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Levinas, Emmanuel

エマニュエル・レヴィナス

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last update: 20191114


■著書

◆1947,1981 De l'existence a l'existant
 J.Vrin.
 =1987 西谷修訳,『実存から実存者へ』,朝日出版社
◆1948,1983 Le temps et l'autre
 Quadrige/P.U.F.
 =1986 原田佳彦訳,『時間と他者』,法政大学出版局
◆Levinas, Emmanuel 1961 Totalite et Infini: Essai sur l'exteriorite, The Hague: Martinus Nijhoff, 284p. =198903 合田 正人 訳 『全体性と無限――外部性についての試論』(ポリロゴス叢書),国文社,544p. ISBN-10: 4772001018 ISBN-13: 978-4772001014 5040 〔amazon〕 ※ 0e/1
*◆1963 Difficile liberte, essais sur le judaisme
 Albin Michel.
 =1985 内田樹訳,『困難な自由』,国文社(抄訳)
◆Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199007 合田 正人 訳  『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』,朝日出版社,480p. ISBN-10: 4255900310 ISBN-13: 978-4255900315 〔amazon〕 ※ 0e/1
◆Levinas, Emmanuel 1974 Autrement quetre ou au-dela de l/essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199907 合田 正人 訳 『存在の彼方へ』,講談社学術文庫,477p. ISBN-10: 4061593838 ISBN-13: 978-4061593831 1470 〔amazon〕 ※ 0e/1
*◆1976 Nom propre
 Fata Morgan 
 =19940216 合田正人訳,『固有名』,みすず書房,207+3p. 2781 ※
◆19820000 「哲学者と死──エマニュエル・レヴィナスとの対話」
 Chabanis[1982=1986:237-252]
*◆1987 Hors sujet
 Fata Morgan 
 =19970220 合田正人訳,『外の主体』,みすず書房,263p. 3605 ※
◆Levinas, Emmanuel 1991 Entre nous : essais sur le penser-・l'autr,B. Grasset,268p. =19931220 合田 正人・谷口 博史 訳  『われわれのあいだで――「他者に向けて思考すること」をめぐる試論』(叢書・ウニベルシタス),法政大学出版局,365p. ISBN-10: 4588004158 ISBN-13: 978-4588004155 4200 〔amazon〕 ※ 0e/1
◆Levinas, Emmanuel 1995 Alterite et Transcendance, Montpellier: Fata Morgana, 183p. =200105 合田 正人・松丸 和弘 訳  『他性と超越』(叢書・ウニベルシタス),法政大学出版局,194p. ISBN-10: 4588007114 ISBN-13: 978-4588007118 2415 〔amazon〕 ※ 0e/1


■関連文献

*◆合田 正人 1988 『レヴィナスの思想──希望の揺籃』
 弘文堂
*◆岩田 靖雄 1990 『神の痕跡──ハイデガーとレヴィナス』
 岩波書店
*◆岩田 靖雄 19940426 『倫理の復権──ロールズ・ソクラテス・レヴィナス』
 岩波書店,294p. 5500 三鷹150
*◆熊野 純彦 19990624 『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』,岩波書店,291p. ISBN-10: 4000025228 ISBN-13: 978-4000025225 3200+ [amazon][kinokuniya]
 岩波書店,291+12p. 3200 ※
*◆小泉 義之 20030325 『レヴィナス──何のために生きるのか』,日本放送出版協会,109p. \1000 ※


■『存在の彼方へ』(1974年)

 「責任の存在内への参入に関しては、私たちはまったく選択権を有していない。このように選択の余地を与えないこと、それを暴力とみなすことができるのは、不当な、<0127< あるいはまた性急で不躾な反省のみである。なぜなら、ここに言う選択の余地なしは自由、非自由の対連関に先だっているからだ。」(訳書pp.270-271、『病いの哲学』ではpp.127-128)


■言及

◆Beck, Ulrich ; Giddens, Anthony ; Lash, Scott, 1994, Reflexive Modernization, Polity(=19970725, 松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.
(pp373-374)
 ギデンズの「能動的信頼」という考え方については、前述してきた。単純的モダニティでは、人びとは、信頼を、抽象的システムにたいして、また「専門能力という想定に純粋にもとづいた」専門知識にたいして投入してきた。知識人たちは、たんにこうした脈絡のなかで専門知識を大量生産していくだけでなく、ベックのいう正統化の機能においてそうであるように「信頼を大量生産して」もいるのである。後期近代においては―後期近代の制度的再帰性は「専門家の理論や概念、知見が一般の人びとにたいしてフィルター・バックしていくこと」を必然的にともなうが―専門知識に一般の人びとが異議を唱え、したがって、信頼は「能動的なもの」になる。つまり、「選択の余地があることを考慮に入れての信頼の投入」がおこなわれていくのである。
 この種の能動的信頼が感情の私的領域にとって不可欠になっていた場合、いくつかの問題が生ずる。したがって、問題は、能動的信頼というギデンズの概念を特徴づける媒介性と契約性そのもののなかにある。親密な関係性は、確かに異なる種類の能動的信頼にもとづいているように一見思える。しかし、自分自身の利害関心をともなう自立した当事者間でのこうした暗黙の契約という想定は、親密な関係性をもたらしていかないように私には思える。互いに自立した利害関心をいだく個々人の間の関係性としての能動的信頼はまた、法廷のそれと違わないある種の手続き主義を想定しているようにも思える。親密な関係性は、願わくば、規則に拘束されたものでもない、手続き的なものでもない信頼にもとづくものであると考えたい。親密な関係性は、むしろ、最も直接的な投入にもとづいている。親密な関係性は、シュッツが生活世界の記述のなかで「配慮(ゾルゲ)」と名づけるものに、レヴィナスが、またレヴィナスをとおしてバウマンが《共同存在(ミットザイン)》として理解しようとしたものにもとづいている。能動的信頼は、濃密な意味のやり取りからなるこうした相対的に独立した世界にたいする前提条件の、つまり、前判断の絶え間のない創出を、おそらく必然的にともなっている。能動的信頼とは、集合的ハビトゥスの共同創出であり、分類愛好家たちによる、その人たちの意味のやり取りが基盤を置く無思考なカテゴリーの創出である。選択や自立した利害関心、専門知識という言い方は、親密な関係性が意味するものよりも、むしろ新古典派経済学の世界のほうに近いように思える。


