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敵による辱めを恐れ… つぎつぎと身を投げた「石田一族の女たち」 女郎谷に伝わる「佐和山城の悲劇」とは

日本史あやしい話


「関ヶ原の戦い」直後に、石田三成の居城・佐和山城が小早川秀秋らに攻められて落城したことは、多くの人の知るところである。その時、石田一族の女たちが次々と女郎谷へと身を投げていったと伝えられている。断末魔の悲痛な声が、三日三晩にもわたって響き渡ったとも。果たしてどんな経緯によるものだったのだろうか?


 

■石田三成にはもったいない、島左近と佐和山城

 

「三成に過ぎたるものが二つあり」とは、よく言いふるされた言葉である。一つは「島左近」で、もう一つが「佐和山城」。

 

 三成が三顧の礼をもって迎え入れた猛将・島左近を讃えるのはわかるが、佐和山城なる山城がどの程度の名城だったのか、今になっては想像できそうもない。それというのも、三成亡き後、城を受け継いだ井伊直政らが、彦根城築城のために本丸はもとより石垣に至るまで、資材をことごとく持ち去ってしまったからである。

 

 もともと、佐和山城に石田三成が入城したのは天正191591)年のこと。荒廃していた佐和山城を大改修、文禄4(1595)年に、五層の天守が高くそびえる近代城郭を築いたといわれる。五層の天守というからには、実に壮大なものだったと思われるが、今はその痕跡も何もないため、ただ空想するしか手立てがない。

 

 ともあれ、今回はこの佐和山城の落城にまつわるお話である。そこで繰り広げられた惨事に、今一度、目を向けてみたいと思うのだ。

 

■「断末魔の悲痛な叫び」が三日三晩、響き渡った

 

 時は、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い直後のことである。天下分け目の大合戦を制した家康が、寝返ったばかりの小早川秀秋に対し、石田三成の居城・佐和山城の攻撃を命じたのだ。

 

 三成自身はこの時、まだ逃亡中で、城を守っていたのは、三成の父・頼忠と兄の頼重ら総勢2800人であった。中には病人や老兵なども多く、さしたる戦力でなかったことも、よく指摘されるところである。

 

 そこに、東軍は大手口から小早川秀秋、朽木元綱、脇坂安治などが、裏門にあたる搦め手から田中吉政らが攻め込んできた。総勢1万5千(あるいは2万とも)というから、落城も時間の問題であった。

 

 しかし、意外や、抵抗も凄まじかった。まず、小早川の先手が、石田隊の鉄砲隊の攻撃によって甚大な被害を被っている。負傷者300というから善戦したというべきだろう。また、弓の名手であった老兵・福島次郎作の活躍ぶりも目立った。敵兵に次々と弓を命中させて、一人、気を吐いていたのだ。

 

 ところが、夕暮れ時になって一時停戦。その後、事態が急変した。なんと、三の丸の守備に当たっていた三成の近臣・長谷川守知(はせがわもりとも)が、兵を引き連れて城を抜け出してしまったのだ。そればかりか、踵を返して、秀秋を手引きしながら佐和山城に向けて攻撃し始めたからたまらない。三の丸は防ぎようもなく、次々と本丸へ退却していったのだ。

 

 この守知、実は初めから東軍と内通していて、反旗の機会を伺っていたようである。その裏切りもあって、もはや落城は必至という段になった時、家康からの降伏勧告が届いた。石田一族の自刃と引き換えに、城内の者(城兵や婦女子ら)の命を助けるというものであったから、多くが安堵したに違いない。

 

 ところが、今にもこれを受け入れて開城しようかという段になって、経緯を知らない田中吉政軍が水の手口から乱入してきたから大変。これで、全てが水の泡となってしまった。城内の者たちは、家康が約束を破ったと失望。挙句、一族もろとも自害に及んだというわけである。

 

 女たちは敵の辱めを受けることを恐れて、後に女郎谷と呼ばれることになる本丸横の谷に向かって、次々と身を投げたとか。これがよく流布されてきた佐和山城落城の模様である。言い伝えによれば、その後、断末魔の悲痛な声が三日三晩響き渡ったとのことであった。

 

22歳の若さで散った、三成の正妻

 

 ただし、一説によれば、三成の父・頼忠と兄・頼重らは落城後に自害したものの、三成の妻ら一族の女たちは、三成の家臣・土田桃雲(つちだとううん)が刺殺した後、城に火を放ったといわれることもあるから、谷への投身が史実だったのかどうか疑われるところである。

 

 それでも、後の調査で、本丸や西の丸に焼失した痕跡が認められなかったことも加味すれば、炎上したとの説自体にも疑問が湧く。いずれの説も、決定打を欠いているのだ。

 

 ともあれ、多くの女性たちが身を投げたと言い伝えられる女郎谷であるが、今は樹々が鬱蒼と生い茂ってよく見通せない。それでも、この急斜面を多くの女性たちが転げ落ちていったというのが本当だったと思われるほど、辺りの風情はおどろおどろしい。

 

 三成の正妻・皎月院(宇多頼忠の娘)がこの佐和山城の何処で自害したのか、あるいは刺殺されたのか明確にはし難いが、夫・三成の面影をまぶたに浮かべながらこの世を去ったことだけは、おそらく間違いないだろう。このとき、わずか22歳だったというから、なんとも短く儚い生涯であった。

 

 落城は9月18日、逃亡中の三成が捕縛されたのは、三日後の9月21日のこと。さらに六条河原で処刑されたのは、10月1日であった。また、この時、三成の嫡男・重家(この時16歳前後か)だけは妙心寺へと逃れて出家。その後助命され、100歳を越えるまで生き延びたことだけは幸いだったというべきだろう。

 

滋賀県彦根佐和山

 

 

 

 

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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