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若紫の帖  八 ゲンジの君、若紫を二条院に拉致する

(現代語訳)
 ゲンジの君は左大臣の屋敷にいた。例の内室は、すぐに会おうとはしないのだった。気まずいまま、和琴を引っ掻き鳴らして「常陸には田をこそ作れ、あだ心、や、かぬとや君が、山を越え野を越え、雨夜来ませる」などと、鄙びた詩を颯爽と歌う。

 コレミツがやって来たので、呼び寄せて報告させる。「明日に兵部卿宮が迎えに来るらしいのです」と答えるので、ゲンジの君は不本意である。「父宮の手に渡ったら、求婚しても変態扱いされるだけだな。子供を誘拐したと白い目で見られる。ならば、しばらくの間、女官たちに箝口令を出して、先手を打って誘拐するしかない」と企むのだった。コレミツに、

 「夜明けにあそこへ行く。車をそのまま待機させておけ。家来を一人か二人、待機させておくんだ」

と言う。コレミツは頷いて準備にかかる。ゲンジの君は「厄介なことになった。世間に知れたら手癖の悪い男だと浮き名が立つだろう。せめて、あの子がロマンのわかる年頃だったら、女が私に狂ったと言い訳もできるだろうし、よくある話だろう。もし兵部卿宮に捜索されたら、恥ずかしいだけでは済まない」と思い悩むのだが、今しかチャンスがないので、そんな悠長なこともしていられなかった。まだ暗いうちに出撃することにした。アオイはいつものように仏頂面で硬直している。

 「二条院で片付けなくてはいけない仕事を思い出しました。すぐ戻ってきますよ」

と適当な言い訳をして逃げるように出かけるので、女官たちは誰も気がつかなかった。自分の部屋で直衣を身にまとい、馬に乗ったコレミツだけをお供に出撃する。

 コレミツに門を叩かせると、何も知らない者が門を開けた。すかさず車を中に引き入れる。コレミツが入り口の開き戸を叩いて咳払いを、ひとつ。それを察した少納言の乳母が近寄ってくる。

 「ゲンジの君がここにいます」

とコレミツが言うと、

 「姫君は寝ています。いったい何時だと思っているのですか? どこから朝帰りしたのやら」

などと少納言の乳母は密通帰りに立ち寄ったと勘違いしている。

 「兵部卿宮に引き取られると聞いたので、その前に話をしようと思っているのですよ」

とゲンジの君が言う。少納言の乳母は、

 「いったい何のお話しでしょうか。どういう結構な返事ができますでしょうか」

と一笑する。それでもゲンジの君が侵入を試みるので、少納言の乳母は驚いた。

 「いけません。汚らしい年寄りが無防備に寝ています」

と制するのだが、ゲンジの君は、

 「姫君はまだ寝ているのですね。私が起こしてあげよう。この綺麗な朝霧に気がつかずに寝ているなんて」

と突入するのだった。「あっ」と阻止することもできない。幼い姫君は無邪気に睡っていたのだが、ゲンジの君が抱き起こすので目を覚ました。父の兵部卿宮が迎えに来たのかと寝ぼけている。源氏の君が、姫君の髪の毛を掻き分けて撫でてながら、

 「さあおいで。私はお父様のお使いだ」

と言う声を聞いて、姫君は人違いだと気がついたのだった。唖然として、顔が引きつっている。ゲンジの君は、

 「怖がらないで。私だって人間ですよ」

と抱きかかえて連れ出そうとする。コレミツも少納言の乳母も「何ということを」と呆気にとられている。

 「ここに来るのがままならないから、安全な場所に行こうと言っていたでしょう。それなのに兵部卿宮に引き取られていくなんて非道いです。今まで以上に連絡が難しくなっては困りますね。誰か一人だけ付いてきなさい」

とゲンジの君が言うので、少納言の乳母は狼狽する。

 「今日だけはなりません。兵部卿宮様がいらっしゃってから、説明のしようがありません。時が過ぎてから自然と結ばれるのであれば、それも仕方ありませんが、何も知らない子供なんです。そんなことになったら、私たちが苦労するだけですわ」

