ちょう‐らく〔テウ‐〕【×凋落】
凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/08 11:42 UTC 版)
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凋落(1981–1989)
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「ドイツ民主共和国」の記事における「凋落(1981–1989)」の解説
詳細は「ベルリンの壁崩壊」および「東ドイツの転換と平和革命(ドイツ語)」を参照 1979年の第二次オイルショックで、東ドイツの不景気はさらに加速するようになった。経済的困難から抜け出せなかったソ連指導部は、東ドイツへの優遇条件での石油供給量を年間1900万トンから1700万トンに減らした。それに対してホーネッカーは何度も抗議し、ブレジネフに「200万トンの石油に、東ドイツを不安定にし、党と国家に対する国民の信頼を壊すほどの価値があるのか」と問いただした。その間、東ドイツはソ連の石油をオーデル(ドイツ語版)、ベーレン(ドイツ語版)、リュッツケンドルフ(ドイツ語版)、ロイナ(ドイツ語版)(Leunawerke) の石油精製所で加工しており、それらを西ヨーロッパの市場で販売して外貨を獲得していた。ホーネッカーの抗議に効果はなく、むしろソ連と共に苦労を分かち合おうという激励に応えるものであった。そうしなければ「完璧な社会主義共同体制」の世界的立場が危ういものになってしまうからである。そのため、東ドイツの財政は「不安と絶望の袋小路」になった。かつて東欧の優等生と言われた東ドイツは、少しずつでも着実に改革を進めるポーランドやハンガリーの後塵を拝するようになった。 1982年に東ドイツは財政破綻の危機を迎えた。それを防いだのは、1983年と1984年の2回にわたる西ドイツからの何十億マルクもの出資であったが、それにはアレクサンダー・シャルク=ゴロットコフスキーの尽力も大きかった。彼は外貨獲得を担当していた貿易調整部(ドイツ語版)の所長であり、それと同時にシュタージの特務将校(ドイツ語版)も兼任していた。彼は、特に東ドイツの国境の規制緩和を約束することで、バイエルン州首相のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスを調停者として味方につけることに成功した。それ以前にも、第三次シュミット内閣 (1980-1982) が、チューリッヒの「偽装銀行」(Strohbank) を通じて30億から50億ドイツマルクを貸し出すかどうかを検討していた。しかし、高額な消費財を国民に提供することは、満足にはできなかった。西側と同水準のカラーテレビや冷凍庫付き冷蔵庫、全自動洗濯機は、高かっただけでなく、長い待ち時間をも必要とした。「全自動洗濯機の納品期間は3年近くかかり、トラバントは最低でも十年近く待たなければならなかったが、トップクラスと誇れるほどの質はないままだった」。 東西ドイツ間で結ばれた特別協定は、東ドイツ指導部に対するソ連の不信を解消させることにもなった。それゆえ、1987年にホーネッカーの西ドイツ訪問が初めて実現し、東ドイツの国際的承認の晴れ舞台となった。 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任してペレストロイカとグラスノスチで改革方針を打ち出し、ソビエト連邦内東側諸国で良好な関係にある党と国家に、国内統治に対する自由裁量を認めていた。他の東欧諸国では自由化の動きが始まったが、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、ポーランドやハンガリーのような政治の民主化や経済の自由化は東ドイツと西ドイツとの差異を無くし、ひいては東ドイツという国家の存在意義の消滅を意味することを東ドイツの指導部は知っていたため、ゴルバチョフのモデルに従うことを彼らは強く拒絶した。東ドイツの反対派はゴルバチョフの改革路線の受け入れを求めたが、ホーネッカー指導部は一部の反対派を逮捕拘留して弾圧するだけであった。1987年4月にハンブルクの雑誌『シュテルン』に掲載された対談で、ペレストロイカへの見解を求められた社会主義統一党政治局員で文化科学担当書記(イデオロギー担当)クルト・ハーガー(ドイツ語版)は「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と答えた。 1988年9月、モスクワでのゴルバチョフとホーネッカーの会談ではお互いに辛辣に皮肉るほどになり、一致点が見出せないほどであった。そして11月18日、東ドイツはグラスノスチ(情報公開)を伝えるソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消したが、これは事実上の発禁処分であることを意味した。その理由を東ドイツ当局は独ソ友好関係の強化に貢献するどころか、歴史を歪曲するものと説明していた。この発禁された雑誌「スプートニク」10月号は、1939年8月の独ソ不可侵条約の締結時に交わした秘密付属議定書(ロシア語版)の内容に触れており、当時のナチス・ドイツとソ連との間で「利益領域の分割」を規定したことに言及したものであった。