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活動記録

施術家 吉田正幸のブログ

人心操作の授業「全員“カモ”『ズルい人』がはびこるこの世界で、まっとうな思考を身につける方法」を読んだ

認知心理学の第一人者による、人間の思考の脆さとそれを利用する「ズルい人々」への対抗策を説いた一冊。

本書は、有名な「見えないゴリラ実験」で知られる著者が、現代社会における錯覚や騙されやすさ、そして健全な判断力を養う方法を、実例や研究を交えてわかりやすく解説した作品。

人間の認知は簡単に操作される

まず、本書の核心は、人間の認知がどれほど簡単に操作され得るかを明らかにすることにある。

冒頭で紹介される「見えないゴリラ実験」は、バスケットボールの動画でパス回数を数えることに集中していると、画面を横切るゴリラに気づかないという現象を示したもの。

この実験は、私たちが「注意の選択性」に縛られていることを象徴しているという。

つまり、ある一点に意識を集中すると、他の重要な情報を見逃してしまうということ。なるほど、集中することにも気をつけるというか、客観性は大事なのかもしれない。

この事実は、日常生活でも頻繁に起こり得ることだと感じた。例えば、スマートフォンの通知に気を取られている間に、目の前の大切な出来事を見逃す経験は誰しもあるのではないだろうか。

この「見えないゴリラ」のメタファーは、繰り返し登場し、僕らの認識がどれほど限定的で脆いかを痛感させる。

「ズルい人」は巧みに利用する

さらに印象的だったのは、「ズルい人」がこの認知の弱点を巧みに利用するという指摘だ。

詐欺師やマーケティングの専門家、政治家などが、私たちの感情や先入観を刺激することで、合理的な判断を曇らせると著者は述べている。

例えば、恐怖や不安を煽る広告や、魅力的なストーリーを語ることで商品を売りつける手法は、確かに身の回りに溢れていて、自分も衝動買いをしてしまった経験が何度もある。「今買わないと損する」という焦燥感をあおるアノ手法。

このような「フック」と呼ばれる心理的仕掛けが、私たちを「カモ」に変えるプロセスとして詳細に書かれている。これを読んで、少なくとも自分も無意識のうちにどれだけ操られていたのかを自覚するほど

身近にも詐欺被害者がいた

実は、当院の常連患者さんが先日詐欺にあったと聞いた。

NTTを装ってとても巧みに振り込みをさせられたとのこと。正直驚いた。その患者さんは聡明で頭が良い。相手は余程うまいのだろう。正直、少し怖くなった。

一方で、この本書は単に「騙される側」の弱さを指摘するだけでなく、それを克服するための具体的な方法も提案している。

著者が強調するのは、「健全な懐疑心」と「批判的思考」。

例えば、何か魅力的な主張に出会ったとき、「なぜこれに惹かれるのか」「証拠は十分か」と自問することが重要だと説いている。

このアドバイスはシンプルだけれど、実践するのは意外と難しいと感じた。

日常生活では、情報を即座に受け入れるか無視するかの二択になりがちで、立ち止まって考える余裕を持つことは急いでいるときには難しい。

しかし、本書を通じて、このような習慣を少しずつ取り入れることが、自己防衛につながると実感したし、来られる患者さんにも伝えたくなった。

特に興味深かったのは、「答えになっていない答え」に注意せよという警告である。

政治家の演説や企業の宣伝文句で、質問に対して曖昧で感情的な返答が返ってくることがある。著者は、これが意図的なごまかしである場合が多いと指摘し、具体性や根拠を求める姿勢が必要だと述べている。

これは、情報過多の現代において非常に役立つ視点だと思った。

例えば、SNSで流れてくるニュースや意見に飛びつく前に、「この主張を裏付けるデータはあるのか」と一呼吸置く癖をつけろ、ということだ。

他にも詐欺事件や歴史的な出来事が織り交ぜられ、堅苦しくなりがちなテーマが身近に感じられた。

特に19世紀の詐欺師が「魔法の石」を売りつけた話や、現代の偽科学が広まる背景など、笑いを誘いつつ教訓を与えるエピソードが豊富。

ちょっと分厚い本だけど、読んでいて飽きることがなく、むしろ「次は何が出てくるのだろう」とページをめくる手が止まらなかった。

しかし、読んでいて少し気になった点もある。

それは、すべての人が「ズルい人」に囲まれているという前提が、少し誇張してある点。確かに詐欺や悪意ある話法は存在するけれど、日常のほとんどの人間関係はもっと単純で善意に基づいている。(と信じている)