と訴えるのだが、ゲンジの君は、

 「嫌なら来なくても良い。後から誰かが寄こせ」

と強引に車を寄せさせるのだった。女官たちは開いた口が塞がらない。始末に負えず狼狽するばかり。姫君も「狂ってる」と思って泣いた。少納言の乳母は、どうすることもできずに、昨夜に縫った着物などを抱えて、身なりを整え、慌てて車に乗り込む。

 二条院は近くにあるので、夜明け前に到着した。一行は、西の建物に車を寄せて降りる。姫君をいたって軽々と抱き上げ下ろすのだった。少納言の乳母は、

 「悪い夢を見ているようで、放心状態です」

と逡巡している。ゲンジの君が、

 「あなたの好きにすればいい。この姫君は預かったから、あなたが帰りたいのなら、送らせよう」

と言い放つので、少納言の乳母の顔を引きつらせたまま下車するのだった。突然のことに、ただ驚き、呆れるばかり。胸の鼓動が収まらない。「兵部卿宮様に叱られる。これから姫様はどうなってしまうのかしら」などと考え「頼りにする人が次々と先立ったのが不幸の始まりなのだ」という結論に達するのだった。泣いてしまいたいのだけど、悪い予感がして、必死に堪え、目をギラギラさせていた。

 ここは使われていない建物のようで、仕切り布などはないのだった。ゲンジの君はコレミツを呼んで、仕切り布や屏風などを、あちらこちらに配置させる。仕切りの布を引っ張り、姫君の居場所を作ると、すぐに使えるような部屋なのである。ゲンジの君は、東の建物に夜具などを取りに行かせて寝るのだった。姫君は「何をされるの」と怖くてぶるぶる震えているのだが、声を出して泣いたりはしない。

 「少納言と一緒に寝る」

と言う声が幼い。

 「今日からは少納言と一緒に寝てはいけませんよ」

とゲンジの君がたしなめるのが、寂しくて、姫君は泣きながら寝るのだった。少納言の乳母は寝る気も失せて、放心していた。

 だんだんと夜が明けてゆく。少納言の乳母があたりを見渡すと、建物の構造や飾りが唖然とするほど立派で、庭に撒いた砂が玉を重ねたように煌めいている。自分の居場所が無いような気分がするのだが、ここには自分以外の女官はいないのだった。形式的に客人を応接するする建物なので、警備の男達がスダレの外で見張りに立っているだけだ。今回、ゲンジの君が女を連れてきたと耳にした者は「誰だろう。よっぽどの女だろう」と噂している。ゲンジの君の洗面具と朝粥が、この建物に運ばれる。日が昇りきった頃に目覚めて、

 「女官がいないと良くないな。夕方になってから適当な人を呼びなさい」

とゲンジの君は言って、東の建物の女の童を呼び寄せてやる。「小さい子だけ集まれ」と言ったので、可愛らしい子供が四人ほど遊びに来た。姫君は着物に包まれて眠っているのだが、ゲンジの君は無理にでも目覚めさせる。

 「不貞寝はいけません。私が変質者だったら、こんなに優しくしませんよ。女の子は思いやりが大切なのだから」

と早くも調教がはじまるのだった。姫君の顔は遠くから見るよりも、ずっと綺麗だった。ゲンジの君は優しく語りかけ、面白い絵や玩具を取り寄せて見せたり、媚びを売る。目覚めて見つめている姫君は、着古して柔らかくなった鼠色の喪服を着ている。姫君が、無邪気に笑ったりすると、ゲンジの君は嬉しくて、自然と笑みがこぼれるのだった。

 ゲンジの君が東の建物に渡ってしまった頃、姫君は立ち上がって、庭の木々、池の方角を覗いてみる。霜に枯れた植え込みが絵に描いたようで、見たこともない四位、五位の貴公子たちが、黒や赤の正装を身にまとって行き交っている。姫君は「本当に素敵な場所」と思った。屏風に描かれた華やかな絵を見て惚れ惚れしているのだから他愛ない。

