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自由の平等 簡単で別〇 な姿の世界 立岩真也 20040114 岩波書店,349+41p. \3400+ □第2版(2023) □目次+序章の一部 □あとがき □文献(別頁) □索引(別頁) □書評・紹介等(別頁) □[English] / [Korean] □品切れ→TXT&HTML版販売→http://gum.co/Efkl/[amazon] Tweet ◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p. ISBN:4000233874 3400+ [amazon]/[kinokuniya] ※ ※2014年に第2版刊行予定です(は無理、のようです〜だいぶ、しばらくかかりそうです)。疑問点、加えるべき点、文献など、立岩(TAE01303@nifty.ne.jp)までお知らせください。→2023年、ちくま学芸文庫で刊行予定。 ※初版本は、一つにはテキストファイルで1000円で購入できます→http://gum.co/Efkl(cf.「販売します」)。あるいは[amazon]のマーケットプレース等でお求めください。→テキスト版なんと500円!になってます→なんと300円にしました&HTMLファイルと両方提供。&全額を寄付(20221231)。 ■紹介 ◆立岩 真也 2004/01/00「著者からのメッセージ」,岩波書店のHPhttp://www.iwanami.co.jp 目次 序章 世界の別の顔 1 書かれていること 1 自由による自由の剥奪 2 嫉妬という非難の暗さ 3 存在の肯定が肯定する 2 書かれていること・2 1 価値を問わないという価値を採らない 2 機会の平等を第一に置かない 3 世界にあるものの配置 3 この本では述べないこと 1 分配する最小国家? 2 不足・枯渇という虚言 3 生産の政治の拒否 4 労働の分割 5 生産・生産財の分配 6 持続させ拒んでいるもの 7 国境が制約する 8 分配されないものの/ための分配 第1章 自由による自由の剥奪――批判の批判・1 1 「自由主義」による自由の剥奪 1 自由による自由の剥奪 2 所有の規則はそれを正当化しない 3 妨げられない自由/行なう自由? 4 自然の状態/制度による制約という区別、ではない 2 ゲームから答はでない 1 ゲームにならない 2 結果を正当化できない 3 役に立つことはある 3 迷惑をかけない限り勝手であるという説の検討 1 「自然な感じ」? 2 危害を加えない? 3 身体の自由と所有の自由 4 もっともっともな論 1 帰属・表出 2 努力・苦労 3 寄与・貢献 第2章 嫉妬という非難の暗さ――批判の批判・2 1 つまり羨ましいのだと言われる 1 まじめにとりあうこともないかもしれないが 2 それでも言っておくべきこと=この章の概要 2 批判の批判・2――嫉妬でしかない、について 1 私ができることの否定の限界 2 だが私ができることのよさは自明ではない 3 私とできることをつなげてしまうもの 4 切り離し、私のためにできることがあるとする 5 できることもつことを肯定し分配を肯定する 6 他人ができることはよいことになる 3 さらに言われうることについて 1 他者を低めること?・際限がないこと? 2 固有性・多様性の破壊? 3 むしろ批判は自らを否定する 4 立場 第3章 「根拠」について 1 「根拠」という問い 1 「根拠」という問い 2 人間性を置くことについて 3 答に与えられる条件 2 私の存在と他者の存在 1 私のために、から届く 2 「利他」 3 普遍/権利/強制 1 普遍性・距離 2 権利と義務・強制への同意 3 中途半端さとつきあうこと 第4章 価値を迂回しない 155 1 回避 1 何を置くかという問題の問題 2 人により異なる→効用の平等→安価な/高価な嗜好 3 だから客観的なものを、という解でよいか? 2 回避しない 1 多くを要求する人 2 つつましやかな人 3 総合評価について 4 比べること 5 基準について 第5章 機会の平等のリベラリズムの限界 1 限界 1 答えが開く問い 2 本人/環境の分割という答とその出自 3 支払い失うものがある 4 格差はなくならない 2 代わりに 1 収め所としての結果の平等 2 それは過程・機会が大切であることと矛盾しない 3 そして労働の機会が分配されることが支持される 第6章 世界にあるものの配置 cf.◇名づけ認め分かり語る… 1 それが留まってしまう場所 1 そこに起こっていること 2 決めること・選ぶことという案 2 もっと普通の答 1 もっと普通の答 2 世界にあるものの配置 3 私との関係、から再び社会の解析 >TOP 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子どものように考えてみることが必要だと思う★01。 