◆Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=2002, 鈴木智之訳『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』ゆみる出版).
(pp33-34)
 もうひとつの脱近代的な自己の形態―それを脱近代社会に固有のものとは言いがたいのだが―は、バウマンの要約するエマニュエル・レヴィナスの道徳哲学の中に描きだされている。すなわちそれは「他者のために存在する私、他者への責任を身につけた私(*3)」である(26)。しかし、善きサマリア人の寓話がその端的な事例を示しているように、他者に対する責任によって自己を規定するということは多くの宗教の中核をなす倫理的要求であり、そうであるとすれば、この理念をバウマンとレヴィナスが再生するところにどんな新しい要素があるというのだろうか。これに対してありうるひとつの答えは次のようになるだろう。すなわち、現実の行動が理想にたどりつけない限り、その理想はそれぞれの時代の言葉で繰り返し確認されざるをえないのである、と。
 しかし、レヴィナスはサマリア人の理想の伝統的な解釈とは別のことを言おうとしているのだと考える方が、答えとしてはより説得的である。レヴィナスの描くところによれば、他者のために生きるということは、模範的な善の行為ではない。人々は、自らの生が人間としてそのような生き方を求めてしまうがゆえに他者のために生きるのである。自己は他者に対する関係の中で人間的なものとなるのだと理解される。自己は他者のために生きることによってのみ人間的であり続けることができるのである。バウマンはその著作を、他の人のために死ぬことの倫理に関する議論で締めくくっている。他者のために自らを犠牲にせんとする自己ほど、責任を「追って通知があるまで」のものとする感覚から遠く離れたものはないのである、と。
 とはいえ、現時点での私たちの目的からみれば―レヴィナスについては九章で再び触れることとして―、バウマンとレヴィナスの議論の重要性は、世俗的な近代の文化の中では他者のために生きるという理想が見失われており、それを再定義することがまさに新たな出来事となっているという点にある。バウマンは、特定の他者―集合的他者に対置されるものとしての―に対する責任の感覚が、近代においてはいかに偶発的で厄介なものであったのかを示している。なぜ近代医学は責任の概念を今あるものへと限定してきたのか、そしていかに社会学がその限定を正当化してきたのかを、彼の著作を出発点として理解することができる。
(p216)
 アーサー・クラインマンは、いくつもの障害に苦しみ、重い病いを負った一人の患者に、「私が必要としている力を与えてくれませんか」と問われた時のことを書いている(27)。この問いかけは、医学的情報や治療を求めてなされたものではない。クラインマンは、レヴィナスの言う他者のために存在する(being for-another)という道徳的関係へと自らが呼びかけられたのを聴いているのである。彼がこの問いに対してどのように答えるとしても、それは彼の医学的専門性にはごくわずかな関連性しか持たない。この女性は、クラインマンに、一人の人間としての彼が、一人の人間としての彼女のために存在しうるのかと訊ねている。彼の応答の倫理は、ヘルスケアにおける葛藤―臨床倫理の典型的な状況―にかかわるのではなく、より深い道徳的な関与を引き受けるか否かにかかわっている(28)。語りの倫理は、病気であれ健康であれ、一般人であれ専門職者であれ、病いがそこへ向けて呼びかけている道徳的関与へと人々を導くのである。
(pp241-249)
 苦しみが他者に対して開かれたものとなる時、[身体―自己の]再生(remaking)が始まる。エマニュエル・レヴィナスは、私が個々に閉ざされた自己の囲い込みと呼んだ苦しみについて、きわめて沈鬱な見方を示している。痛みは、「それ自体を意識のうちに孤立させ、あるいは意識の他の部分を吸い取ってしまう」ので、苦しみは文字通り行き止まり(デッドエンド)となる。「無用で、『何のためにもならない』……こうした根本的な無意味さの感覚」にとらわれることになるのである(13)。しかし、まさにこの深みにこそ、新たな鼓動の前提条件がある。レヴィナスは、その再生を次のように描く。
 「苦しみのもたらす悪―一方的に受身の状態、無力、自己放棄、孤立―とは、同時にまた一人では担いきれぬものであり、半ば開かれたものとなる可能性を生むものではないだろうか。より正確に言えば、嘆き声や叫び声、うめき声やため息が発せられるところではどこでも、手助けと治療者の援助と、その他者性と外在性が救済を約束するような他の自我からの支援を求める、原初的な呼びかけが存在することが可能となるのではないだろうか。人と人との間で、本質的には無意味で出口なしを宿命づけられている純粋な苦しみの超越が生まれるのである。」
 レヴィナスが人と人との間と呼ぶ方向性は、まさに、名前のない苦しみの世紀の終わり」という歴史的契機において可能となる―あるいは、私が第一章において示したように、再びそれが新しいものとなるのである。レヴィナスは数え上げる。「二つの世界大戦、両翼の全体主義的体制、ヒットラーイズムとスターリニズム、ヒロシマ、グラーグ(*1)、アウシュヴィッツとカンボジアにおける大量虐殺」。そして彼がそれを書いた後にも、リストは増え続けている。意識が、「正当化しがたい」苦しみによって圧倒されてしまうような歴史的契機において、苦しみの感覚は分裂するのである。
 そのひとつの側面は、上述の引用においてレヴィナスが呼んだ「担いきれぬもの」としての苦しみである。私はこれを、個人が自分自身のものとして引き受けることのできない苦しみを指すものと取る。個人は、自分自身の苦しみに何ひとつ意味を与えることができず、他のいかなる人物もその個人にかわってこの苦しみを引き受けることができない。この「他者のうちなる苦しみ(suffering in the Other)」は、ただ「見過ごしがたいもの」として目撃されるだけなのである。この苦しみは「私を請い求め、私に呼びかけ」、私のうちに「苦しみのための苦しみ」を呼び起こそうとする。ここに、苦しみの第二の領域が始まる。それは、「他者の正当化されえぬ苦しみのための、私の中の正当な苦しみ」である。この正当な苦しみは意味を担うことができる。その意味は、「他者に対する注意(attention to the Other)」、レヴィナスが言うところの、「至高の倫理的原理にまで高められた人間的主観の紐帯そのもの」である。
 こうして、道徳的な闇の奥底から、新たな光―仮に古い倫理が放つ新たな光であるとしても―が発せられ始める。苦しみは、他者に対して「半ば開かれたもの(half opening)となる可能性」である。私がレヴィナスを読む限りにおいて、この開かれていくということは、名前のない苦しみに意味を与えるものではない。しかしながら、苦しみもまた無用のものにとどまるわけではない。意味と正当な苦しみは、証人によって経験される。もともとの「担いきれぬ」苦しみは、証人たちをこうした倫理的感覚へと呼び寄せる上で有用なものとなる。ただしレヴィナスは、それによって苦しみが軽減されると信じるには、あまりにも冷徹な認識の持ち主なのである。
 レヴィナスの議論は、混沌の語りと探求の語りの間の強い結びつきを示唆する。混沌の語りは、担いきれぬもの、名前のない苦しみである。混沌の苦しみは、混沌の物語が語りえぬもの、反―語り、非―自己―物語であるがゆえに「無用のもの」である。探求の語りは、正当な苦しみである。レヴィナスはそれを、「私自身の苦しみの冒険」と呼んでいる。しかし、冒険あるいは旅は、当然のことながら私一人のものではない。旅は英雄自身のものとして始まる。しかし、英雄が旅を通して学ぶのは、自分が他者のために苦しむということである。その恩恵として与えられるのは、人と人との間に立つ視点(vision of the inter-human)である。帰還した英雄は、この「至高の倫理的原理」を体現する。仏陀とキリストはともに帰還する。そして、それぞれの帰還は、世界に対するその愛の尺度となるのである。
 多くの英雄たちは、レヴィナスに対して呼びかけたと思われるような他者の苦しみの認知によってではなく、自分自身の苦しみによって探求へと駆り立てられていく。旅は、自分自身の苦しみが他者の苦しみに触れ、かつ他者の苦しみによって触れられていることを学ぶ過程である。「人と人との間」は、苦しみが自己と他者とにかかわる呼びかけと応答になる時、開かれたものとなる。
 私がこの本を書いていく中で思い悩んだことのひとつは、病いとは別種の苦しみ、とりわけホロコーストの苦しみをここに含めて論じてよいものかどうかにあった。そうした病いとは別の苦しみを論じるためには、共通性あるいは比較可能性がなければならない。痛みの水準、無力さや自己放棄の水準、あるいはレヴィナスのふれている叫び声やうめき声やため息の水準では、比べものになりようがない。病いとレヴィナスのあげている名前のない苦しみの間で、さらにはさまざまな病い相互の間で、比較を行うのは無理である。
 苦しみは、どんな人の苦しみも他の人の苦しみに比較しがたいがゆえに無用のものとなる。それが、今ある以上の何ものでもないがために、苦しみは意味を持たないのである。他のものと同列に置くことのできない苦しみを比較することは決してできない。しかしここで、議論は自ずから反転を起こす。ひとたび苦しみとは比較しえないものであることが理解されたならば、その時こそ、さまざまな苦しみを同一の物語の中で語ることができるようになる。なぜなら、そこには比較が成立しないからである。比較可能性を超えて、苦しみの「実存的普遍性」が、さまざまな形の語りがなされることを要求する。比較が成立しないところには、換喩的な負荷が生じる。それぞれの苦しみは、より大きな全体の一部分である。それぞれの苦しんでいる個人は、他者の苦しみに対する証人として、その全体に向けて呼び寄せられるのである。
 同時に私が認識しているのは、病いと名前のない苦しみとを同一の著作の中で論じることへのためらいの幾分かは、私自身の身体化されたパラノイアの一側面なのだという点にある。私は、病いとは常にケアされるもの、少なくともケアされるべきものであり、したがって苦痛を与えるために人が意図的にもたらした苦しみとは比較することができないと考えている。しかし、すべての苦しみにおいて、身体―自己は解体させられる。苦しみが、それ自らを意識のうちに孤立させ、意識の他の部分を吸い取ってしまう痛みであるとすれば、病院の中で生じる苦しみと収容所の中で生じる苦しみとの間に本質的な違いがあるわけではない。違いは、その叫びに耳を傾ける者がある苦しみと、それ自体の無用の状態に放置される苦しみとの間にある。ここでも議論は、もともとの論点へと立ち返ることになる。確かに、さまざまな苦しみの中で見れば、病いにはしばしばそれに応えてくれる者があり、収容所からあがる叫びは封じ込められてしまうことだろう。
 レヴィナスの最も重要な教えは、苦しみが語り、その苦しみによって「他者」とされてしまったすべての者に対して、おそらくは証人になるという行為によって、名前のない苦しみを開かれたものとすることができるという点にある。苦しむ者は常に他者であり、衰弱し、孤立している。何であれ苦しみの物語を語るということは、人と人との間に対して、何らかの関係を持つことを要求する。すべての証言は、名前のない苦しみの半ば開かれた状態への応答である。
 私が評価したいと思うのは、レヴィナスがこの開かれてあるという状態を「半ば開かれた」ものと性格づけるにとどめていることである。苦しみの中に意味を見いだしていく探求の作業を担いうるのはその人一人だけである。この探求を他者に命ずるのは傲慢である。レヴィナスは、苦しみとはいつも無用であり、名前を持たぬものであり、触れられることのないものであることを、私たちが心にとどめることを要求する。無用ではあるけれども、それが他者へと呼びかけることによって無用なものではなくなっていく。悲惨なのは、そうした苦しみが、その呼びかけに応える声を聴くことができない場合である。混沌の物語は、たとえそれに向けて探求の物語―その苦しみを引き受けるための言葉を見いだした苦しみ―が呼びかけていくとしても、自らを囲い込み、個々に閉ざされたものであり続ける。
 病いの物語に対する呼びかけは、私が第三章において描きだしたあり方にとどまるものではない。そこで私は、何が生じているのかを人々に語らねばならないという実践的な課題と、新しい海図や目的地を見つけだすという実存的な課題について述べたのであった。レヴィナスは、私たちが呼びかけの第三の水準に耳を傾けることを要求する。それは、人と人との間に対して開かれていくことである。今まさに苦しんでいる他者は、言葉を発しながらも、自分自身の声を聴くことができない。自分自身の言葉を聴き取ることができるためには、すでに無用の苦しみの中に何らかの意味が見いだされていなければならないからである。しかし、それ自らを聴き取ることのできないこの言葉は、助けを求める呼びかけであり続ける。声なきものに声が与えられているのである。
 これも私が先に示したように、探求の物語の生みの親はニーチェであった。ニーチェは、自らの痛みに名をつけることによって使い道を与え、それを自分自身と他者に対して開かれたものにしたのである。私はここで、ニーチェよりもはるか以前の生みの親をつけ加えることにしよう。それは、聖書に書かれた族長ヤコブである。ヤコブは天使と闘い、腿に傷を負い、祝福のもたらされるまで忍耐を続けた(『創世記』32:24-30)。ヤコブの物語の中には、苦しみをその無用の状態から連れだそうとする病いの物語の諸要素が詰め込まれている。
 まず第一に、自己は身体を役立たせること(uses of the body)を通じて形作られる。ヤコブは、その体のすべてを使って闘い、その体に傷を負う。彼は足を引きずりながら舞台を去る。それは聖なるものに出会った彼の聖痕(スティグマ)である。また彼には新しい名、イスラエルが与えられる。それはこの出会いのもたらす恩恵である。その恩恵は、傷を代償として与えられる。かくして自己は身体を通して見いだされる。すなわちそれは身体―自己である。
 第二に、身体―自己はまた神に対して開かれた(spiritual)存在でもある。ヤコブの物語は、物語の読者にとっては神としか呼びようのないものへの、複雑な抵抗の物語である。神はヤコブがそれと闘わねばならない謎である、謎は物語の最後まで名づけられることがない。ヤコブが、そもそも誰と闘っているのか、彼を襲っているものが誰なのかを知っていたかどうかは定かではない(14)。後に神と知られるものに対するヤコブの衝動は、興味深いことに抵抗として表現されている。ヤコブは聖なるものに抗うのである。何に対して抗っているのかは、曖昧なままに推移する。ヤコブは天使のもたらす祝福と闘っているのだろうか。それとも、天使が祝福を求めるヤコブの祈りと闘っているのだろうか。はたまたヤコブは傷を負うために闘っているのだろうか。それというのも、その傷こそが、兄のものであった祝福を奪い取って以来彼が抵抗し続けてきた生命の神的(スピリッチュアル)な側面へと、ついに彼を開いていくことになるからである。
 第三に、傷を負い神に対して開かれた身体―自己は、内在性(immanence)の契機のうちに存在している。人間は、たとえ神とともにあるということが抵抗と抗争と負傷の過程であったとしても、孤独なものではない。身をもっての抵抗の中で、またそれによる負傷を通じて、ヤコブは自らが聖なる土地にあったことを発見する。そこを立ち去る時に、彼は「その場所をペニエル(Peniel)と名づけた」。それは、「神の顔」と言い換えることができる。神の顔は、彼がそこに眠りを求めて行った時点では、はっきりとした姿を現わさない。それはひどく混乱し、彼の生涯においてはしばしばそうであったように、とらえがたいものであった。その土地の神聖性は、その地を聖別化する闘いの中で作りだされるのである。
 苦しみに関するエッセイの後段において、レヴィナスは護神論の問題を取り上げている。正当にして万能なる神がいかにしてこのような苦しみを許しうるのか、という問題である。レヴィナスはこう答える。「アウシュヴィッツには不在であった神を、アウシュヴィッツ以後拒絶してしまうとすれば、それは結局のところ国家社会主義の犯罪的な企てを完成させてしまうことになる。その企ては、イスラエルの消滅と、ユダヤ教が担っている聖書の倫理的メッセージの忘却をもくろんだものであった(15)」。ペニエルという場所において、ヤコブは神は不在であると考えることもできたであろう。しかしヤコブは、傷を負うことによって神が存在することを学ぶ。ペニエルにおいて、ヤコブはイスラエルと名づけられるのである。
 最後に、神に対して開かれた身体―自己は、継続的な責任を担うものである。ヤコブはペニエルを離れ、イスラエルとなる。脱近代的なるヤコブは、聖別化を循環的な進行過程として描きだす。抵抗は決して完全になしとげられてしまうことはない。自己は、自らの立つ土地を聖なるものとして再発見するために、闘い続け、傷を負い続けなければならない。生きることは神と闘うことなのである。
 病いの物語は、生じてしまったものごとを、継続的な責任として受容する。オリヴァー・サックスの、変容することへの要求は、常に変わり続ける過程にコミットすることである。オードリー・ロードは現代の菩薩である。彼女は、言葉をなくしたすべての人々が話すことができるようになるまで書き続けると誓っている。サックスとロードの探求の物語は、彼ら自身の混沌の経験に対する応答である。探求の語りは、混沌の語りを離れて成立するものではなく、その混沌に対する証言を担うものである。同様に、回復の語りもまた責任なしには成立しない。助けを求めて、名前のない苦しみの中から発せられる呼び声を、レヴィナスは「助けをもたらしうるものへの最初の通路(オープニング)」として聴き取った。「そこには、始原的かつ要素的な、倫理的にして人間学的な医療のカテゴリーが生まれる(16)」。治療(キュア)こそが生きることであり、生きることは根源的な探求なのである。
 傷ついた物語の語り手が病いから帰還する際には、ゲイルが言うように病む人々だけが「健康とは何かを知る」のではなくなるよう、他の人々にそれを教えるという責任が伴っている(17)。サックスも、ロードも、ゲイルも抵抗なく自らの物語を受け入れるわけではない。しかし、彼らの抵抗は変容していく。まずはじめに、呼びかけに対する抵抗が生まれる。自らの身体に課せられた疾患やトラウマ、あるいは慢性的な痛みへの抵抗である。次いで、彼らの物語が進展し、その物語を彼らがたどっていくと、抵抗は、苦しみが彼らの身体―自己に課している沈黙に対するものとなる。そして最後に、抵抗は声を見いだす。彼らは苦しみを有用なものにする。抵抗によって傷つきながら、彼らは力を獲得する。語る力、さらには癒す力を。
 レヴィナスのそれを補完するような声を発しているのは、寛解者の社会の一員であり、同時に医者でもあるレイチェル・ナオミ・リーメンである。リーメンは、傷ついた癒し手の姿を描きだす。「私の傷があなたの中の癒し手を呼び覚ます。あなたの傷が私の中の癒し手を呼び覚ます。私の傷は、私が傷を負ったあなたを見いだすことを可能にする。あなたが、その傷をとりかえしのつかぬものと思い誤っているとしても(18)」。傷は物語の源泉であり、内と外の双方に開かれている。内に開かれるのは他者の苦しみの物語を聴き取るためにであり、外に開かれるのは自らの物語を語るためにである。聴くことと語ることは、癒しのそれぞれの局面である。癒し手と物語の語り手はひとつのものである。癒しによって、身体が治癒されることはないかもしれない。しかしそれは、キャッセルがまさに苦しみと見なした、身体―自己の無傷の状態の喪失を治癒してくれる。苦しむ者は、他者のものであり同時に自らのものでもある物語を聴くことによって、また自らの物語を単に聴かせるだけでなく、それが実際にそうであるように、聴き手自身の物語でもあるかのごとくに聴いてもらうことによって、健やかなものとなる。とりかえしがつかないという思い誤りは乗り越えられる。
(pp287-288)
(13)Emmanuel Levinas, "Useless Suffering," trans. Richard A. Cohen, The Provocation of Levinas: Rethinking the Other, ed. Robert Bernsconi and David Wood (London: Routledge: 1988), 158.[エマニュエル・レヴィナス,合田正人・谷口博史訳「無用の苦しみ」,『われわれのあいだで』,法政大学出版局,1993年]
(略)
(15)Levinas, "Useless Suffering," 163.
(16)「医療のカテゴリー」は「援助に対する、治療的援助に対する根源的呼びかけ」に関する長い引用をする中でLevinasによっても展開されている。その呼びかけは、「その他者性、外在性が救済を約束する他の自我」に向けられている。そこでLevinasは、少なくとも抽象的な原理において、William Oslerが1932年に発した、しばしば繰り返される、若い医師たちへの助言、すなわち「何事にも動じない態度」を貫くことを、支持している。(Richard L. Landau, "... And the Least of These is Empathy," in Spiro et al., Empathy and the Practice of Medicine, 103-9 [前言、原注3参照]において引用され、議論されている)。実践の問題は、現代医療が、Levinasが他者のために存在することの前提としている倫理的文脈を保ち続けているかどうかにある。一人の人間、おそらくは一人の医師の外在性が苦しむ者にとって救済の約束となっている時、その人間は同時に自らを、その苦しむ者のために存在する者として規定しなければならないはずである。それは、先に述べた(第七章「苦しみの教え」)奉仕者としての医師の態度である。「何事にも動じない態度」は奉仕者の心得であるかもしれないが、同時に、我慢のならない主人の傲慢でもあるだろう。


