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いつものまちが博物館になる

土木と文明

第4章 都市の再生

2018年6月8日/未分類
『百橋一覧図』北斎画 太田記念美術館所蔵

第4章 都市の再生

4-1 京都

戦乱、政変、災害・・。長い歴史を通じ、京都は何度も深刻な破壊や、急激な人口減少を経験しながらも、見事に復興を遂げてきた。古代の都の多くが、歴史の荒波に揉まれ、次第に衰退する中、京都は政治力や民間活力を生かして、先端的な社会基盤整備や、特徴的な復興施策を展開し、わが国を代表する大都市であり続けた。ここでは、応仁の乱と明治維新という2つの時代に注目して、京都再生の過程を振り返りたい。(北河)

商人による復興

応仁の乱によって焦土と化した京都の復興は、中世の荘園領主ではなく、商業経済の担い手である町衆によって進められた。豪商・角倉了以は、大堰川や高瀬川の整備により、京都の流通機能の向上に貢献。本図は、その工事の状況を示す。「大堰川の開鑿」では、巨岩を火で熱して砕く、という当時の施工技術も確認することができる。(北河)
左:「高瀬川の開鑿」慈舟山瑞泉寺所蔵、右:「大堰川の開鑿」慈舟山瑞泉寺所蔵
岩佐又兵衛 国宝「洛中洛外図屏風(舟木本)」(部分)東京国立博物館所蔵

秀吉の都市改造

織田信長にかわって天下の実権を握った豊臣秀吉は、1586(天正14)年から京都の大改造に着手し、「御土居」と呼ばれる土塁の構築、町人地・武家地・公家地・寺社地の分離、さらに「天正地割」と呼ばれる街区再編等により、二条城を中核とする京都の城下町化を推し進めた。「天正地割」とは、街区の中央に南北方向の街路を通し、街区中心部の接道の無い空地に新たな「町」を形成するいわば都市再生の手法である。「洛中洛外図屏風(舟木本)」からは、改造後の京都の賑わいの様子を読み取ることができる。(阿部)

琵琶湖疏水

幕末維新期、東の都・東京が誕生する陰で衰退を余儀なくされた京都は、大都市としての地位を保つため、産業や教育に関わる様々な施策を講じた。その象徴が、琵琶湖の水を利用して京都の水道、交通、エネルギー、景観などの近代化をもたらした総合開発・琵琶湖疏水事業である。この事業では、トンネル、橋梁などの建設においても、最先端の技術が用いられた。(北河)
上:土木学会所蔵、右:『琵琶湖疏水工事図譜』(田辺朔郎)所収

内国勧業博覧会と都市近代化

平安遷都1100年にあたる明治28年(1895)には、産業の祭典・内国博覧会が開催された。この時、疏水による水力発電を利用して、わが国初の市街電車も開通している。さらに西郷菊次郎(隆盛の子)市長の時代(明治37年~44年(1904~1911))には、京都市三大事業と呼ばれた水道や道路の改良事業が推進され、京都の経済と都市文化の再生に大きく貢献した。(北河)
左:「慶流橋より会場を望む」、右:「市電」『風俗画報』、いずれも明治28年6月、94号所収、国立国会図書館ホームページより転載

4-2 東京

幕末維新期の急激な人口減少、関東大震災・東京大空襲による壊滅的な被害によって、何度か存亡の危機に陥った東京も、そのたびに復興し、現在の繁栄を築いてきた。京都と異なり、都市再生にあたって国が広く関与した東京では、各事業に近代化を先導した国の指導者たちの技術と理念を見て取ることができる。ここでは、明治初期の混乱と、それから半世紀後に近代都市の姿を整えつつあった東京を直撃した関東大震災後の復興の様子を見ていきたい。(北河)

外国人による近代化

武士が去った後の急激な人口減少に追い打ちをかけるように、明治5年(1872)、銀座・築地を焼き尽くす大火が発生する。しかし、それをきっかけとして、新橋駅と築地居留地を結ぶ主要街路に、わが国初の大規模な近代都市整備、銀座煉瓦街が築かれた。設計はお雇い外国人ウォートルス。この他、エンデとベックマンによる官庁集中計画など、明治初期の東京では西洋人が中心となって都市の近代化が具体的に検討された。(北河)
「錦絵 新橋鉄道蒸気車之図 東京銀座煉瓦石繁栄之図」港区立港郷土資料館所蔵

日本人による近代化

明治初期、東京を近代都市として再生するため、日本人による事業も展開した。その一つが、江戸城の防御施設であった見附の石材を転用した石橋建設で、九州の石工により、市内10基以上の木橋が石橋に架け替えられた。写真は、今も残る常磐橋。これらは都市の不燃化に寄与すると共に、閉鎖的な都市構造からの脱却も象徴的に物語っている。(北河)
文化財保存計画協会所蔵

