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糸賀 一雄
いとが・かずお
1914/03/29〜1968/09/18
■新着
◆「「障害者福祉の父」施設で強制不妊関与か 10代少女の手術申請」
『京都新聞』2019-03-02
こちらをご覧ください→ https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20190302000026
「近江学園の男性医師が1952年、少女1人に強制不妊手術をするよう申請した記録。学園の文書庫から見つかった
優生保護法(1948〜96年)による強制不妊手術の問題で、障害者福祉の父と呼ばれる糸賀一雄が創設した知的障害児施設「滋賀県立近江学園」(湖南市、当時は大津市)の医師が52年に、10代少女1人の手術を県の審査会に申請していたことが、1日までに分かった。京都新聞の情報公開請求を受け、学園内で申請書などの文書7枚が見つかった。福祉施設側が障害者らの断種に関与した可能性を示す新たな資料だ。
県は「医師個人でなく、近江学園として手術を申請した可能性が高い」としている。52年当時、糸賀は園長を務めていた。
国の統計では滋賀県内で54〜75年に少なくとも282人が手術を強いられたが、52年の記録は存在しない。県は同法関連の公文書の大半を廃棄済みで照合できる資料はなく、手術が実際に行われたかは分からないという。
発見された申請書や健康診断書などによると、申請者は学園の男性園医。52年1月27日に少女を「遺伝性精神薄弱(白痴)」(知的障害の当時の呼称)と診断し、本人や保護者の同意が要らない同法4条による手術の適否を県優生保護審査会に申請していた。手術場所として県内の特定の病院を指定して希望し、少女の戸籍謄本を審査会に提出したという記述があった。
学園によると当時、少女は約2年前に退園して県内の民間障害者施設に入所していた。家庭内や学園、施設の生活状況、遺伝関係を記した身上調査書には、同月11日付で「相違ないことを証明します」とする施設長の署名があった。
文書に医師や施設長の印影はなく、学園は「申請後の控えでは」とみている。精神状態や発病後の状況などの項目もあるが、開示された文書の大半は県の判断で黒塗りとなり、内容は分からない。
手術を申請した医師は故岡崎英彦氏。西日本初の重症心身障害児施設「びわこ学園」の初代園長で、障害者福祉に貢献した人物として知られる。
厚生労働省が昨年、福祉施設などに手術申請書など個人記録の有無を尋ねた全国調査では、学園は「ない又(また)はない可能性が高い」と回答していた。今年1月に情報公開請求を受け、改めて学園内を調べて今回の記録を見つけた。開示は2月25日。
近江学園は「非常に驚いている。まさか園の医師が手術を申請していたとは思わなかった」としている。
【おことわり】当時の公文書には現在使われていない不適切な疾患名や表現がありますが、記録性を重視し、かぎかっこに入れて表記しました。」
※どこも省略のしようがないので全文を引用しました。
◆糸賀 一雄(1914/03/29〜1968/09/18)
◆岡崎 英彦(医師,1922〜1987)
■
◆びわこ学園
◆重症心身障害児施設
◆高谷 清 20050420 『異質の光――糸賀一雄の魂と思想』,大月書店,332p. ISBN-10: 4272360515 ISBN-13: 978-4272360512 2,200+ [amazon] /[kinokuniya] ※
◆糸賀 一雄 20031220 『この子らを世の光に――近江学園二十年の願い』,日本放送出版協会,315p. ISBN-10:4140808365 ISBN-13:978-4140808368 1900+ [amazon]/[kinokuniya] ※ j01. i05
◆糸賀一雄生誕100年記念事業実行委員会研究事業部会 編 20140329 『糸賀一雄生誕100年記念論文集――生きることが光になる』,糸賀一雄生誕100年記念事業実行委員会,350p. 1,500+ ※ j01.