著者の視点は、現代社会の競争的な側面や情報操作に焦点を当てているため、少し悲観的に映る部分が多い。ここは、読み手自身の経験や価値観によっても受け取り方が分かれるのだろうけれど。

それでも、これくらい慎重かつ丁寧に「疑うこと」が必要な世界になってしまったのかもしれない。

特に、「意志決定者が気をつけるべき3つの原理」や「相手の弱点を見破る3つの質問」など、実践的なツールが提示されている点は秀逸だった。

これらは、ビジネスや交渉の場だけでなく、日常的な意思決定にも応用できるな、と感じる。

例えば、「この選択に隠れたコストはないか」「代替案は検討したか」という問いを自分に投げかけることで、より冷静な判断ができるようになるだろう。

僕自身、過去の買い物や仕事の決断を振り返り、「もっと慎重に考えるべきだったな」と反省する場面が読んでいて多々あった。

読み終えて、最も強く残った印象は、少し悲しいことだけれど、「自分自身を信じすぎないこと」の大切さだった。

私たちは自分の記憶や直感が正しいと思いがちだが、著者はそれらが驚くほど当てにならないことを科学的に示している笑。

目撃証言の誤りや、過去の出来事を都合よく歪めて記憶する傾向は、心理学研究でもよく知られているし。この事実を知ることで、自分の判断に過信せず、裏をとった客観的な視点を持つ努力も必要だと感じた。

総じて、「全員“カモ”」は、現代を生きる私たちにとって必読の一冊だと思う。

情報が溢れ、誰かに操られるリスクが高まる中で、自分を守り、まっとうな思考を保つための指南書として機能するのではないか。

読み終えた後、すぐに何かが劇的に変わるわけでは無いけれど、日常の中で「ちょっと待てよ」と立ち止まる瞬間が増えたことは確か。

最後に、著者の言葉を借りれば、「私たちはみなカモになり得るが、カモのままではいられない」。

この気づきを胸に、賢く生きる術を磨いていかなければならないな。

リラックスゾーンへの意外な一歩

朝はクリア

肺呼吸のリズムには確かに不思議で魅力的な側面があるのです。

人間の呼吸は、無意識のうちに絶妙なリズムで繰り返され、生命を維持する基本的な仕組みとして働いています。まず、呼吸のリズムは自律神経系によってコントロールされています。

具体的には、延髄にある呼吸中枢がこのリズムを調整し、吸気と呼気を自然に切り替えているのです。このリズムは通常、1分間に12~20回程度で、状況に応じて変化するんです。

とても重要なので、覚えておくとメチャクチャ役立つことがあります。それは、呼吸が意識的にコントロールできる数少ない自律神経の調整機能の一つだということ


普段は無意識に進む呼吸ですが、深呼吸をしたり、息を止めたりと、自分の意志で一時的にリズムを変えられる。この「無意識と意識の橋渡し」のような性質は、他の生命活動と比べて独特です。