第1節と第2節でこの本で述べることの概略を記す。第3節で他で少し書いたこと、多くはこれから考えようと思うことを述べる。 >TOP ■■1 書かれていること・1 人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行なう。 まずそのようには言わない主張を検討する。するとそれらは間違っている(第1章・第2章)。 そして、私がただ私であるというだけの存在を望むなら、人が人であるだけで存在していることはよいことだと思うなら、その双方が存在と存在の自由のための分配の規則を支持する(第3章)。 >TOP ■1 自由による自由の剥奪 自由を尊重すると言い、国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入だと批判する人たちがいる。しかしその批判は自らを堀り崩す。同じ根拠から彼らの主張を否定することができる。第1章ではこのことを述べる。 [略] >TOP ■2 嫉妬という非難の暗さ 羨望や嫉妬やルサンチマンといった語を使ってなされる社会的分配に対する非難がある。第2章ではこの種の論を検討する。他の人の不幸を望み喜ぶことが望ましくないことに同意しよう。自らが得られないものの価値を引き下げるのも暗い行いではあろう。しかし社会的分配についてはその批判は当たらない。むしろ怨恨を持ち出して分配を批判する側の方が怨恨の圏域に内属している。 [略] >TOP ■3 存在の肯定が肯定する では必要に応じた分配の積極的な根拠はどこにあるのか。第3章はこの問いを巡って考える。 まず私たちは、確かな根拠、誰もが合意し支持する根拠がなければならないとは考えず、むしろそんなものがなければならないと考えることに錯誤があると考える。ただこのことの確認の上で、何かが社会に実現し継続するのは、それが人々によって支持されるからだろうから、なぜ分配が支持されるのかを見ておくことには意味がある。そして、社会の成員の誰もが得られるという普遍性がどのように言えるのか、同時に、義務として引き受け負担を強制されることに同意するという一見矛盾することがどうして成立するのか、このこともまた説明を要するだろう。 普通に使われる語を使えばひとまず「利己」「利他」と分けることのできる二つの契機があり、この各々から考えることになる。 [略] >TOP ■■2 書かれていること・2 第4章から第6章は自らの論をより明確なものにする試みであるとともに、社会改良派のリベラリズムの考察にあてられる。その立場は、一人一人がよいとするものを尊重しゆえにそれに立ち入らず、自らは無色だと言う。しかしそれは望ましいことでなく、不可能なことでもある。このように言うことと、私たちもまた人々の多様性を尊重すべきだと考えることとは矛盾しない。むしろ私たちの考えでは、存在の多様性を尊重しようとすれば、特定の立場に加担せざるをえないのである。 実際、分配を現実に行うときにはリベラリズムもまた基準を設定している。それは、一律の基準を外から規定しまうのでなければ、個人に帰せられる部分とそうでない部分とを分ける。それは結局は自らの生産物の自己取得という範式に内属している。それを私たちは、基本的には、否定する。 人は欲し、生産し、そして取得する。まず第一のもの、人の欲求・価値がどのように捉えられるのかを検討し、批判し、自らの立場を対置する(第4章)。次に、リベラリズムは、私たちのように単純に生産と取得とを別に考えようとは言わない。生産する能力を等しくすることによって平等の側へ行こうとする。しかしこれはうまくいかないことを説明する(第5章)。そして、世界にあるものの何がその人のもとに置かれるかについて、つまり所有権の付与のあり方について、リベラリズムが間違ってしまうことを言い、別の基準があることを確認する(第6章)。 >TOP ■1 価値を問わないという価値を採らない 一つに一人一人の選好、価値にどう対するか。一方に僅かを得るだけで満足していると語る慎ましい人がおり、他方にどれだけあっても満足しないと言う贅沢な人がいる。とくに前者、より多くを得ている者の傍で自分はこんなものだと僅かしか食べない人がいて、それは辛いし、その状態は不当だろうと他人事ながら思うのだが、そんな人に何が言えるのか。これは、文化相対主義、自民族中心主義、パターナリズムといった言葉も知りながら、また知らなくとも感じながら、援助の場にいる人にとっても大きな問題だ。第4章でこのことを考える。 [略] >TOP ■2 機会の平等を第一に置かない 次に、生産とその能力に関わる部分について。リベラルな社会改良派は「機会の平等」を掲げる。本人が努力してなんとかなる部分については自分で、それ以外の部分にいて社会が担当すると言う。そうして「環境」が皆同じになったら残りの差異は「努力」だけによってもたらされ、同じだけ努力すれば同じになる。ならばよいではないかとも思える。しかしそうか。第5章で考える。 