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運命的な邂逅を果たした『ホルス』、高畑勲に“青春の全て”を捧げた宮崎駿
何よりも、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド・コミューンの形成と善悪の彼岸を描いた思想背景など、強烈な“作家性”に宮崎氏が傾倒。当時、宮崎氏は仕事と平行して、東映動画の労働組合に従事。労働争議においても、宮崎氏は書記長として携わり、それを高畑さんが副委員長として全面的に支えた。そこで感じた労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、『ホルス』は「日本のアニメ映画に初めて作家性が持ち込まれた」とも評されている。
「絵を描かない演出家」である高畑さんにとって、人物も動物はもちろん、飛行機などのメカ描写まで、どんなものでもアニメメイトする宮崎氏は、最高のアニメーターだった。また、含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウトで魅せる高畑さんの演出も宮崎氏にとっては憧れの的だった。そんな2人が一緒にスイスにまでロケハンに出かけて制作した『アルプスの少女ハイジ』では、ハイジの自由闊達な動き、アルプスの美しい自然、トロ〜リととろけるチーズなどの食事の描写などで宮崎氏が天才的なアニメーターとしての手腕を発揮。高畑さんも同作を著書『映画を作りながら考えたこと』で「『天の時、地の利、人の和』、この三つがすべて揃った」と讃えている。
“監督”宮崎駿の躍進をサポートし続けた高畑勲…やがて“別離”の時が
そして、1984年に『風の谷のナウシカ』を自作の漫画からアニメ映画にするにあたり、宮崎氏は「高畑勲にプロデューサーをやってもらいたい」と、徳間書店に在籍していた鈴木敏夫氏に依頼。書籍『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』によると、高畑さんはその依頼に頑として首を縦に振らず、「いかに自分がプロデューサーに向いていないか」を分析した大学ノートまで見せる。高畑さんがそこまで嫌がることを知った宮崎氏は飲み屋で日本酒をガブ飲みし、「俺は15年間、高畑勲に青春を捧げた。何にも返してもらってない!」と号泣。そんな宮崎氏を不憫に思い、鈴木氏が再び高畑に会いに行き、「友人が困っているのになぜ助けないのか!」と叱責、ついに高畑さんが承諾したというエピソードも。
そうして、両者のタッグで『ナウシカ』は完成するが、高畑さんは『ロマンアルバム 風の谷のナウシカ』で同作を「映画化をきっかけに宮さんが新しい地点に進むだろうという期待感からすれば30点」と超辛口の評価。その話を知った宮崎氏は激怒、同書籍を引きちぎったことも明かされている。そして、88年には宮崎監督の『となりのトトロ』、高畑監督の『火垂るの墓』が同時上映で公開。“ファンタジーの宮崎、リアリティの高畑”を明確に印象づけた。
やはり、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』に象徴されるように、心情描写とリアリティにこだわる実存主義的な高畑と、冒険活劇とファンタジー、ロマンスを愛する宮崎監督では作風の違いがあったのは事実。だが、両者の違いを認めた上で宮崎監督は『月刊アニメージュ』91年6月号で「必然的にそれぞれの嗜好に合わせて、別れていく時期が来て。けんかはしましたけど、けんか別れはしなかった」と複雑な心境を吐露している。
“永遠の片思い” 宮崎駿のモチベーションは常に「高畑勲に認めてもらう」
また、鈴木敏夫氏が明かした話によれば、遺作となった『かぐや姫の物語』制作時、高畑さんが若手アニメーターの絵にダメ出しする場面を宮崎がこっそり盗み見。自身も『風立ちぬ』で多忙ながら、高畑さんが望む絵を自ら描き、若手アニメーターに「こういう絵を描くんだ!」と叱責したという(高畑さんのいない所で)。高畑勲の右腕は俺以外にありえないんだ! 高畑勲が求める画を具現化できるのは俺だけなんだ! という強烈な自負を感じさせるエピソードだ。
このようなエピソードを挙げるまでもなく、宮崎駿がアニメーションを制作するモチベーションは、常に高畑勲という存在によって成り立っていた。『高畑勲、『かぐや姫の物語』をつくる。〜ジブリ第7スタジオ、933日の伝説〜』(WOWOW)にて、鈴木敏夫氏も「宮さんはじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と断言している。
人間の“生”を見つめ、時代への痛切なメッセージと叙情感あふれる作風で多くの作品を生み出した高畑さん。訃報に伴い、改めて「高畑勲の最高傑作は?」という議論も活発化するだろう。確かにどの作品も珠玉の名作ばかりだが、高畑勲氏が生み出した最高傑作は、紛れもなく“監督・宮崎駿”なのだ。