事件以降
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レームに代わる新突撃隊幕僚長には、ヒトラーに信頼されていたヴィクトール・ルッツェが選ばれた。1943年に彼が事故死すると、後任にはヴィルヘルム・シェップマンが任じられ、敗戦までその任にあたった。 長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。ヒトラーの指示によりルッツェはベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ親衛隊中将にドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門はすべて解体され、またその財産を没収させられた。親衛隊は正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された。自動車突撃隊(Motor-SA)も国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された。隊員数もこの後減少の一途をたどることになり、長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は1938年に120万人になっていた。 事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし、1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった。毎年冬に行われるナチ党の慈善事業、冬季貧民救済事業も突撃隊が行っていた。 1938年11月の水晶の夜事件の際、ルッツェはヨーゼフ・ゲッベルスの指示を無視して、突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した。 1939年1月には、国防軍へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ、軍事訓練を担当する武装組織として「突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)」が創設された。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員され、その他には警察・税関・親衛隊・国境警備など諸機関の補助員にも充てられた。ただ突撃隊員は兵役の義務を負い続けたため、隊員が国防軍に応召することで、突撃隊自体のマンパワーは減少の一途をたどった。また突撃隊防衛団の一部の部隊は、軍からの脱走者等を収容する強制収容所の管理や、占領地のパルチザン掃討作戦に動員された。大戦末期には、国民突撃隊に編入されている。 事件後、ルッツェはじめ突撃隊幹部は親衛隊への復讐の機会を狙っていた。ブロンベルク罷免事件で親衛隊に嵌められて失脚したヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥とヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将、またフリッチュの後任として陸軍総司令官になったヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと接触し、彼らを親衛隊攻撃計画に誘ったりしている。ゲッベルスも日記で「ルッツェはブラウヒッチュを先鋭的な反SS運動に巻き込もうとしている。彼はいたるところでSSを非難し、不平不満を漏らし、SAが差別されていると信じている。彼は誤った道に踏み込んだ」とこの事について触れている。戦時中にもポーランド総督ハンス・フランク、東方担当大臣アルフレート・ローゼンベルク、ウクライナ総督エーリヒ・コッホなど、親衛隊から警察権力を取り戻したいと考えていた者は、大抵突撃隊を取り込んで、彼らを親衛隊にぶつけようとした。
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