国学運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 14:36 UTC 版)
勢道政治期の不遇だった改革思想家たちの中には、18世紀の歴史意識を継承しながら、これを一層学問的に深化させた史家たちが少なくなかった。丁若鏞・韓致奫・洪奭周・洪敬謨・尹廷琦がそういう人々である。 丁若鏞は『我邦疆域考』(1811年 - 1833年)を書き、朝鮮古代史の疆域を新しく考証した。特に百済の初の都邑地が今の漢陽だということと、渤海の中心地が白頭山東方だということを解明したことは、卓越な見解として、彼の地理考証は大部分が今でも通説として受け入れられている。 漢陽南人学者である韓致奫は、一生涯歴史編纂に没頭し、甥の韓鎮書と合作で、85巻の膨大な『海東繹史』(1814年 - 1823年)を編纂した。540余種の中国及び日本の書籍を参考にして書いたこの本は、東夷文化に根を置いた朝鮮文化の独自性とともに、朝鮮と中国及び日本との文化交流が詳細に整理されていて、資料としての価値がとても高い。特に韓鎭書が書いた『地理考』は、丁若鏞の『我邦疆域考』とともに、歴史地理考証の高い水準を見せてくれる。洪奭周は三国と渤海の疆域に特別な関心を持って『東史世家』を書き、また朝鮮人が中国人よりもっと正確な中国史を書くことができるという自信感で、『明史管見』をはじめとした多くの種類の歴史書を書いた。中国人が書いた中国史に誤りが多く、これを正そうとする努力は、正祖の時に『宋史』の過ちを正した『宋史筌』の編纂でも現れたが、これは李氏朝鮮後期の学者たちの文化的自信感から出たものである。 洪奭周の親族である洪敬謨は、丁若鏞と韓致奫など先輩学者たちの文献考証方法を継承し、朝鮮の上古史の多くの疑問点を一つ一つ考証し、『東史弁疑』(1868年)を書き、考証的歴史叙述の伝統が続いた。 19世紀の科学的で考証的な学風は地理誌編纂と地図にも現れ、前の時期より一層精密で規模が大きい地図、地理誌が製作された。 この時期の最も優れた地理、地図研究者は金正浩である。彼は黄海道出身で、漢陽に住みながら申櫶・崔漢綺などの助けを得て、多くの官撰地図を調べ、これを集大成して『青邱図』という地図帳を発刊し、これをさらに発展させて、23幅で成り立つ約7メートル長さの全国地図である『東輿図』と『大東輿地図』を製作した。前者は筆写本彩色地図で、後者は木版で刷り上げて大衆に広く普及した。 この記述には、ダウムからGFDLまたはCC BY-SA 3.0で公開される百科事典『グローバル世界大百科事典』をもとに作成した内容が含まれています。 表 話 編 歴 李氏朝鮮 科挙制度 学問 家族制度 行政区画 経済 身分制度 軍事
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