戦訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:25 UTC 版)
「ラエ・サラモアへの空襲」の記事における「戦訓」の解説
ラエとサラモアを確保してラバウルの外郭の一角を押さえるという目的は一応達成したものの、空襲による痛手は大きく、4月中に予定されていたツラギ島およびポートモレスビーの攻略は、部隊再編のため1か月の延期を余儀なくされた。一作戦で生じた被害としては開戦以来最大とも評されるが、南方作戦や蘭印作戦の華々しい戦果の陰に完全に隠れてしまった。大被害の原因について梶岡は、「津軽」が属していた第十九戦隊司令官の志摩清英少将に対して「本作戦に際しては敵機動部隊の出現を極度に警戒していたが、ついに戦闘機進出遅延のため、この惨害を受けた」と述べた。また、津軽艦長の稲垣は「オーストラリア北東方面に機動部隊(少なくとも龍驤程度の母艦航空部隊)を張り付けて強力な攻撃を継続すべき」という趣旨の意見具申を行い、同艦に将旗を掲げていた志摩提督も日記に、オーストラリア北東方面に機動部隊を進出させて圧力をかける必要性を記している。志摩はまた、3月22日のラエへの空襲に関して「この状況を継続しあらば、結局航空消耗戦を継続するに過ぎず」とも日記に記したが、その後のポートモレスビーをめぐる戦況は、志摩の予言が当たることとなった。 ウェーク島の戦いに続いて苦杯を舐めることとなった第六水雷戦隊は、戦訓として志摩や稲垣と同じく支援部隊に機動部隊を起用することを挙げたほか、彼我の状況に応じて要領を修正することの必要性、日本海軍に伝わる旧習は尊重すべきだが、尊い犠牲を購って手に入れた戦訓を積極的に取り入れること、そして対空兵装の強化などを戦訓として取り上げた。 南東方面における米軍機動部隊の出現は、ポートモレスビーの海路攻略案において重大なる不安要素となった。日本陸軍の南海支隊は航空母艦や防空専任輸送船の増援、空挺部隊による敵飛行場破壊作戦実施を訴えるとともに(3月20日、大本営へ電報)、ポートモレスビー陸路攻略案・舟艇機動案・船団上陸作戦(従来案)の検討に入る。日本海軍も南洋部隊(第四艦隊)に軽空母祥鳳を配備したが戦力不足は明白であり、種々折衝と計画変更の末に、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の派遣に至った(4月10日電令作第109号、珊瑚海海戦)。 ラエおよびサラモアへの奇襲を成功させたブラウンにはニミッツから賞詞が送られ、これまでの戦功で海軍殊勲章(英語版)を受章した。なおレキシントンは対空兵装を強化するため、哨戒行動を続けるヨークタウンに艦上機を譲って真珠湾に帰投する。レキシントンが改造工事中の4月10日にブラウン中将は第11任務部隊を去り、以降は陸上勤務となった。健康を損ね、手助けがなければ階段を上り下りできない状態であったという。後任の第11任務部隊指揮官は、元レキシントン艦長のオーブリー・フィッチ少将となった。
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