4月19日(水)
休みをとって、母親と春日部の市役所へ行く。母親のマイナンバーカードをもらい、この後年金の手続きで必要な父親の除票なども手に入れる。そこには「死亡」の文字が記されていた。
夜、ルヴァン カップ湘南戦を見に埼スタへ向かう。
病院で父親が亡くなるとすぐに葬儀会社を手配することになった。深夜遅く父親を運び、翌日の午前中には葬儀の段取りを決める打ち合わせをした。一睡もしてなかったが眠くはなかった。
葬儀会社の人から棺桶に入れてはいけないものという案内を渡された。メガネや燃えないもののイラストともに本があった。紙なら燃えるじゃないかと思ったが背表紙のところが残るらしい。
まあ父親は本を読む人だったけれど、棺桶に入れるほど本が好きだったわけではないからそれはどうでもよかった。
葬儀の前に納棺式というのがあり、父親の表情を整え、身体を洗い、棺桶に納めるという。その日まで棺桶に入れたいものを用意しておいてほしいと言われた。
「浦和レッズのユニフォームを着せることはできますか?」
と僕は聞いた。
葬儀会社の人は困惑し、兄や兄の奥さんも少し笑った。僕と母親だけは真剣だった。いや母親はちょっと怒っているようだった。
なぜ母親が怒っていたのかといえば、母親は父親を浦和レッズのサポーターとは認めていなかったからだ。
「お父さんは勝ってるときだけ応援しているのよ」
よくそう言ってケンカをしていた。仲のいい夫婦だったけれどそのことに関しては母親は譲らなかった。
その気持ちもわかるのだった。母親は83歳になった今もシーズンチケットを買い埼玉スタジアムに通っているからだ。自由席で、90分立って手を叩き応援しているのだ。父親にそこまで情熱があったかというと確かに疑わしい。
それでも父親だって立派なサポーターだと思った。埼玉スタジアムができた2002年からめまい病を患う2019年までやっぱり毎年シーズンチケットを買って、母親のひっつき虫だったとはいえ、埼玉スタジアムに通っていたのだ。スタジアムに行けなくなってからも家でひとりDAZNで観戦し、僕が母親を車でスタジアムから送ると試合の感想を興奮気味に話ていたのだ。
父親と最後に話したのは死ぬ6日前だった。リハビリ系の病院に転院し面会が可能になり、半年ぶりにお見舞いにいったのだ。
父親は僕の顔を見ると涙を流して喜んだ。何度も何度も「今日はいい日だ」と大きな声をあげた。
いつも通り真っ赤なジャージを着た僕を見て、「やっぱり俺とお前は赤が似合うよな」と笑ったのだった。
父親は、赤色が大好きな、浦和レッズのサポーターだ。だから僕は父親に浦和レッズのユニフォームを着せて送り出したかった。誰が反対しようと絶対そうしたいと思った。
納棺式の時、棺にユニフォームを入れた。それは父親が最後に着た2019年のレプリカユニフォームだ。背番号は10番。父親は柏木陽介が大好きだった。僕が父親に最後にプレゼントしたものでもあった。
もう誰も笑っていなかった。母親はまだ少し怒ってるようだったけれど。
埼スタで、いつも父親が立っていた場所で応援した。観戦仲間が言った。「杉江さんのお父さん、熱い人でしたよね」
僕の父親は、浦和レッズの立派なサポーターだった。