◆上野俊哉, 19961010, 《人工自然論――サイボーグ政治学に向けて》勁草書房.
(pp386-388)
 現にハイデッガーはしばしば「存在する」ことを、家を建て、住まうことになぞらえていたし、ある時期のフッサールもまた「動くことのない大地」を身体よりも(前)明証的な思惟の根拠に置いていた。ごく端的に言って、現象学──そして多くの哲学──の目標は、非移動性、不動性にあった。やたらな移動や運動を避け、確個たる根拠をもつこと、それは多くの哲学の目標でもあった。ただし、わたしはそのことだけでこの思想の流れを否定しようとは必ずしも思わない。実際、後続の多くの思想や哲学が、現象学におけるこの大地志向を批判した。同時に、そこにはハイデッガーのナチ・コミットという、にわかには無視しえないファクターが大きくはたらいていたことは疑いえない。
 しかしそうだとしても、「定住」を求める哲学に対して「流浪」や「漂流」をスローガンとする"新しい哲学"を対置することはいささか安易にすぎる(レヴィナスやドゥルーズ&ガタリが"ステロタイプ的に"援用される場合を考えよ)。むしろ逆に、われわれは「定住」と「領有」をモデルにしてきた思考のなかに「移動」の痕跡を見いだすべきではないのか。
 今日、いわゆるコミュニケーション論や哲学的な他者論の多くは、一様にある転回を余儀なくされている。たとえば、ディスコミュニケーション状況を通常の伝達より論理的に先行させて考える、あるいはルールを共有しない存在を本来の「他者」と考える、といった視点の変更がそうである。これと同じような前提をはらんだ態度変更は、政治や社会理論の文脈においても生じている。それは次のような言い方に集約しうる。「今日では、単なる移動ではなく速度が問題である」、「われわれの世界は空間政治から時間政治へと向かっている」、「時間戦争においては、領土の獲得ではなくて、同時性の制御が決めてになる」……。この「地政学(ゲオポリティクス)から時政学(クロノポリティクス)へ」とも要約される視点の変更は、P・ヴィリリオの一連の業績を通してわれわれの間に一般化してきたものである。