この秘密付属議定書は当時グラスノスチ(情報公開)の動きの中で8月にモスクワで公表されたものであった。これには、東ドイツ国内の知識人の不満を一気に高めることとなり、政権内でさえこの措置に賛成する者は少数で、「ヒトラー・ファシズムに対する反ファシストの英雄的闘争を中傷するもの」という説明に、長年の社会主義統一党員からも党幹部に憤慨を募らせていた。 1989年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョージ・ブッシュは、5月2日に世界秩序へのソ連の復帰を歓迎するとして、ソ連のペレストロイカ政策と軍縮と地域紛争からの撤退をめざす新思考外交を評価し、それまでの対ソ封じ込め政策の転換を発表した。7月にはワルシャワ条約機構がソ連の東欧への軍事介入を正当化してきたブレジネフ・ドクトリンを放棄するコミュニケを採択した。 そしてこの頃、ソ連外務省は東ドイツの行く末に悲観論が強まっていた。1988年にソ連外務省は文書をまとめていた。それは「ドイツ統一」の3つのシナリオで、この後の東ドイツについて、3つの可能性について討議したものであった。第一は『共存』で、東西ドイツがこれまで通りの関係で進むことだがソ連は東ドイツが経済復興しない限り不可能と断定した。第二は『吸収』で、西ドイツが東ドイツを吸収して北大西洋条約機構 (NATO) に入ることになりソ連には不利で絶対に避けたい。第三は『中立』で、西ドイツがNATOを脱退し、東ドイツがワルシャワ条約機構を脱退して中立の統一ドイツとなることでソ連にとって最善の策であるとした。翌1989年秋にゴルバチョフが東ドイツを訪問する直前に、会議の席で「諸君、我々は社会主義の友人を1つ失うことが明らかとなった。」と述べてホーネッカーを、そして東ドイツを見限ることを明らかにした。この時、ゴルバチョフの補佐官として会議に同席していたゲオルギー・シャフナザーロフは後に「このゴルバチョフの発言には誰もが賛成であった。」と語っている。 このことは東ドイツ国民には理解されず、ますます反感を買うようになった。抗議は、主に1980年以降に成立した平和運動の中に見られる。これらの平和運動は、地域で集まった小さなグループから成り、環境の大切さと第三世界の重要性を訴えた。そのグループのいくつかには、教会の支援と説得もあった。1989年5月に行われた地方自治体選挙(ドイツ語版)の結果が改ざんされたことが明らかになると、それに対する抗議が行われ、それがSEDへの不満をいっそう明確に可視化させ、多様な公民権運動へとつながった。 SEDにとってより重大だったのは、民主化を進めていたハンガリー政府が、1989年5月2日にオーストリア国境の鉄条網の撤去に着手したことにより、「鉄のカーテン」が綻んだことであった。これを見た多くの東ドイツ市民がチェコスロバキア経由でハンガリーへ出国し、大量国外脱出が始まった。ハンガリー政府は1989年8月19日には非公式ながら東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許可し(汎ヨーロッパ・ピクニック)、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可した。 これを受けて10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖して市民の流出を止めようとしたが、国外へ逃げることができなくなった市民たちはその不満を体制批判へと転化するようになっていった。定期的に開催された月曜デモで、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。東ベルリンで10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモがライプツィヒで起こると、東ドイツの平和革命が爆発した。ホーネッカーはデモを武力で鎮圧しようとしたが、結局失敗した。また、建国40周年記念祝典出席のために東ドイツを訪れたゴルバチョフは改革を行わないホーネッカーに対して明らかに不満気な態度を取り、SEDの党内からも批判やホーネッカー下しの動きが強まり始めた。こうして、10月17日の政治局会議でホーネッカーの解任動議が可決され、10月18日にホーネッカーは退任した。 後任のエゴン・クレンツ書記長とSEDの新指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。1989年11月9日の夜、SED政治局員ギュンター・シャボフスキーが西側への出国許可が「遅滞なく」下りると誤って発表すると、ベルリンの壁に市民が殺到し、壁は崩壊した(ベルリンの壁崩壊)。
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凋落
「凋落」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(劣化) | 凋衰 凋弊 凋落 退縮 退行 |
名詞およびサ変動詞(衰退) | 必滅 憔悴 凋弊 老悴 凋落 |
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