 ゲンジの君は、二、三日も後宮には行かず、この姫君を懐かせるのに余念がなかった。そのまま手本にするつもりで、習字や絵をたくさん書いて見せるのだった。どれも見事に書いて集める。姫君は「武蔵野は知らない場所でも愚痴がでるきっとそれは紫だから」と墨の具合が絶妙な、紫の紙に書いてある一枚を取り出して見取れている。そこには、小さな文字でゲンジの君の和歌が、

 根っこまで見ずに恋した武蔵野の露もえにしは紫の花

と書いてあるのだった。

 「さあ、あなたも書いてごらん」

とゲンジの君が言う。

 「うまく書けないの」

と見上げる若紫の顔があどけなく可愛くて仕方ないので、ゲンジの君は、微笑みながら、

 「うまく書けないからって、何も書かなかったら上達しないよ。私が教えてあげるから」

と言うと、横を向いて書きはじめる。その手つきがや、筆づかいが危なっかしい。ゲンジの君は「何でこんなに愛おしいのだろう」と自分の気持ちが不思議なのだった。若紫が「書き間違えた」と恥ずかしがって隠したのを、無理矢理奪って見てみると、

 根に持った理由がわからず咲く草はどんなえにしがあるか知りたい

と子供らしく書かれているのだった。それでも筋が良さそうで、将来が楽しみである。ふくよかに書かれた文字は、先だった尼君の文字を彷彿させる。ゲンジの君は「今めいた文字を覚えたら、どんなに良く書くだろうか」と思うのだった。人形遊びをするにも、ゲンジの君は、わざわざ家まで作って並べ、若紫と一緒に遊び、これ以上ない気晴らしになった。

 荒ら屋に残された女官たちは、迎えに来た兵部卿宮の尋問に答える術がなく戸惑った。ゲンジの君が「しばらくは誰にも言うな」と箝口令を出してあり、少納言の乳母もそれに同意しているので、何も言えない。ただ「少納言が連れ出して隠したようで、行方不明です」とだけ答えた。兵部卿宮も諦めたようで、

 「亡くなった尼君も姫を、私に渡したがらなかったからね。乳母風情が余計な心配をしたんだろう。一言、渡すのは困ると言えばいいものを、勝手にどこかに連れて行ったのか」

と渋々帰るのだった。

 「もし見つけたら教えるように」

という兵部卿宮の言葉に女官たちは耳が痛かった。兵部卿宮は僧都の所にも聞いてみたのだが、さっぱり行方がわからなかった。姫君の惜しむべき美貌を思い出し、恋しく悲しかった。北の方も、姫君の母親への恨みさえ忘れて、思い通りに教育しようと思った矢先の肩すかしだったので、残念で仕方ない。

 だんだんと二条院にも女官たちが集まってきた。若紫の遊び相手の女の童は、今をときめく雰囲気に喜び、元気いっぱい遊んでいる。若紫は、ゲンジの君が留守の夕方に、尼君を思い出して泣くこともあったが、兵部卿宮のことは思い出さなかった。はじめから別居していたのだから、今は新しい父親を慕って、本当の兄妹よりも仲良くじゃれついている。ゲンジの君が帰ってくると、真っ先に出迎えて、何でも話した。胸に抱かれても嫌がったり恥ずかしがったりしない。そんな仕草が言葉にならないぐらい可愛いのだった。

 普通、大人の恋は駆け引きである。そのうちに面倒くさくなってきて、恋心に亀裂が走るのが世の常だ。男は自分の心を再確認し、女は嫉妬ばかりする。だから諍いは自然に勃発するのである。これは恋愛ごっこなのだから心配ない。通常、実の娘でも、これぐらいの年齢になれば、父親に心を許して一緒に寝たりしないだろう。だから、こんなに不思議で大切な妹だと、ゲンジの君は思っているらしいのだった。


(原文)
 君は大殿におはしけるに、例の女君、とみにも対面したまはず。ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすが掻きて、「常陸には田をこそつくれ」といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたまへり。

 参りたれば、召し寄せてありさま問ひたまふ。しかじかなど聞こゆれば、口惜しう思して、かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむも、すきずきしかるべし、幼き人を盗み出でたりと、もどき負ひなむ、その前に、しばし人にも口がためて、渡してむ、と思して、