◆立岩真也, 199709, 『私的所有論』勁草書房.
(p24?)
 (*13)例えば、ハイデッガーはそんな人ではないとか、レヴィナスはそんなことを言っていないということになるだろう。まず言ってしまってから、もし必要なら読んで考えてみてもよいだろうと思う。「他者」を持ち出すのは流行なのかもしれないが、少なくとも幾人かの論者において、必然として各々の作業が開始されており、そこでは、正当にも先駆者達の業績が引かれ、検討されていることを付記しておく。例えば加藤秀一は「属性以上の何か」である「個」「私」(加藤[1991a])と述べ、市野川容孝は「代替可能性」の不可能による絶対的<差異>によって結ばれる<共存在>(市野川[1991c])と言う。そこで、市野川[1990a][1991c]はハイデッガー、レヴィナスに言及し、加藤[1990a]はレヴィナスに、加藤[1991a]は永井均(永井[1986][1991]等)他に言及している。また所有(と身体)についての考察としてMarcel[1935=1976]があり、鷲田清一[1993]、木岡伸夫[1994:200-202]に言及がある。私はと言えば、記したようなわけで怠けてしまったのだが、同時に、厳密であるだろう思考が、歴史や社会という場に投映されると、時にごく単純な図式の中に収まってしまうのではないかと思わないでもなかったことも、あえて今の時点で「哲学」を「勉強」しようと思わなかったことに関係がなくはない。


