地方制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
「元朝の行政区分」も参照 元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。 腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で使われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。 行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。 また、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じく季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、個々の所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する封土であり、自治に委ねられていた。しかも個々の位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状に散った領民・領地を持っていた。定住地帯では、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任じて、皇帝の直接の支配権が及ばない位下領・投下領が、封土を含んで地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。 元に服属した天山ウイグル王国は、内政に関しては高昌王を授けられ従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿、つまりは外戚である)としてモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。また、元に服属した高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。忠宣王以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった。 このように元の地方制度は、中国王朝に伝統的な中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配下にありながら異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。
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