さらに、呼吸のリズムには感情や精神状態が反映される不思議さもあります。

緊張すると浅く速くなり、リラックスすると深くゆっくりになる。

これは、自律神経系の交感神経と副交感神経のバランスが関わっていて、まるで心の状態を映し出す鏡のようですね。

ヨガや瞑想で呼吸を整えることが心の平穏につながるのも、この仕組みが背景にあります。

生物学的な視点で見ると、肺呼吸のリズムは進化の過程で洗練されてきたものでもあります。

魚類のエラ呼吸から陸上生物の肺呼吸への移行は、酸素を効率的に取り込むための大きなステップ。そして、そのリズムが種ごとに最適化されているのも興味深い点です。

人間の場合、肺の構造と呼吸筋(横隔膜や肋間筋)の協調が、リズミカルで効率的なガス交換を可能にしています。

最後に、ちょっと詩的な視点ですが、呼吸のリズムは生命そのものの鼓動とも言えます。吸って、吐いて、また吸って……このシンプルな繰り返しが、私たちが生きている証。

止まることなく続くそのリズムに、宇宙のサイクルや自然の調和を感じる人もいるかもしれませんね。

呼吸の不思議さって、日常の中で当たり前すぎて見逃しがちだけど、まずは自律神経の調整には呼吸です。

そして吐く方を少し長く意識するとリラックスゾーンへ一段階ギアが入ります

それでは、本日も施術に精進します。

人間関係を筋肉関係からみてみた

人間の体には約600個の筋肉があると言われています。

驚くべきことに、これらの筋肉は単独では決して機能しません。

腕を曲げるにも、歩くにも、笑うにも、それぞれの筋肉が互いに協力し合い、絶妙なバランスで動くことで、私たちは日常を過ごせています。

どれか一つが欠けても、動きはぎこちなくなり、時には全く動けなくなってしまうこともあるでしょう。

考えてみれば、人間関係もこれと驚くほど似ています。

一人きりでは、私たちは完全には機能しないのです。

友が励まし、家族が支え、時には見知らぬ誰かの小さな優しさが心を動かす。それぞれが繋がり、力を合わせることで、人生という大きな動きが生まれます。

筋肉が互いに依存し合うように、人もまた誰かと共にあって初めて輝き、成長し、笑い合えるのかもしれません。

だからこそ、

今日誰かに手を差し伸べたり、

感謝を伝えたりすることは、

まるで筋肉を鍛えるように自分自身を強くする一歩になるのかも。

600の筋肉が織りなす奇跡と同じように、

私たちの関係性もまた、

小さな繋がりが積み重なって大きな力を生み出すのです。

それでは、本日も施術に精進します。

ヒッピームーブメントは未来とつながる

Be here now!
「自由」の象徴とされたヒッピームーヴメント。
でも、その根幹にあるものって現代と対して変わらないんじゃないか、とふと思った。
 
ヒッピースタイルでのサイケデリック的なファッションは自由の象徴だった。反戦に平和主義。自然回帰にシンプルライフ。精神世界に東洋思想への関心などは、現代人も求めていると思う。
 
ベトナム戦争に反対するデモでは、「Make love, not war(愛を作ろう、戦争はやめよう)」というスローガンだった。
 
大量消費社会への反発から、自然と共に暮らすライフスタイルを重視して、自給自足を目指してコミューンを作った人もいたね。

瞑想、ヨガ、仏教、ヒンドゥー教などに興味を持つ人が増加し、自分自身の内面の探求を大事にした。瞑想とかヨガとなるとどうも〝カルト〟というイメージが強い。それはオウム事件報道からだろう。
 
確かに、サイケデリックにおいて、 LSDなどのドラッグを使い、「意識の拡大」を目指す動きもあったが、もちろん現在は違法だ。
 
サイケデリックアートや音楽もキョーレツだったけど、ジミ・ヘンドリックスやグレイトフル・デッド自体のギター感覚とリズム感は嫌いではない。
いやいや、肝心なのは、「思想」
 
ヒッピームーブメントはただの流行ではなく、「思想の革命」みたいな側面が強かった。では、その背景と思想の転換とはなんだったのだろう。

当時のアメリカ(1950年代〜60年代初頭)の社会は、次のような価値観が支配的だった。

  • 物質主義(物を持つことが幸福)
  • 家父長制的な家族観
  • 会社人間・忠誠心・ルール重視
  • 共産主義への強い恐怖(赤狩りなど)
  • 軍事力・国家への信頼
  • 伝統的なキリスト教道徳

この「画一的で管理された社会」に対して、ヒッピーたちは「本当にそれが幸せか?」と問い直したのだ。

音楽と思想はリンクする
どんな思想へと転換したのか?

