劉琮
劉表の後妻蔡氏が生んだ子で、蔡氏が日ごとに劉琦の悪口を言ったため父の寵愛を集めた。劉琮は蔡氏の姪を娶ったが、蔡氏の弟蔡瑁、同じく外甥の張允とも親密になっていった。建安十三年(二〇八)七月に曹操が荊州に侵入してきたが、劉表は翌八月に病没した。兄劉琦が外に出されていたため、劉琮は父の跡を継ぐことができた。劉琦に侯の印を授けたが、劉琦はこれを地に投げ捨てている《後漢書劉表伝》。 蒯越・韓嵩・傅巽らは曹操に帰順すべしと進言した。劉琮「いま諸君らとともに荊州を守り、先君の事業を引き継ぎたいと思う」、傅巽「順逆には道理があり、強弱には状勢があります。臣下が君主に刃向かうのは道理に逆らうことで、新興国が天子に抵抗することも状勢に逆らうことで、また劉備も曹操に対抗することはできません。将軍はご自身を劉備と比べてどう思われますか」、劉琮「わしのほうが及ばない」、傅巽「劉備が曹操に対抗できないなら荊州を自力で守ることは不可能です。もし劉備が曹操に対抗できたなら将軍の下風には就かないでしょう」。そこで劉琮は曹操に降伏した《劉表伝》。 劉備は樊城に駐屯していたが、曹操の侵入を知って使者を派遣してきたので、宋忠を使者に立てて降伏したことを説明した。劉備は宋忠の首筋に刀を突きつけて怒り、軍勢を率いて襄陽に撤退した。このとき諸葛亮が劉琮を攻撃して荊州を支配すべきだと進言したが、劉備は退けている。劉備は城下から劉琮を呼んだが、劉琮は恐怖を抱いて立つことができなかった《先主伝》。 曹操は劉琮を青州刺史に任じて列侯とし、のちに諫議大夫・参同軍事に異動させた《劉表伝》。 【参照】蒯越 / 韓嵩 / 蔡氏 / 蔡瑁 / 諸葛亮 / 宋忠 / 曹操 / 張允 / 傅巽 / 劉備 / 劉琦 / 劉表 / 荊州 / 襄陽郡 / 青州 / 樊城 / 諫議大夫 / 侯(列侯) / 参同軍事 / 刺史 / 牧 / 印 |
劉琮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/16 21:18 UTC 版)
劉琮 | |
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後漢 青州刺史・諫議大夫・参同軍事 | |
出生 |
生年不詳 兗州山陽郡高平県 |
拼音 | Liú Cóng |
主君 | 劉表→曹操 |
劉 琮(りゅう そう、生没年不詳)は、後漢末の人。劉表の庶子。生母は不詳。妻は蔡瑁・蔡夫人(蔡瑁の姉)の姪[1]。兄は劉琦。
略歴
『三国志』劉表伝によると、劉表と後妻の蔡夫人に寵愛され、蔡瑁・張允の一派が兄の劉琦を排除して彼を後継者に擁立しようとしたため、劉琦との仲が悪化した[2]。
建安13年(208年)の劉表の死後、蔡瑁らの政治工作もあって、兄の劉琦を差し置いて後継者となった[3]。進攻する曹操の軍勢に対抗して荊州を保全する策を配下に尋ねたが、蔡瑁・蒯越・傅巽・韓嵩・王粲らの進言に従い曹操に降伏した。
降伏の後は、蔡瑁・蒯越らと共に厚遇され、曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられた。後に諫議大夫・参同軍事となった[4]。
演義での劉琮
『三国志演義』では、劉琮は蔡夫人の子で、劉琦の異母弟[5]で、劉表が死亡した時には14歳の若年ながら聡明だったという設定になっている。父の劉表の死の隙を突いて曹操が南下を開始すると、傅巽が降伏を主張し、劉琮は最初これに抵抗するが、蒯越・王粲らの説得に従い降伏を決意する。降伏後の劉琮と蔡夫人は、曹操によって青州に刺史として向かう途上で于禁に殺害されている。
脚注
劉琮(りゅう そう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
劉表の嫡子で劉琦の弟。劉表の死後、群臣らの意見により曹操に降伏する。
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