駅と都市開発

かつて大名屋敷が立ち並んだ丸ノ内界隈は、軍用地として利用された後、三菱財閥に払い下げられた。当初の軍用跡地は三菱ヶ原とも呼ばれる広大な空き地だったが、丸ノ内近辺への中央停車場建設が構想される中、わが国初のビジネス街が建設された。銀座煉瓦街と同様、新たな都市拠点・鉄道駅の近代都市における重要性を示す。(北河)
「明治40年代の三菱一号館」三菱地所株式会社所蔵

帝都復興の方針

死者10万人を超える被害をもたらした関東大震災後の惨状から東京をよみがえらせるため、政府は被災後直ちに「帝都復興に関する根本方針」を定める。そしてその中で、「質実を主とし外観を従とし・・都市の面目を一新して威容あるものたらしめ(る)」方針を確認する。「東京復興事業の内容」に示すように、帝都復興事業は実に多岐にわたり、それはまさに都市の大改造といえるものだった。(北河)
左:「帝都復興ニ関スル根本方針」国立公文書館所蔵、右:「東京復興事業の内容」東京都復興記念館所蔵

近代の造形

震災復興事業によって、橋のデザインも一新された。耐震性を高め、将来的な交通需要に対応するだけでなく、力学的合理性を考慮した新たな橋梁美が探求された。それは復興の「根本方針」にも適うものであった。写真のフィーレンデール式の豊海橋はその代表例の一つ。この橋を含む隅田川沿いの新たな橋梁群に対して、川端康成は「機械時代の近代感覚」を見いだしている。(北河)
土木学会所蔵

4-3 戦災復興から現代・地方都市の再生

多くの地方都市が戦災復興事業により戦後の復興の礎を築いた後、時代の変化の中で都市再生に向けた多くの国策が打たれてきた。今後、より「地方が自立的に再生」していかなければならない時代の到来に向け、刻々と変化する社会的問題と向き合いながら、地域特有の自然、文化、伝統を見直し、新たに活用していく取組みが望まれる。社会基盤整備を通じて自立的に都市再生に取組み始めている事例を、戦後の歴史を紐解きながら紹介する。(福島)
広島復興都市計画図」『戦災復興事業誌』(都市計画協会)に着色(着色部=100m道路)

広島県広島市

■広島の戦災復興計画

広島は干拓や治水など水に関わる社会基盤整備の蓄積により特徴づけられてきた。戦後の戦災復興土地区画整理事業の特徴としては、100m道路(現平和大通り)を含む多くの広幅員道路の実現や、河岸緑地の創出が挙げられ、これらの社会基盤整備はその後の広島の発展を支えてきた。(福島)
真田純子撮影

■太田川環境護岸整備事業

戦後の河川行政が河川区域に閉じた標準断面によって進められていた頃、明確に都市とのつながりを意識しながら都市施設として護岸を空間デザインした先駆的事例。東京工業大学の中村良夫研究室によって、太田川のイメージ調査から始まり、ゾーニング、構想、設計の一連の取組みが行われた。(福島)
[土木学会デザイン賞2003特別賞]
小野寺康撮影

■河川空間の利活用

社会基盤整備による公共空間を、都市を豊かにする資源としてとらえて活用し、にぎわいの場の創出をしようという取組み。京橋川や元安川の河岸緑地における水辺のオープンカフェの展開や、雁木タクシーの取組みなど、「水の都」としての魅力向上に官民協働で取り組んでいる。(福島)
「日南復興土地区画整理設計図」『戦災復興事業誌』(都市計画協会)に着色

宮崎県日南市

■日南市の戦災復興事業

宮崎県南部に位置する日南市は、重要伝統的建造物群保存地区である飫肥城下町の飫肥地区、古くから地域の重要な港であった油津地区などにより特徴づけられる。飫肥杉の運搬のため飫肥藩によって開削された油津堀川運河は、戦災復興土地区画整理事業によって重要な交通網として位置づけられ改修が行われた。(福島)
小野寺都市設計事務所提供
木材を活かした商店街の取組み 木藤亮太撮影

■油津堀川運河再生事業

戦後堀川運河の水質が悪化し、埋め立ての議論も出たが、県、市、市民、専門家の協働により、地場産材である飫肥杉と飫肥石を用いた水辺空間として再生された。住民による運河周辺の歴史的建造物の文化財登録や、商店街の再生に向けた取組みが進められるなど、今後の都市再生に向けて様々な展開が期待される。(福島)
[土木学会デザイン賞2010最優秀賞]

新潟県新潟市

■地域主体で進められた早川堀の再生

市街地において港町新潟を特徴づけていた大小多くの堀割は、戦後の大火や、衛生環境悪化をきっかけに全て埋め立てられた。近年堀の再生による都市再生の声が高まり、300回を超える沿線住民主体の丁寧な議論の積み重ねにより、2014年早川堀通りの水辺が再生された。(福島)
新潟市都市政策部 _都市計画課 _まちづくり推進室提供
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