松本清張が昭和32年から翌年にかけて雑誌に連載した『点と線』は、空前の推理小説ブームを巻き起こした。ストーリーは、青酸カリで始まって、青酸カリで終わる。
▼小説発表の直前に、東京都内の理髪店の長女が、同じ毒物を家族に飲ませて、心中を偽装する事件が起こっている。やはり都内の薬品問屋の主人が、ドラム缶からビンに詰め替え作業中に誤って死亡する事故もあった。当時の清張作品に、毒物がたびたび登場するのは、化学薬品や農薬の普及とともに、一般市民の近くにあったことを物語っているという(『薬と文学』千葉正昭著)。
▼昨年12月、京都府向日(むこう)市の民家で死亡した当時75歳の男性の遺体からは、青酸カリが検出されていた。京都府警は、同居していた妻(67)を殺人容疑で逮捕に踏み切った。妻の関係先から押収した廃棄物のなかから、微量の青酸化合物が見つかったという。半世紀前と違って、この毒物は厳重に管理されている。一般人が購入するのは極めて困難だ。入手ルートの解明が鍵を握る。
▼被害者と約1年前に結婚相談所で知り合ったという妻には、他にも多くの疑惑がある。昭和45年から4度結婚し、いずれも死別した。さらに一時内縁関係にあった男性2人も死亡している。
▼そのうちの1人からも、青酸化合物が検出された。それぞれの男性から、遺産を相続してきたこともわかっている。もっとも妻は、これまでメディアの取材に対して、潔白を訴えてきた。
▼『点と線』では、2人の刑事が粘り強い捜査で、有名な「4分間の見通し」をはじめ、犯人の完璧に見えたトリックを打ち破り、心中偽装事件の真相にたどり着く。京都府警が挑む事件の謎は、それよりはるかに深く、不気味である。