◆立岩真也, 19991025, 「他者がいることについての本」『デジタル月刊百科』1999-11(日立デジタル平凡社)
 どうしてもここでは「他者」が主題なのだ。また、先に「名前」という語もあった。エマニュエル・レヴィナス(1905〜1995年)という哲学者を想起する人がいるだろう。熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波書店、1999年)が、主要な著作は翻訳されているものの、そう簡単に読み進むことのできないレヴィナスの著作を丁寧に読んで行く。レヴィナスは、「臨床哲学試論」――「<聴く>こととしての臨床哲学」(p.268)――という副題をもつ鷲田清一『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ、1999年)でも引かれる(第5章「苦痛の苦痛」)。
 (レヴィナスによれば)「他者の苦痛に対する苦痛、他者の悲惨さとその切迫を感じないでいることができないということ……が<傷つきやすさ>の意味である。なるほどわたしは後になって他者のこの傷から眼を背けること、見て見ぬふりをすることもあるかもしれないが、そういう選択以前に、わたしはその傷にふれ、その傷に感応している」(p.153)
 なるほど、私がそのような存在である、そのような存在であるしかないのだとすれば、他者の承認は――承認という言葉が適切であるかは別として――なされてしまう、なされる他はないことになる。私は他者に私の承認を要求できないとしても、私は他者を承認してしまう。ならば最初のイグナティエフ――彼は『民族はなぜ殺しあうのか』(河出書房新社、1996年、原題はBlood and Belonging)の著者でもある――の問いは解消されたのか。そういう問いは、レヴィナス――彼は近親者のほとんどをナチスによって殺されたユダヤ人である――という人の著作に添って、ずっと考えながら文章を書き進めていく熊野の著作の中の方に現われる。彼は、『レヴィナス』第1部「所有することのかなたへ」の第4章「裸形の他者」で次のように書いていく。
 「他であり、私との絶対的な差異である他者を殺すことは不可能なのだ。……他者を<他者>として抹消することは、なにより<論理的>に不可能なのである。
 にもかかわらず、他者の殺害という行為は、この地上で際限もなく反復されている。……」(p110〜p.111)
 そのように考えていくこと、しかもつまらない悲観的現状追認主義に陥らずに考えていくこと、書いていくこと。「軋みを見つめようとする思考」(p.vi)


◆森岡正博, 20011110, 《生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想》勁草書房.
(pp357-358)
 このように考えてみると、優生思想のもうひとつの本質があきらかになる。すなわち、優生思想とは、田中美津が言うところの「とり乱し―出会い」の可能性を、われわれから奪っていく思想なのである。「自分が会いたくないような人間に出会ったり、自分が経験したくないような出来事がおきたりして、そのことによって私はおろおろととり乱すのだが、まさにその私の〈ゆらぎ〉によって思いがけない他人とつながってゆくことができ、自分自身も劇的に変容できる」という可能性を、優生思想は根こそぎ奪い去っていくのである。
 「自分が会いたくないような人間に出会う」ことや、「自分が経験したくないような出来事がおきる」ことは、レヴィナスが言うところの〈他者の到来〉を意味している。〈他者の到来〉とは、まったく思いもかけないものごとが、思いもかけないような形で、私に何かの返答を迫るような勢いで、私を襲ってくることである。〈他者の到来〉を受け止めるときの実存感覚が、第2章で私が述べた他者論的リアリティであり、〈揺らぐ私〉のリアリティである。すなわち、他者がやってきて、私を襲い、いままで確かなものだと思っていた様々なものごとを、揺るがせ、私をはげしい動揺に追いやっていく。そして私は謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ、おろおろし、それをきっかけとしてみずからの生命観や人生観や価値観を変容させていく。このような〈揺らぐ私〉のリアリティを出発点として、私は、思いもよらなかった何者かと出会っていくことができる。優生思想は、この意味での〈他者の到来〉の可能性を、予防的に排除してしまうのだ。それが排除されるとき、われわれの人生を豊かにする「奥の深い自由」もまた失われてゆく。そしてわれわれは、見せかけの自由と繁栄のなかで、生きる意味を徐々に見失ってゆくのである(81)。これが、優生思想の最大の問題点である。生命倫理への生命学的アプローチは、まさにこの点をしぶとく掘り下げていくのだ。私が本書で一貫して迫ってきたもの、それがこの問題にほかならない。
 この意味での優生思想は、克服されなければならないと私は思う。