■言及
◆立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05 『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社 ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 [amazon]/[kinokuniya] ※
討議:生の線引きを拒絶し、暴力に線を引く 立岩真也+杉田俊介
杉田「僕は自分がNPOで支援者をやってましたから、小さな制度がいかに大事かということは本当に痛感してきました。そして制度はいかに動かないか、ほんのわずかな一歩、一ミリを刻むことがいかに難しく、ゆえにいかに大事か。そういう現場の困難や折衝、条件闘争の苛酷さをあまり知らない人たちが、抽象的な理念ばかりを主張して――「左翼」や「学生運動崩れ」にそれは多いという気が正直しましたが――現実をなし崩しにしていくことには、強い違和感を覚えていました。ただ一方では、かつての障害者運動などで綱領化されてきたラディカルな理念の力を、日々の中で実感することもありました。そういう理念のラディカリズムが、根本的に現場の疲弊や苦しさを支えてくれているのだ、という感じがあったんです。たとえば青い芝の綱領もそうですが、僕らのような重症児関連のNPOの場合、それこそ糸賀一夫の「この子らを世の光に」とか「重症心身障害児を守る会」の親たちの三原則とかですね。
しかしグローバリゼーション全盛の時代にあって、マジョリティとマイノリティの境界線に落っこちた、構造的には加害者であり同時に被害者のような、マジョリティのようなマイノリティのような、何かができるようなできないような、そうしたキメラ的な存在や身体に立ちながら、そこから出てくる理念性みたいなものも同時に必要ではないか、と思えるわけです。」
立岩「「この子らを世の光に」とか言わんきゃならないのかということです。糸賀一雄はじゅうぶん立派な人だと思いますけど。そして「守る会」の三原則の一番めは「決して争ってはいけない 争いの中に弱いものの生きる場はない」で、二番目は「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」ですよ。それでよいのですかと。その青年やその主張の支持者とも争わないんですか、と。そしてこの原則は、一九六四年にできたその親の会がどういう道を行ったか、行かざるをえなかったかということに深く関わっている。そういったことを明らかにし考えよう、考えてもらおうと思って「病者障害者運動史研究」とか言い(立岩[2016/11/07])、「生の現代のために」という、あまり落ち着きのよくない題の連載をしているということはあります。」
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
□第4章 七〇年体制へ・予描1
□1 短絡しないために
□1 短絡しないために
□2 偉人について、「世の光」について
■2 偉人について、「世の光」について
今あげた短絡とは別の例をあげて、できごとをほぐしていくことから何が見えてくるのか、何が課題として浮上するのかを述べる(以下しばらくの初出は[201701])。杉田俊介との『相模原障害者殺傷事件』(立岩・杉田[2017a]、杉田の章は杉田[2017])第3部での杉田と私の対談での杉田の発言より。
僕は自分がNPOで支援者をやってましたから、小さな制度がいかに大事かということは本当に痛感してきました。そして制度はいかに動かないか、ほんのわずかな一歩、一ミリを刻むことがいかに難しく、ゆえにいかに大事か。そういう現場の困難や折衝、条件闘争の苛酷さをあまり知らない人たちが、抽象的な理念ばかりを主張して――「左翼」や「学生運動崩れ」にそれは多いという気が正直しましたが――現実をなし崩しにしていくことには、強い違和感を覚えていました。ただ一方では、かつての障害者運動などで綱領化されてきたラディカルな理念の力を、日々の中で実感することもありました。そういう理念のラディカリズムが、根本的に現場の疲弊や苦しさを支えてくれているのだ、という感じがあったんです。たとえば青い芝の綱領もそうですが、僕らのような重症児関連のNPOの場合、それこそ糸賀一雄の「この子らを世の光に」とか「重症心身障害児を守る会」の親たちの三原則とかですね。△204
しかしグローバリゼーション全盛の時代にあって、マジョリティとマイノリティの境界線に落っこちた、構造的には加害者であり同時に被害者のような、マジョリティのようなマイノリティのような、何かができるようなできないような、そうしたキメラ的な存在や身体に立ちながら、そこから出てくる理念性みたいなものも同時に必要ではないか、と思えるわけです。(立岩・杉田[2017b:196]、杉田の発言)
それに対してそんなことでよいのかと私は言っている。
