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楠木正時とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 政治 > 軍事 > 武将 > 楠木正時の意味・解説 

くすのき‐まさとき【楠木正時】

読み方:くすのきまさとき

[?〜1348]南北朝時代武将。正成の次男元弘の変以来各地転戦。兄正行(まさつら)とともに四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうのもろなお)・師泰の軍と戦い敗れて自害

楠木正時の画像
紋所の「菊水

楠木正時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 15:55 UTC 版)

 
楠木 正時
時代 南北朝時代
生誕 (伝・嘉暦2年(1327年
死没 正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日
別名 通称:次郎(『薩摩旧記』[1])、二郎(『尊卑分脈』[2]
官位 贈正四位[3]
主君 後醍醐天皇後村上天皇
氏族 楠木氏
父母 父:楠木正成、母:不明[注釈 1]
兄弟 正行、正時、正儀
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楠木 正時(くすのき まさとき)は、南北朝時代武将楠木正成の次男で、正行の弟、正儀の兄。正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、四條畷の戦い南朝軍の副将として戦い、総大将の兄と共に討死した。

生涯

正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、南朝の楠木正行と北朝の高師直の間で、四條畷の戦いが発生[1]。正行と共に弟も戦死した(『園太暦』『阿蘇文書』)[1]。諱は不明だが、その通称は「次郎」である(『薩摩旧記』)[1]

一次史料から確実にわかるのは以上が全てであり、や享年すら不明である[5]。時代が近い二次史料としては、諱は洞院公定尊卑分脈』から「正時」と確認することができる[2]。通称の漢字はこちらでは「二郎」となっている[2]

なお、『観心寺文書』中に、正平4年8月29日付左衛門尉(花押)橋本九郎左衛門入道宛の書状および正平5年4月13日付左衛門尉(花押)観心寺寺僧宛の執達状があり、観心寺の寺伝はこれを正時のものと伝えているが、時期から言って実際は弟の楠木正儀のものである[5]

明治22年(1889年)、四條畷神社が建立され、その祭神の一柱となった[6]。大正3年11月19日贈正四位[3][6]。  

登場作品

桜嵐記(宝塚歌劇月組公演)(2021年、演:鳳月杏

脚注

注釈

  1. ^ 織田完之『楠公夫人伝』による推説では、久子(南江正忠の娘)としているが、他に典拠がない[4]

出典

  1. ^ a b c d 東京帝国文科大学史料編纂掛 1902.
  2. ^ a b c 藤原 1903.
  3. ^ a b 『官報』第692号「叙任及辞令」1914年11月20日
  4. ^ 西尾 1994.
  5. ^ a b 藤田 1938, p. 343.
  6. ^ a b takada: “四條畷神社由緒記”. Monumento (2010年7月24日). 2019年5月9日閲覧。

参考文献

関連項目




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