◆天田城介, 2003, 『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
(pp479-480)
 ギデンズ理論の基軸概念であるこの「再帰性」とは、空間を越えた瞬時に波及する新たな情報によって、社会の営みが絶えず吟味・改善され、結果としてその営み自体の特性が本質的に変化してゆく過程や機制を指示しており、それは自己と社会の不断の改編・再編を駆動する原理であるのだが、この場合、《参照先》と《宛先》が〈社会〉という全体性/全域性を指定しており、かつ何の情報が他の情報よりも選択に値するものなのかが《先取り》されてなければならないのだ。つまり、「未来から見た現在という視線」、メタ的な視点が《先取り》されてはじめて再帰性は近代の駆動原理となるのだ。彼にとってそのメタ的視点の《先取り》を担保するのは〈倫理〉や〈価値〉への自発的コミットメントを介して想定可能となる〈連帯〉である(Giddens 1998=1999:72) (26)。ここで決定的に重要な点は、歴史的な社会変動を背景とした「時代文脈の大規模な変化」に応じて、「未来から見た現在」という視線を《先取り》することが可能な〈主体〉こそギデンズにとっての「異論をはさむ余地のない象徴的価値」(柄本 2001:57)であり、それは彼の理論の基軸概念である「再帰性」が暗示的に含み指す人間像なのである(天田 2002a:88-90)(27)。
 鷲田の「他者との関係はけっして融合(fusion)の関係ではないのであって、自己と他者との不平等は「われわれを数として数える第三者に対しては現われることのない不平等」である。自他を俯瞰するような第三の視点―レヴィナスはこれを「全体性」の視点とみる―によって可能になる自他のむすびつきは、断じて他者との関係ではない」(鷲田 1999:155)という指摘からギデンズの「再帰性」を解読すれば、ギデンズ流の「再帰性」とは、「自他を俯瞰するような第三の視点」=「全体性の視点」から生成・練成された情報による自己と社会の不断の同時相即的な改編・再編の可能性の主張なのである。


◆Bauman, Zygmunt ; Vecchi, Benedett, 2004, IDENTITY, Polity Press(=2007, 伊藤茂訳『アイデンティティ』日本経済評論社).
(p108)
 結論として、私たちが関係の専門家から学べることは、コミットメント、とくに長期のコミットメントは、「関わり」を求める人々が他の危険以上に避けるべき落とし穴だということです。人々の関心のスパンは短くなっています。しかし、もっと重要なことは、見通しや計画作りの時間のスパンが短縮していることです。未来というものは常に不確かなものですが、その気まぐれや蒸発しやすさが、「フレキシブルな」労働、脆弱な人間の絆、変わりやすい気分、浮遊する脅威、とどまることのないカメレオンのような危険の進展といった、このリキッド・モダンの世界で起こっている事柄ほど、手に負えないと感じられたことは、これまでありませんでした。エマニュエル・レヴィナスが指摘しているように、未来が「絶対的な他者」──つまり、不可解で、理解が困難で、結局のところ人間には制御不能──であると、これほど強く感じられたことはなかったのです。


◆天田城介, 2004, 『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
(pp197-198)
 老い衰えゆく当事者の〈傷つきやすさvulnerable〉とは―レヴィナスの指摘するように―、「他者の苦痛に対する苦痛、他者の悲惨とその切迫を感じないでいることができないということ」であり、そこにこそ「選択以前の応答(response)、そういう他者の苦しみに苦しむわたしの〈傷つきやすさ〉のなかに、〈責任〉(responsibility)というものの根がある」(鷲田 1999:153)。あるいは「自分が乱れうること、じぶんをほどくということが、ほんとうの自由だとしたら、そういう自由を他者の存在の〈弱さ〉が劈いてくれる」(鷲田 2001:195/傍点引用者)のである。〈自由〉とは、〈弱さ〉によって劈開されるものであり、自己と他者の〈あいだ〉によってこそ構成されるものなのである。
 私たちは、老い衰えゆく当事者という〈他者〉が被ってきた暴力性を捨象/忘却してきたという事実によって、あるいはケア労働者や家族介護者や高齢夫婦が曝されている暴力性を忘却/隠蔽してきたという立場によって立ってきたという事実によって、私たちのアイデンティティは中断・撹乱させられることになり、また自らのアイデンティティを脱臼=転位させつつ他者の「呼びかけ」に「応答」する地平へと誘われることになるのだ。
 したがって、〈ケアの可能性〉とは、「応答可能性としての主体」どうしの〈あいだ〉において、すなわち老い衰えゆく身体を生きる当事者と、老い衰えゆく身体を生きる当事者を介護するケア労働者との相互の「呼びかけ」の声によって現実化するのである。その意味では、当然ながら「痴呆性高齢者」と名づけられた老い衰えゆく当事者は「応答可能性としての主体」でもあって、介護提供者(ケア労働者+家族成員)の「呼びかけ」に応答する主体なのである。こうして忘却された老い衰えゆく当事者の現前に曝されることよって、あるいは私たちが老い衰えゆく当事者を忘却してきたという明白な事実によって、私たちは自らのアイデンティティを脱臼=転移することになるのだ。
(pp341-342)
 以上のような意味で、根源的な偶有性とは、「なぜ私はこのように生きなければならないのか?」であり、「なぜ私は死ななければならないのか?」でもあるのだが、いずれにしても人間はその本質として、徹底的に受動的・受苦的(vulnerable)な存在である。その意味で、生きる者とは《受難者》の別名であると言ってもよい。ここで私たちは老い衰えゆく当事者や精神障害をもつ当事者たちを想起せずにはいられないだろう―いみじくも吉田が「人間は単に能動的・主体的な存在でなく受動的・受苦的存在であり,ティピカルな『精神病』者は受動的・受苦的存在としての人間なのです」と喝破したように(吉田 1983:96)、人間とは徹底的に、本源的に受動的・受苦的な存在である。私たちは誰しも「私が生まれてきた理由・根拠」も「私が生きている理由・根拠」も「私が病気になった理由・根拠」も「私が死にゆく理由・根拠」についても回答を与えることなどできないのだから。そうした根源的な受動性に対して私たちは徹底して無力であるのだ。
 だからこそ、この根源的受動性にこそ、自己と他者の受動性と能動性を転調させるような契機が孕むのだと大澤は指摘する(大澤 2003b)。
 最初に、大澤はレヴィナスとアガンベンを引きながら、中村哲やマフマルバフがアフガンの犠牲者や崩壊する仏像に感受せざるを得なかった羞恥、そしてアウシュヴィッツを経験したレーヴィがロシア軍の到着の瞬間に覚えた羞恥の由来を解読している。こうした羞恥は、レヴィナスが洞察したように、モラリスティックな罪の意識とは全く反対であり、「われわれの存在が自己自身との繋がりを絶つことができないという不可能性、われわれの絶対的な無力にもとづく感情である」、と。もう少し丁寧に説明をすれば、アガンベンが論及したように、私たちが恥じ入るのは「われわれ自身の存在が、引き受けることができないもの(逃れたいもの)として引き渡されている(逃れられない)からである」、と。
 つまり、「私が恥ずかしさを覚えるときには、まず、それは私自身である、と言うほかないような内密なものが暴かれ、現前している。たとえば、この裸は私自身である。と、同時に、―それは私にとって徹底的に奥深く内密なものであるにもかかわらず―私はそれを引き受けることができないとも直感している。つまり、私にとって徹底的に内密である当のものが、究極の疎遠性を払拭できないものとして私に対して立ちはだかっているのだ。このとき、私は恥ずかしい」(大澤 2003b:214-215)のである。
 私は存在を引き渡され、与えられているという意味で、受動的である。が、この受動性それ自体を能動的に措定する。ところが、私はそれを引き受けることができない。というのも、私の存在を与えるところのもの、私の存在を受動性として構成するところのものは、私の能動的な規定には完全に従わず、疎遠性・他者性を解消できない。それゆえ、「恥ずかしさとは、私の受動性そのものを私が能動的に構成するという循環の中に乱調が、つまり他者性が決して還元し得ない形で刻印されていることから生じる感情なのである」(大澤 2003b:215)。だから、「恥ずかしさがかかわっているのは、結局、間に他者性を挟んだ自己触発の構成」(大澤 2003b:215)なのであって、「他者を対象とする受動性そのものを、その他者が能動的に構成しているからである。私が、その他者を端的に攻撃したり、抹殺したりすることができないのは、私自身が、その循環の中に組み込まれてしまうからである。つまり、その他者を受動性として構成する能動的な対項の位置に、私自身が―他者の能動的な措定によって―おかれるのである。こうして、私は、他者の存在を絶対の前提とする循環の中に位置を確保するしかなく、他者を否定したり、排除したりすることはできなくなる」(大澤 2003:218)。
 こうした「受動性=能動性の不均衡を孕んだ乱調」によって「二重の能動性=受動性が絡み合うような関係が構築」してきたからこそ「羞恥」感受せずにはいられなかったのである。そして、大澤はこうした「受動性=能動性の不均衡を孕んだ乱調」に「社会哲学の三幅対の閉塞」を超えた実践への希望を読み取るのである。