「この子らを世の光に」とか言わなきゃならないのかということです。糸賀一雄はじゅうぶん立派な人だと思いますけど。そして「守る会」の三原則の一番めは「決して争ってはいけない 争いの中に弱いものの生きる場はない」で、二番目は「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」ですよ。それでよいのですかと。[…]そしてこの原則は、一九六四年にできたその親の会がどういう道を行ったか、行かざるをえなかったかということに深く関わっている。(立岩・杉田[2017b:198]、立岩の発言)
続けて、そんなことを明らかにしようと「病者障害者運動史研究」などしようとしており([201512][201611])、ここ数年の連載(→本書)も書いていると話した。対談のこの部分のいきさつ、何を言いたいのかは本の「補遺」([201701]、HPに全文掲載)に記した。ただ、事実を書けばわかってもらえることにはならず、もっとはっきり言った方がよいと思うことが多いので、加える。
一つ、「小さな制度」が大切であることはその通りで、そう思って私は仕事をしてきた。一つ、「抽象△205 的な理念ばかり」言う(人たちの)ことについては、抽象的な理念がきちんと言えればそれはそれでよいのだが、そのようなものに(さえ)なっておらず、その不確かな、というより誤った理念による「引き回し」が有害すくなくとも無効であることについて同意する。一つ、それがここで述べることだが、「ラディカルな理念の力」があるという二つについて、その全体をそのまま肯定的に受け取ってよいのかである。例えば七〇年に神奈川の青い芝の会が争った相手は、杉田が並列させている「守る会」、正確にはその神奈川県の組織だった([201701b:64])★01。
研究者なら知識の在庫が問われるとしても、杉田はそれが商売でもないのだから、ここではなにか細かいことを知っていないとものを言うべきではないといったことを言いたいのではない。まず私は、研究と研究によって産出されたという言論・言説の水準が気がかりなのではあり、基本的にこの事件他について私と同じことを言おうしているのだろう杉田の(実際には本を作るに際して加えられた)この部分の発言をとくに問題にしたいのではない。ただ、「理念」を言うのであれば、言葉を捉えるその精度は、「キメラ」だの「グローバリゼーション」だの言う前に、やはり大切だ。
一九六〇年の前後、偉人たちが現われ、その後社会福祉が発展したという物語がある。東京の島田療育園には小林提樹がいた。滋賀のびわこ学園他の創始者として糸賀一雄がいる。その二つの施設は、重症心身障害児――大雑把には知的にも身体的にも重い障害のある子ども(やがて大きくなり、今は高齢者となっている人たちも多い)――施設として先駆的な施設だった。その後、国立療養所が、結核療養者の次のお客として多くのその「重心」の子を受け入れもする。小林は医師だが、糸賀は違う。この人は今でも例外的に知られており、その時代(から)の福祉を語る時の符丁のようなものにされている★02。その人々を尊敬する人たちによって書かれたものもある。ただ、この定番な人たちをあげてなにか歴史を語ったつもりになるのはよくないと思う。人を語り、その人たちが肯定されるべき人たちであるという△206 ことから零れるものがある。それでこの文章も書いており、この人たちを一人ひとり紹介し論ずるつもりはない。ただ少し書いておく。
まず、私は、その人たちは立派であったと思う。その人たちは、その後の人たちのように、本人やその「代理人」の(事前)決定に委ねればよいといったことは言わない。「生命の質」といったことも容易には言わない。その人たちに象徴されるような実践がなかったら、かなりの数の人たちがもっと早くに死んでいただろうと思う。それはよいことであった。そのうえでの話だ。
具体的な検討は一切省いて、二人を二つの「型」としてあげる。悲観的で人道的な人と、人道的で肯定的な人、その二つである。
小林は、「重症者」に対して悲観的ではあったが、それを愛が覆う、というような具合になっていて、力を尽くした。尽力したが悲観的だった。それは、第2節5(243頁)に紹介する白木博といった医学者たちにも言えることを後述する。小林は、生まれたら(生まれてしまったら)救う、それは医師の義務だと言う。ただ、生まれなくすることには賛同している。ではそうしたこと、他を批判すればよいか。とても少ないが、直接小林に対してなされた批判もある★03。私も批判したらよいと思うところはある。優生保護法下の不妊手術について二〇一八年になって提訴があり、にわかに、ようやく、このことがいくらか知られるようになった★04のだが、小林は、そこからそう大きく異なる場所にいるわけではない。しかしそれでも私たちはうしろめたいのだ。つまり、この社会と私たち自身が否定的・悲観的であるという現実感はぬぐえない。である以上、その人たちの捉え方描き方が否定的・悲観的であると、本当に批判できるかと思う。しかも、そのうえで、小林は実践を行なった。他方、そんなたいへんなことはできないと思う私(たち)は何もしていないのだ。
しかしそれでも、悲観的である必要はない。というか、否定的であることができない。それが今年の△207 もう一つの本([201811])で言っていることの一つでもある。歴史と理論はそうして繋がっている。