 「暁、かしこにものせむ。車の装束さながら、随身一人二人仰せおきたれ」

とのたまふ。うけたまはりて立ちぬ。君、いかにせまし、聞こえありて、すきがましきやうなるべきこと、人のほどだにものを思ひ知り、女の心かはしける事と、推しはかられぬべくは、世の常なり、父宮の尋ね出でたまへらむも、はしたなうすずろなるべきを、と思し乱るれど、さてはづしてむはいと口惜しかべければ、まだ夜深う出でたまふ。女君、例のしぶしぶに、心もとけずものしたまふ。

 「かしこにいとせちに見るべき事のはべるを、思ひたまへ出でてなん。立ちかへり参り来なむ」

とて、出でたまへば、さぶらふ人々も知らざりけり。わが御方にて、御直衣などは奉る。惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ。

 門うち叩かせたまへば、心も知らぬものの開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、大夫妻戸を鳴らしてしはぶけば、少納言聞き知りて、出で来たり。

 「ここに、おはします」

と言へば、

 「幼き人は御殿籠りてなむ。などか、いと夜深うは出でさせたまへる」

と、もののたよりと思ひて言ふ。

 「宮へ渡らせたまふべかなるを、その前に聞こえおかむとてなむ」

とのたまへば、

 「何ごとにかはべらむ。いかにはかばかしき御答へ聞こえさせたまはむ」

とて、うち笑ひてゐたり。君入りたまへば、いとかたはらいたく、

 「うちとけて、あやしきふる人どものはべるに」

と聞こえさす。

 「まだおどろいたまはじな。いで御目さましきこえむ。かかる朝霧を知らでは寝るものか」

とて入りたまへば、「や」ともえ聞こえず。君は、何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思したり。御髪掻きつくろひなどしたまひて、

 「いざたまへ。宮の御使にて参り来つるぞ」

とのたまふに、あらざりけり、とあきれて、おそろしと思ひたれば、

 「あな心う。まろも同じ人ぞ」

とて、かき抱きて出でたまへば、大夫少納言など、「こはいかに」と聞こゆ。

 「ここには、常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心やすき所にと聞こえしを、心うく渡りたまへるなれば、まして聞こえがたかべければ。人ひとり参られよかし」

とのたまへば、心あわたたしくて、

 「今日はいと便なくなむはべるべき。宮の渡らせたまはんには、いかさまにか聞こえやらん。おのづから、ほど経てさるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さぶらふ人々苦しうはべるべし」

と聞こゆれば、

 「よし、後にも人は参りなむ」

とて、御車寄せさせたまへば、あさましう、いかさまに、と思ひあへり。若君も、あやしと思して泣いたまふ。少納言、とどめきこえむ方なければ、昨夜縫ひし御衣どもひきさげて、みづからもよろしき衣着かへて乗りぬ。

 二条院は近ければ、まだ明うもならぬほどにおはして、西の対に御車寄せて下りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。少納言

 「なほいと夢の心地しはべるを、いかにしはべるべきことにか」

とやすらへば、

 「そは心ななり。御みづから渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送りせむかし」

とのたまふに、わらひて下りぬ。にはかに、あさましう、胸も静かならず。宮の思しのたまはむこと、いかになりはてたまふべき御ありさまにか、とてもかくても、頼もしき人々に後れたまへるがいみじさ、と思ふに、涙のとまらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。

 こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。惟光召して、御帳御屏風など、あたりあたりしたてさせたまふ。御几帳の帷子引き下ろし、御座などただひきつくろふばかりにてあれば、東の対に、御宿直物召しに遣わして、大殿籠りぬ。若君は、いとむくつけく、いかにすることならむ、とふるはれたまへど、さすがに声たててもえ泣きたまはず。

 「少納言がもとに寝む」

とのたまふ声いと若し。

 「いまは、さは大殿籠るまじきぞよ」

と、教へきこえたまへば、いとわびしくて泣き臥したまへり。乳母はうちも臥されず、ものもおぼえず、起きゐたり。

 明けゆくままに見わたせば、殿の造りざま、しつらひざま、さらにもいはず、庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見えて、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなたには女などもさぶらはざりけり。けうとき客人などの参るをりふしの方なりければ、男どもぞ御廉の外にありける。かく人迎へたまへり、と聞く人、「誰ならむ。おぼろけにはあらじ」とささめく。御手水御粥など、こなたにまゐる。日高う寝起きたまひて、

