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梅戸高実とは? わかりやすく解説

梅戸高実(うめど たかざね) 1502~1561?

六角氏 孫九郎 左衛門尉 左近大夫 治部少輔? 方実?
◇父:六角高頼 子:梅戸刑部少輔高宗、実秀、高資? 養子梅戸(土岐)民部少輔光高
 梅戸氏は、伊勢平氏冨田家後裔であり、近江伊勢を結ぶ要衝梅戸城主近江六角氏から入嗣し、北伊勢48家の1つとして、千種氏、春日部氏と共に伊勢北畠氏侵攻抗した

梅戸高実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 20:20 UTC 版)

 
梅戸高実
時代 戦国時代
生誕 文亀2年(1502年
死没 永禄4年(1561年
改名 六角左近大夫高秀→梅戸治部少輔高実
別名 治部少輔
氏族 六角氏梅戸氏
父母 六角高頼
兄弟 六角氏綱六角定頼、大原高保、
和田高盛、高実、真玄、武衛娘?、
今出川季孝室、京極材宗
高宗、実秀、高資
養子:光高(土岐政房の子)
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梅戸 高実(うめど[注釈 1] たかざね)は、戦国時代武将

略歴

梅戸氏は田光氏の後裔。伊勢国国人北勢四十八家の内の一家。伊勢における八風街道を抑えており、六角氏も一門を養子に送り込むなど、戦略上重要視していたと思われる。

六角高頼の子で梅戸氏に養子に入った。後に梅戸城[注釈 2]を築城する。『浅井日記』によると、永禄4年(1561年)3月29日には、六角氏当主・六角義治と父・承禎の対立を解消するために近江国へと向かったものの、翌4月10日に近江国高宮で急死した。高実は承禎と仲が良かったため、後藤氏浅井氏と対立していたという。

高実の死後は次男・実秀が家督を継いだが、永禄11年(1568年)に織田信長に攻められて滅亡している。

高実の墓と伝わる宝篋印塔(いなべ市光蓮寺)

いなべ市大安町門前の光蓮寺に高実の墓とされる宝篋印塔が残されている。

脚注

注釈

  1. ^ 『三重県の歴史』, p. 141では、うめづとしている。
  2. ^ 現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている。

参考文献




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