◆向後剛, 2004, 「モダニティと暴力――ジグムント・バウマンのホロコースト論」《現代社会理論研究》14:1-13.
(pp7-8)
 バウマンは、ブーバーやレヴィナスら神学者、哲学者の議論に依拠して、道徳の契機が「前社会的な衝動」としてあることを強調する。道徳は「他者に向けられてあること(Being for the Other)」に基礎を持ち、これはあらゆる社会的編成に先行する。モダニティの社会では人間に本来的な偶発性やアンビヴァレンスは、合理的秩序の安定性を阻害する要因であった。合理的行為主体にとって「他者」とはなによりもまず主体の自由を拘束する要因として扱われた。「行為主体の課題とは、他者がもはや問題ではなくなり、考慮の対象から外してもよい状況を確保することである」(Bauman [1989 2000:180])。これは技術的に解決されるべき課題として解釈される。それゆえ、主体が他者を評価する基準は、技術的なものであって道徳的なものではなくなる。バウマン=レヴィナスは、このような行為主体と他者との関係の捉え方を転倒する。匿名の人々によって構成される「社会」ではなく、「私」が単独の存在として「顔としての他者(the Other as a face)」と向き合う根源的な道徳の場(the primal scene of morality)が想定される。そこでは「私」は「他者」に対する無条件の道徳的責任(moral responsibility)を負っており、そのことは「私」の知識や意図に先行している。これはどういうことか。根源的道徳の場において「顔としての他者」は「私」に責任を担うことを要求しているのだが、その要求は社会的な権威によって裏付けられるのではないし、契約的な手続きを介して提示されるのでもない。「顔としての他者」は無力な存在として目の前に存在する。無力な存在としての「他者」に直面することは、「私」に自分の力や行動の可能性を認識させる。そのとき「私」は「他者」に応答するという選択を行うことができるし、同時にその要求を無視することも可能である。このような状態に「私」がおかれていることは、「私」の意志とは関係なく、「私」が「他者」とともに存在しているという実存的な条件から発生したものである。「私」が「他者」に道徳的責任を負っているというのはこのような事態、つまり「私」が「他者」に応答できる状況にあることを指している。バウマンによれば道徳的責任は、「契約的な義務(contractual obligation)」とちょうど対照的なものである(Bauman [1998:18])。われわれが通常「責任」という言葉で思い浮かべるものは後者に近い。契約は当事者が行うべき行為を明確に定めている。「私」の行為は契約の相手の行為と比較可能であり、両者は双務的な関係にある。「私」は報酬や制裁の可能性と引き替えに責任を引き受けながら、権利に基づいて自らの利益を主張し、どのような行為が望ましいのかを外的なコードや相手の出方に照らし合わせて判断する。契約的な義務という責任は、自立的で合理的な主体、強い主体の間で成立する。道徳的責任は無力な存在に向き合うことから生じる。道徳的責任は相互性とは無関係であり、外的、超越的な力やコードに依存しない。「私」と「他者」の関係は透明で平等な関係ではない。「他者」が「私」に何をしてくれるのかに関係なく、「私」は一方的に「他者」に対する応答可能性を引き受けている。「私」は「他者」の声を聞くことができる。だが、どのような応答が求められているのか、何が正しい応答であるのかを確信を持って知ることはできない。道徳にはこうした不条理やあいまいさが内在している。しかし、この不条理やあいまいさは、契約や規範や利害得失の計算に従って行為することでは得られない自律的なふるまいの可能性を「私」に与えていると考えることもできる。
 道徳に本来的なあいまいさを解消するために近代の道徳は、法のパターンにしたがって思考されてきた。人が道徳的であろうとすることは、予め定められた社会的規範や法に従うことと同一視されてきた。それゆえ近代の道徳観念には全体化、同質化への志向性が埋め込まれてきたといえる。バウマンは「社会」という全体性からの自律の可能性を、「前社会的」な「衝動」としてある倫理・道徳が持つアンビヴァレンスの中に求める。レヴィナスの「顔としての他者」という概念に依りながら、バウマンは「他者」を客体化、距離化する力に対して「他者」との「近さ(proximity)」を確保しようとするのである。


◆松原洋子・小泉義之編, 20050225, 《生命の臨界――争点としての生命》人文書院.
(p234)
 大まかに分類すると、生-政治を否定的に捉えるのが、フーコー、ヘラー、ヴィルノです。その先駆けとして、ハンナ・アレントをあげることができます。否定的に捉えるけれども、その只中でかろうじて肯定できるものを見いだそうとするのが、アガンベンです。その先駆けとしてはヴァルター・ベンヤミンがあげられますが、エマニュエル・レヴィナスをあげてみることができます。生-政治の定義を変えて自分の間尺に合わせて肯定できるものに作り変えるのが、ネグリとハート、そして、生-政治の否定面も飲み込んで根底的に肯定するのが、ドゥルーズとガタリです。