 「人なくてあしかめるを、さるべき人々、タづけてこそは迎へさせたまはめ」

とのたまひて、対に童べ召しに遣わす。「小さきかぎり、ことさらに参れ」とありければ、いとをかしげにて、四人参りたり。君は御衣にまとはれて臥したまへるを、せめて起こして、

 「かう心うくなおはせそ。すずろなる人は、かうはありなむや。女は、心やはらかなるなむよき」

など、今より教へきこえたまふ。御容貌は、さし離れて見しよりも、きよらにて、なつかしううち語らひつつ、をかしき絵遊び物ども取りに遣わして、見せたてまつり、御心につく事どもをしたまふ。やうやう起きゐて見たまふに、鈍色のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつくしきに、我もうち笑まれて見たまふ。

 東の対に渡りたまへるに、たち出でて、庭の木立、池の方などのぞきたまへば、霜枯れの前栽絵にかけるやうにおもしろくて、見も知らぬ四位五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ、げにをかしき所かな、と思す。御屏風どもなど、いとをかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや。

 君は二三日内裏へも参りたまはで、この人をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本にと思すにや、手習絵などさまざまにかきつつ見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげにかき集めたまへり。「武蔵野といへばかこたれぬ」と紫の紙に書いたまへる、墨つきのいとことなるを取りて見ゐたまへり。すこし小さくて、

 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを

とあり。

 「いで君も書いたまへ」

とあれば、

 「まだようは書かず」

とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて、

 「よからねと、むげに書かぬこそわろけれ。教へきこえむかし」

とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへるさまの幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。「書きそこなひつ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、

 かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん

と、いと若けれど、生ひ先見えて、ふくよかに書いたまへり。故尼君のにぞ似たりける。今めかしき手本習はば、いとよう書いたまひてむ、と見たまふ。雛など、わざと屋ども作りつづけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひのまぎらはしなり。

 かのとまりにし人々、宮渡りたまひて尋ねきこえたまひけるに、聞こえやる方なくてぞわびあへりける。「しばし人に知らせじ」と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口がためやりたり。ただ、「行く方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる」とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、

 「故尼君もかしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したりしことなれば、乳母のいとさし過ぐしたる心ばせのあまり、おいらかに、渡さむを便なしなどは言はで、心にまかせて、率てはふらかしつるなめり」

と泣く泣く帰りたまひぬ。

 「もし聞き出でたてまつらば告げよ」

とのたまふもわづらはしく。僧都の御もとにも尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、あたらしかりし御容貌など恋しくかなし、と思す。北の方も、母君を憎しと思ひきこえたまひける心もうせて、わが心にまかせつべう思しけるに違ひぬるは、口惜しうおぼしけり。

 やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童べ児ども、いとめづらかに今めかしき御ありさまどもなれば、思ふことなくて遊びあへり。君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮などばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、宮をばことに思ひ出できこえたまはず。もとより見ならひきこえたまはでならひたまへれば、今はただこの後の親を、いみじう睦びまつはしきこえたまふ。ものよりおはすれば、まづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りゐて、いささかうとく恥づかしとも思ひたらず。さる方に、いみじうらうたきわざなりけり。

 さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこし違ふふしも出で来やと、心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、いとをかしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これは、いとさま変りたるかしづきぐさなり、と思ほいためり。


(註釈)
1 あづま
 ・東琴で和琴のこと。六弦の琴。

2 すが掻く
 ・和琴の演奏法。

3 常陸には田をこそつくれ
 ・常陸には田をこそ作れ、あだ心、や、かぬとや君が、山を越え野を越え、雨夜来ませる 風俗歌 「常陸

4 鈍色
 ・薄い墨色。尼君の喪中のため、鈍色の着物を着る。

5 武蔵野といへばかこたれぬ
 ・知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ 「古今六帖」