  • 個人の自由・自己表現の重視
  • 愛と平和を中心にした社会(Love & Peace)
  • 自然との共生(エコロジー意識)
  • 物質より精神を大切にする
  • 西洋的な合理主義から、東洋的な精神世界へ関心が移行
  • 制度や権威よりも「自分の中の真理」に従う生き方

ところで、転換のきっかけとなった出来事ってなんなんだ?(ココ重要)

ベトナム戦争(1955〜1975)

若者たちは徴兵され、遠い国で意味のわからない戦争をさせられた。
戦争の正義が疑われ、国家や政府に対する信頼が大きく揺らいだ。

黒人差別と公民権運動
「自由の国アメリカ」で起こる差別の現実。
この矛盾に目覚め、人権や平等の思想が芽生えた。

ケネディ、キング牧師の暗殺
希望を象徴する指導者たちの死が「国家は信用できない」という感覚を強めた。

冷戦・核の恐怖
「地球が一瞬で終わるかもしれない」という時代的不安が根底にあった。

若者たちが最も直面し、苦しんだ問題って何?

  • 価値観の断絶(親世代との衝突)
  • 両親は戦後の繁栄を信じ、安定した暮らしを良しとした。
  • それに対して「本当に生きてるって何?」と悩む若者。
  • 家庭や学校、社会すべてが「理解されない場」になった。

自分の居場所がない感覚

社会的役割を果たすことより、「自分らしくある」ことに価値を置いたが、それを受け入れる土壌が少なかった。

国家の命令と個人の良心の間での葛藤
戦争に行きたくない。でも拒否すれば逮捕される。
平和を愛する気持ちが「反国家」扱いされる苦しみ。

ドラッグと精神的な不安定さ
LSDなどを使って「意識の拡大」を求めたが、逆に心が壊れていく人も多かった。

一体、ヒッピーの思想ってなんだ?

「愛と自由を、真に意味のあるかたちで生きたい」

これがヒッピーの根本思想ではないだろうか。

彼らは物質でも国家でも宗教でもなく、「人と人とのつながり」「意識の目覚め」のようなものに真実を求めた。

ちょっと、待って。
 
コレって、2025年の今、現在進行形じゃない?
 
1970年代に入ってヒッピームーブメント自体は衰退した。しかし、ヒッピー的価値観は今でも、「エコロジー運動」や、「スピリチュアル文化」などに影響を残しているのではなかろうか。
 
ヒッピーたちは西洋的な「神=絶対的権威」という枠組みに疑問を持ち、そして興味を持ったのが東洋の宗教だったところにポイントがある。

仏教(特に禅)で瞑想によって「無心」や「今この瞬間に在る」ことを体験し、自我を超えた存在との一体感を求めたし、道教の老子思想からの影響として、「無為自然(作為をせず、自然にまかせる)」という教えにも強く共鳴した。
 
社会の強制力に疲れた彼らにとって、「流れに身を任せる」という思想は救いだったのだろう。

またまた、ちょっとまって。
 
「Be here now(今ここに在る)」はヒッピー文化の名言で、仏教やヨガからの影響を色濃く反映しているが、これって、まさに天下のGoogleが社員教育で取り入れている「マインドフルネス」ではないか!?
 
あれ!?
 
スティーブ・ジョブズって、確か「禅」に深く影響を受けていたよね?
 
若きスティーブ・ジョブズは「人生の本当の意味は何か?」「自分はなぜここにいるのか?」という問いに強く突き動かされ、おそらく、人生の意味を探す旅の中でジョブズは「禅」に出会い、 それが彼の生き方とAppleの美学の根幹になったのだろう。
 
最近のアップルはどうかな?
 
やっぱり、ハングリーさが伝わらない。画一的で管理された延長線上にあると感じてしまうのは僕だけか。まさに、2025年の今、ヒッピームーヴメントは現在進行形じゃないとダメなのだ。
 

SNS情報の削除基準と異議申し立て

未知なる情プラ法
いやいや驚いた。
前回のブログがなぜかFaceBookからBANされました。理由がまったくわからない。

⇈コノ記事

「YouTubeの情報を上手にすくいあげる方法」というタイトルでAI巡回にキャッチされて自動的に削除されたのだろうと思う。正解かどうかは分からないけれど。
 
それにしても情プラ法前だったというのにやけに厳しくなってきたものだ。ちなみに「情プラ法」は、ネット上の誹謗中傷や権利侵害を減らすための法律で、2025年4月1日からスタート。
 
SNSなどの大規模プラットフォームに、削除対応を早くしたり、ルールを明確に公表したりする義務を課すもの。被害を減らす狙いだけど、言論の自由とのバランスが課題といわれてはいるが果てしてどうだろう?