◆鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(p247)
 〈顔〉の現われは、「わたし」の顔として、あるいは特定の他者の顔として、現われを(わたしの意識の)対象へと約めてしまう、そのような「所有」のまなざしから外されねばならない。「顔は所有に抵抗する」とはふたたびレヴィナスの言葉だが、レヴィナスがそのことで斥けようとしたのは、なによりも、たがいに架橋も還元も不可能なひとの複数の存在を、「われわれ」という、無名の主体の集合態へと解消してゆくような普遍的な思考、中立的な思考であった。つまり彼は、ひとの存在の根源的な多様性を「同」ということによって包囲するappropriation〔占有=併合〕の運動に最後まで抵抗するものとして、〈顔〉の現われを考えていたのであった。〈顔〉は主体ではない。〈顔〉が主体となったとき、それに誘いだされたもうひとつの〈顔〉はその主体の対象となり、そのことで〈外〉としての〈顔〉が主体の内部に強制収容される。多様性を「同」へと併合する論理がそこに始動する。
 そのレヴィナスが、あるいはかのジャコメッティが、終生〈顔〉にこだわりつづけたのは、〈顔〉を包囲しにやってくるあらゆる意味をぎとり、そして、どのような取り込みにも抵抗する〈顔〉の、脆く儚く壊れやすい、つねに〈死〉の可能性に引き渡されたその裸形の現われを、ひとという存在の原型として救いだすこと、そこにしか現在における「書くこと」の、そして「描くこと」の意味はないと信じていたからではなかろうか。


◆加藤秀一, 20061222, 「性的身体ノート――〈男語り〉の不可能性から〈新しい人〉の可能性へ」荻野美穂編《資源としての身体 (身体をめぐるレッスン2)》岩波書店:79-105.
(p100)
ここに照らし出されている、フッサールの「世代性」(Generativitt)とハイデッガーの「性/民族」(Geschlecht)との(さらにはレヴィナスのいわゆる「繁殖性」feconditをも含めた)対質を通じて「性」の帰趨を見きわめるというテーマは、筆者にとっては学説研究的に興味深いだけでなく―根本的にはそれとひとつのことなのだが―息をむほどアクチュアルな意味を持っているように感じられる。なぜならその核心にあるのは、さまざまな「民族主義」と社会生物学的世界観の台頭するこの世界において、生命・人類・種・人種・民族・ネーションといった〈全体性〉の怪物に飲み込まれない個の一回性をいかに肯定的に見出しうるかという問いであるからだ(注5)。


◆杉本学, 200704, 「近接性と距離――バウマン道徳論におけるジンメルの援用をめぐって」《コロキウム》3:81-92.
(pp82-83)
 バウマンの道徳観は、主にレヴィナスの倫理学に依拠したものである。バウマンにとって道徳性とは、レヴィナスのいう〈顔〉としての〈他者〉(the Other as Face)(2)にたいする「責任=応答可能性(response-ability)」にほかならない。
 〈顔〉としての〈他者〉との道徳的な関係は、非対称的で置き換え不可能なものである。すなわち、このとき「私」は他者からの見返りがあるかどうかにかかわらず〈他者〉のためにあるのである。バウマンによれば、この〈他者〉の「ためにある(being for)」という道徳性は、他者たちと「ともにある(being with)」という存在論的次元に先行する。そして、〈顔〉としての〈他者〉との出会いによって、はじめて「私」の自己が――道徳的自己として――構成されるのである。
 このように考えるバウマンにとっては、自己―〈他者〉という二者間の近接性(proximity)が道徳の基本的条件となる。この二者の道徳的関係は「二人の道徳パーティ(moral party of two)」と呼ばれる。しかし、そこに第三者が現れ、二者間の近接性は破壊されることになる。バウマンが「厳密な意味での社会は〈第三者〉とともに始まる」(Bauman[1993:112])と断言しているように、第三者の出現によってはじめて集団あるいは社会なるものが発生する。それはもはや〈顔〉との対面ではなく「仮面」同士の関係であり、道徳ではなく規則が支配する世界である。このように、二者関係と三者関係との相違は、バウマンの道徳論にとって決定的な意味をもっているといえる。そしてまさにこの文脈において、ジンメルが援用されているのである。
(p90)
 ところで、バウマンの道徳論は、デュルケム以来の社会学的道徳論の伝統に対する挑戦ともいえるものである。それゆえであろうか、これまでいくつかの誤解と批判がなされてきた。ここではとくに、ジンメルを引き合いに出してバウマンの道徳観を批判しているM.ユンゲの議論をとりあげてみよう(Junge[2001])。ユンゲは、レヴィナスに依拠したバウマンの道徳論には「相互性(reciprocity)」の概念がないことを指摘する。相互性がない以上、ジンメル的な意味での「社会化」――相互作用によって構成される関係――ではない。相互作用は交換とみなしうるものであるが、バウマンの言う道徳的責任は、一方的な(one-sided)贈与(gift giving)でしかない。返礼(return)の義務がなくては道徳の社会理論にならないというのである。
 そのように指摘するユンゲに対しては、中島道男も批判をしているが(中島[2002])、本稿の観点からも別の批判をすることができる。第1に、レヴィナス=バウマンにとって道徳は責任=応答可能性であった。すなわち、かれらにあっては〈他者〉の〈顔〉に直面することそのものが、自己に対する呼びかけと捉えられているのであり、その意味ではすでに最低限の相互性はあるといえるのではないだろうか。問題は、それが「交換」といえるようなものではないということであろう。たしかに、ジンメルは相互作用が交換と見なしうると述べた。しかしジンメルの「相互作用=交換」概念を、「ギブ・アンドーテイク」の経済的なニュアンスに囚われて理解してはならない。早川洋行が指摘しているように、ジンメル流の「交換理論」は贈与も視野に入れたものである(早川[2003])。


◆立岩真也, 20070901, 「人々の意識の位置 (家族・性・市場 24)」『現代思想』35.
 一方にそんな流れがあるのだが、そんなことでよいだろうか、そんなことだけでよいのだろうかと思う人たちがいる。近い、麗しい親密な関係を言う「ケア倫理」を言う人たちのことが信じられないと思う。それは、どちらかいえば、移民であるとか難民であるとか、少数者のことが気になる人たち、気にしてほしいと思う人たちが思うことである。もちろんケアなどと言う人たちも、そのことはわかっていて、じつはそのような他所の人にも同情的であるから、その人たちにもやさしくせねばならないと思っているから、そのためにも、まずは身近な関係における心性を大切にしようということになる。たぶんそんなことはある。ただ、それで本当に遠くまで及ぶのだろうかとも思われる。
 そうして、その者が私にとってどんな人であろうと客人として迎えねばならないのだ、とか、顔を見てしまったら、などという人がいると、そちらに付きたいと思うことになる。
 しかしすると今度は、そんなことがただの普通の自分にとって可能なのだろうかと、ずいぶんそれは強い要求ではないかと、そんなふうな心性を私はもっているだろうか、人はもつだろうかと心配になりもする。
 近い関係における睦まじい心性を言う人と、もっと厳しい自らへの要請を言う人と、同じではない。しかし、やさしい人はいつの世にもいるから、自分に味方であるらしいものはなんでも使おうということになる。そこで、だいぶ性格が違うであろうケア倫理関係の著作とレヴィナスの著作などか同じところに並んだりすることになる。このような状況が今現在の状況なのだと思う。


*追加:植村要
REV:....20030329 20060830 20080516, 20191114
哲学・政治哲学  ◇Core Ethics? /Core Sociology?  ◇WHO
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