『塵劫記』によって独学したとされる[3][13]。
孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図[注 4])の作成に関わり、また平安時代以来改暦が行われていなかった宣明暦に変えて授時暦を深く研究して改暦の機会をうかがっていたが、その後渋川春海により貞享暦が作られたため、暦学において功績を挙げることはかなわなかった[14]。
宝永3年(1706年)11月4日に職を辞し小普請となった[12][1]。
宝永5年10月24日(1708年12月5日)、死去[12][15]。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている[16][15]。
死後
弟子に建部賢弘や荒木村英がいる。
関の死後もその学統(関流)はめざましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。
関孝和は関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。
上毛かるたでも「和算の大家 関孝和」と詠われている。このかるたの読み札では「孝和」を「こうわ」と読んでいる[17]。最近では「孝和」を「たかかず」と読むことが大半だが、戦前は「こうわ」と音読みしていた[18]。『首書改算記綱目』(1687年)の序文で「孝和」に「タカカズ」と振り仮名を振っていることから「たかかず」読みが正しいと考えられているが、後世、敬意を表して音読みしたものとみられている。
- 関孝和の銅像と顕彰碑(群馬県藤岡市)
- 関孝和の銅像
- 関孝和の墓(藤岡市光徳寺)
業績
関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)に『発微算法』を著し、点竄術(てんざんじゅつ)による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。 世界で最も早い時期に終結式を用いた変数消去の一般論を見出した。この終結式の表現において行列式に相当する式が現れている。
また暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、1681年頃に正131072角形を使って小数第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」[注 5][注 6][20]だったが、エイトケンのΔ2乗加速法[21]を用いた途中計算では小数点以下第16位まで正確に求めている[22]。これは世界的に見ても、数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンのΔ2乗加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである[22][23])。ヤコブ・ベルヌーイとは独立かつやや早くにベルヌーイ数を発見していたことも知られている[注 7]。
一方で、西洋の微分積分学の発展より前に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長・求積に関する業績を挙げており、今日の微分法と積分法の基礎を発見していた。関がアイザック・ニュートンやゴットフリート・ライプニッツよりも前に微分積分学を創始したとするには異論があるが、基礎の発見を先に成しえていたのは事実である。
無理数などの不尽数を連分数や分数で近似する零約術について論じた[24]。
点竄術
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関の最大の業績は、天元術を革新して傍書法・点竄術を確立したことである。これは記号法の改良と理論の前進の双方を含み、後に和算で高度な数学が展開するための基礎を提供した。
天元術は中国で発達した代数的解法である。求める数を未知数(天元の一と呼ぶ)とし、演算を施して方程式を立てる。問題を1元方程式に帰着できれば、次数に拘わらず算木によるホーナー法で近似的に解けた。しかし明代に入ると中国では天元術は衰え、もっぱら李氏朝鮮で継承されてゆく。朝鮮での発展や日本への流入の過程は今日でも不明な点が多い。日本では17世紀に入ってから、主に京阪の和算家の橋本正数・沢口一之らによって熱心に研究された。沢口の『古今算法記』(寛文10年、1670年)は、天元術の学習がほぼ完了したことを示している。
天元術には多変数の高次方程式を扱えない欠点があった。これは未知数を記号ではなく算木を置く場所で表現しているからで、例えば (1 3 4) の配置は1変数の多項式
- 王青翔『「算木」を超えた男 もう一つの近代数学の誕生と関孝和』東洋書店、1999年
- 藤原正彦『天才の栄光と挫折 数学者列伝』新潮選書、2002年、文春文庫、2008年
- 佐藤賢一『コレクション数学史 5 近世日本数学史 関孝和の実像を求めて』東京大学出版会、2005年
- 平山諦『関孝和 その業績と伝記』恒星社厚生閣、1981年
- 平山諦『和算の歴史 その本質と発展』至文堂 日本歴史新書、1954。ちくま学芸文庫、2007年
- 平山諦『和算の誕生』恒星社更生閣、1993年
- 村田全『日本の数学 西洋の数学』中公新書、1981。ちくま学芸文庫、2008年
- 竹之内, 脩「関孝和、人と業績」『総合講演・企画特別講演アブストラクト』第2008巻Autumn-Meeting1、日本数学会、2008年、47-56頁、doi:10.11429/emath1996.2008.Autumn-Meeting1_47、ISSN 1884-3972。
- 『三上義夫著作集 第2巻 関孝和研究』日本評論社、2017。佐々木力総編集、柏崎昭文編集補佐
関連項目
外部リンク
- 電子復刻『発微算法』(関孝和)
- O'Connor, John J; Edmund F. Robertson "Takakazu Seki Kowa[リンク切れ]". MacTutor History of Mathematics archive.
- 四日市大学関孝和数学研究所
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