幡文通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/04 13:48 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位下 |
主君 | 文武天皇 |
氏族 | 幡文造 |
幡文 通(はたのあや の とおる)は、飛鳥時代の貴族。姓は造。位階は従五位下。
出自
幡文氏は、幡に文様を描く職掌に勤めた氏族で、『新撰姓氏録』「左京諸蕃」によると、大崗忌寸と同祖とされる。大崗忌寸の元の旧氏姓は倭画師で、幡文氏も同じく画工を職能とする氏族であったとみられる。『姓氏録』には、続けて魏の文帝の後裔の安貴公の後とする。元々は無姓。天平17年(745年)9月23日の優婆塞貢進文に右京八条三坊戸主、少初位上の幡文広足の名があり、その戸口の幡文広隅が優婆塞として貢進されていることが見える。
経歴
『続日本紀』巻第三の慶雲元年(704年)8月の記事に、「遣新羅使従五位上波多朝臣広足ら、新羅より至る」とあり[1]、同年10月、遣唐使の粟田朝臣真人らが、帰国後初めて天皇に拝朝したのと同日に、
正六位上幡文通(はたのあや の とおる)を遣新羅大使(けんしらきたいし)とす。
翌年5月、新羅より帰国[4]。後任の遣新羅使、美努連浄麻呂が任命されたのは、その翌年の8月であった[5]。慶雲4年(707年)2月、功績により従五位下を授けられた[6]。
参考文献
- 『日本書紀』(四)・(五)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
脚注
関連項目
- 幡文通のページへのリンク