誹謗中傷や権利侵害といったって、それを誰が判断するのか?という話だ。どうせあちら側(政府)の正しい基準に無理やり合わせてバッサリいかされるのは目に見えている。たとえそれが真実だとしても、だ。
昨今のテレビ報道をみれば一目瞭然。
「偏向報道」とは、簡単に言うと、ニュースやメディアが特定の意見や立場に偏って事実を伝えたり、意図的に情報を歪めたりすること。
 
例えば、ある出来事について、一方の視点ばかりを強調して反対側の意見を無視したり、編集や言葉選びで印象を操作するような場合を指す。
 
日本のテレビだと、政治や社会問題でよく議論になる。
 
例えば、政治資金問題の報道(2024年10月)

2024年10月の衆議院選挙前、与党・自由民主党が裏金問題に関与した候補者の支部に資金提供していたと共産党系新聞が報じ、これがテレビでも大きく取り上げられた。
 
報道では「国民を裏切る行為」として批判的に伝えられたけど、自民側が「資金は選挙に使えない」と反論した点はあまり深掘りされず、一方的に悪印象を与える編集が目立ったと視聴者から指摘された。
 
特にワイドショーでは、感情的なコメンテーターの発言が強調され、事実関係よりスキャンダル感が優先された印象。

そして、フジテレビのSMAP中居正広スキャンダル(2025年1月)

2025年1月に週刊誌が報じた中居正広の「女性問題」をめぐり、フジテレビが関与したとされる疑惑がテレビで話題に。フジテレビ社長が会見で調査を約束したけど、他局の報道では「フジの隠蔽体質」と決めつけるようなトーンが強く、具体的な証拠より憶測や過去のイメージで語られることが多かった。
 
これが原因で企業がCMを引き揚げる事態になり、報道自体が偏ってフジを叩く流れを作ったと批判された。

どちらも、事実を伝えるより視聴率狙いの演出や特定の立場への肩入れが感じられると言われてる例だ。そもそもテレビ自体が僕は嫌いだけど。

偏向と感じる敏感さ

最近だと、番組の時間帯変更とか内容の刷新も、視聴率や視聴者の反応を意識した結果として「偏向」と感じる人がいるかもしれない。

とにかく、Facebookの厳しい対応に驚いた。まず、なぜ削除されたのかを考えると、Facebookのコミュニティ規定やアルゴリズムが関係している可能性が高いのだろう。

もちろん、YouTubeを批判する内容ではなく、むしろ情報を活用する方法を提案するもの。それでも削除された理由として考えられるのは、「誤解を招く」判定だろうと思う。
 
 Facebookは「誤解を招く方法でエンゲージメント(いいね!やシェア)を増やそうとする」投稿を嫌うらしい。タイトルが「上手な方法」とあるので、もしクリックを誘うような表現や、内容が誇張気味だとAIに誤解された場合、スパムっぽく見えて反応されたと感じる。

そして外部リンクの扱い。そのリンク先がFacebookの基準で「不適切」と判断された可能性もある。例えば、サイトの信頼性が低いと見なされたり、過去に似たリンクが問題視されたりしたケースが影響しているのかもしれない。
 
「YouTube」や「すくいあげる」といった言葉が、著作権や情報搾取に関連する投稿と誤って結びつけられた可能性だ。AIは文脈を完璧に理解しないので、単語だけでフラグを立てることがあるらしい。たまったものではないな。

Facebookが厳しい理由は、プラットフォームを「安全で信頼できる場」に保つためというのが公式の言い分だから。特に2025年現在、誹謗中傷やスパム、偽情報を減らす動きが強まっていて、日本の「情プラ法」みたいな法律も影響してるかもしれない。
 
削除基準は人間よりAIが主に判断してるから、意図しない引っかかりが増えてるのも事実。

とはいえ、納得いかないなら、削除通知に「異議申し立て」のオプションがあるので、それで「批判じゃない、役立つ情報だ」と説明してみるのも手なのだろうけれど、そんな時間の余裕はない。AIの誤りを人間が見直してくれる可能性はあるのだろうけれど。こんな厳しさはユーザー体験を守るためでもあるけど、こういうケースだと逆にストレスになる。
 
どこか、良い整体院ありませんか?笑