それに対して糸賀の「この子らを世の光に」という言葉は社会福祉の業界では広く知られている言葉で、「この子らに」ではなく、「この子らを」と言ったところがよいと言われている。重症心身障害児「を」世の光「にする」、重症心身障害児「が」世の光「となる」というのだ。そして相模原での事件の際にも、例えば相模原での事件のすぐ後に組まれたNHKの朝の座談会のような番組で親の会の人がこの言葉を持ち出したことを記憶している。
実際「世の光」であるかもしれない。しかし「この子ら」が「世の光」であると言わねばならないかということである。そんな必要はなく、それを賭けて争うべきではない。相模原での事件についての本で、自らの(その子の)肯定性によって自ら(その子)の生命・生活の正当性を言う必要などないのだと言った人たちのことを紹介し、そちらの側を私は支持すると述べた([201701c:96-99])。
それは現実的なものの言っていき方としては弱いように思える。勢いが出ないではないかというのである。私も、ときには明るいことを言って元気を出すことはよいと思う。ただ、現実的に考えても、肯定的であることは常によいわけではないと考える。
それは、その容疑者のように語ったり感じたりする人たちに、そして自分たちに、どのようにものを言うのかということでもある。例えば、美しい言葉が、この事件、その容疑者に「効く」だろうかということだ。例えばその容疑者(のような人)は、「そのようにあなたが(自分の子を)言いたい気持ちは理解はできるが」「あなたがそう思うあるいはそう言いたいその事実は否定しないが」と言い、「私にはそう思えない」「きれいごとを信じようとしている」と言う。「世の光」と思う人にもさらに言い分はあるだろうが、話は平行線を辿ることになるだろう。だから、かえって、もっと引いたところから「殺すな」と言った方がよいし、実際言った人たちもいる。「光」でもないが、そんなに悲惨でもない。とい△208 うだけのことだ。そしてそれは、道徳感情といったものではなく、まずは事実であるとしか言いようのないことだ★05。
肯定されるものがあることはまったくよいことである。しかし、生きていくこと、それもただ死なない程度に生きていくのでなくもっとのうのうと生きていくために、自らによいものがあることが必要なのでなく、そのことを言い示すことも必要でない。このような態度が作られていって、それは、近い場所にいるが同じではない態度との差異において示された。そして、そのような態度をもって争うこと、そこから引かないことが言われたのでもある。
もう一つ、糸賀、びわこ学園から「発達保障論」が発祥したと言われる。少し事情を知っている人は、私がここで書いているのも、その流れと対立した「共生・共学」「どの子も普通学校へ」という流れがあって、私が基本的に後者を支持してきたことが関わっていると思われるかもしれない。関係がなくはない。いくらかを知っているから書けるということはたしかにある。ただ、そのかつての強い対立とその後の曖昧な変化をなぞろうとは思わない。もう少し正確に考えていく必要があって、それはここでは無理なことだ★06。
ここでは一つだけ。「発達」と「世の光」はまた異なる方向を向いているように思われる。その幅をどう考えるか。「運動」となった発達保障論は、実際のところはたいへん常識的で「科学的」な「発達」を肯定し、それを測定し促そうとする動きとして広がっていった。ただ「重心」の施設にいれば、その普通の発達はそう単純に見い出されるものでなく、また単純に肯定されてよいものとも思われない。糸賀の次の施設長は岡崎英彦(著書に岡崎[1978])、次は高谷清だが、その高谷は、ときに「政治的」な言辞も弄するが、その子どもたちについての記述自体は冷静であり、また私自身はその子ではないので結局はよくわからないが、たぶん当たっているのだろうと思えるものだ★07。その子たちは、容易に判定さ△209 れ測定されるような「普通の意味」での発達から零れるように思われる。糸賀の「横に発達する」という普通には不思議な言葉はこのことに関わる。また、そのように思うことによって、あきらめてしまい見なくなり放置してしまうことがなくなる、その子の微妙な変化や反応に敏感になることがあると言われる。それはわかるようには思う。ただそのことはわかった上でも、さらに発達全般を肯定した上でも、やはり「世の光」も「発達」も言わねばならないわけではない。そのことを言えると考える。
以上はひどく抽象的な議論でもある。ただこの時期こうして――「ホープレス」だが愛によって包む、「光」を見てとる、「発達」を願う、という力によって――張られた空間が、人々の具体的な生活のあり様の範囲を規定したのでもあるからには、立ち止まってみる必要もあるし、また、その時期からだいぶ経った現在であるからこそ可能な部分もあると考える。」(204-210)
*初出
◇立岩 真也 2017/01/01 「『相模原障害者殺傷事件』補遺」 連載・129」,『現代思想』45-1(2017-1):22-33
↓
◇2016/12/27 「杉田俊介「この子らを世の光に」(補遺・10)――「身体の現代」計画補足・285」
◇2016/12/28 「杉田俊介「この子らを世の光に」続(補遺・11)――「身体の現代」計画補足・286」
cf.◇病者障害者運動史研究
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