考えてみると、そうはうまくいかない事情があり、その策が常に正当ではないと考えられる理由があることがわかる。そしてこれは基本的な場所のとり方の問題でもある。[…] [略] >TOP ■3 世界にあるものの配置 改良主義的リベラリズムは、結局、作ったもの/与えられたものを、その人に帰されるもの/そうでないものという対に対応させようとする。私たちはそれはおかしいと考える。それは一つに、私が作ったものが私のものであることを認めることができないから、また、私が作り表出するものが私をそのまま示すとする価値を支持できないからである。財のすべてが、またその人の生産した財のすべてがその人の存在に関わるというアニミズムを認めない。むしろ切り離せるものがあることを言う。他方、既にあるもの、自分が作ったものでないものについてもその人のもとに置くべきことがあると考えるなら、リベラリズムの対応のさせ方はこのこととも整合しないからである。 [略] >TOP ■■3 この本では述べないこと >TOP ■1 分配する最小国家? 分配を肯定することは政治の領域が今行なっていること全般を肯定することでなく、今ある「福祉国家」を護持することではない。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行なっているのではない。様々なものに租税から支出がなされる。政治が何をするかしないかにも関わり、またどれだけを供給するかその基準の設定の問題にも関わり、どのように分配を実現するかという方法・機構を巡る問題がある。このことについても十分に議論がなされてきているとは思われない。考えていくと、現在なされていることの大きな部分についてその正当性が疑われることになる。 経済学では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。公共財とは個々人から個別に料金を取れない、そして/あるいは、取るべきでない財とされる。しかし、取れないのか取るべきでないのか、いずれの理由によるのかはっきりしないものもあり、それぞれについても理由が明らかでない場合がある。また取れない場合には技術がそれを変化させる可能性もある。次に取るべきでないと言えるもの、費用を強制的に徴収すべきものがどれだけあるか。国家が租税を使って行うことは、強制的に負担を求めて行うことである。何かがなされてよいことであることと、それが強制されてよいこととは同じでない。このまったく単純で大きな差異が頻繁に無視されている。国家は今行っている少なくない部分から撤退しうるし撤退すべきかもしれない★03。 供給の機構も再考することができる。一つに、税を用いて必要なものを用意し、それを無料で供給するという手段がある。費用を払わなくてすむから個々人の手持ちにかかわらず利用できる。一人一人について測って各々別々に分配する必要がない。しかしこれは利用が膨張するのを防ぐことが難しい。また何に使うかを個々人が決定することができない。税を使える用途は有限だから選択が当然行われることになる。これは何が社会的に供給されるかが政治的に決定されるということであり、何を得て暮らすかは一人一人が決めることだという考え方からは批判されることにもなる。 とすると、現物を給付するのでなく、個人には貨幣が渡り、何を得て暮らすかは個々人が決め、営利・非営利の様々な供給組織から選んで利用するという方法がある。そうなっていなかった一つの理由は供給の独占を維持したい供給側の利害である。また一つに、使途を限定し給付物であると印付け、低く押さえること、抑制がめざされた。そして一つ、生を方向づけることが目指された。これらを批判し、国家は資源を徴収し供給するが、具体的な財の供給からは手を引いた方がよい場面があるとする。そのもっとも簡潔な形態は、世界の財を人数分で割ってしまうことである。ここでは、政府は徴収と割り算と各人の口座への振込をすればその仕事が終わることになる。ただ同じ状態を得ようとしても、その人の身体のあり方やその人が置かれている状況によって必要なものが異なる。また違いがあるからこそ分配が要請される。だから均等割りという単純な方法の全面的な採用は難しい。ただ、考える基点としてこれを置き、どこで均等割りが不可能になるのか、どのように個々の事情に対応すべきかを考えていくことはできる。 そして、分配のために全体を分割し一人一人に対応すべきことと、分配の基準を設定すること、また個々の違いを測定しそれに応じた基準を定めることとは別のことである。第2節の終わりに、基準、上限の設定はやむをえずなされると述べた。このことは、比較したり基準を設定する必要がない場合がありうることを示してもいる。例えば制限しなくても需要がそう膨張することがなければ、予めの「ニーズ」の査定はつねに必要なのではない。その人が必要と思うだけを受け取ること、実際に使った分について費用を支給することも可能であり、実際行われてもいる★04。 所得保障や社会サービスをあり方の再考が促されるだけではない。例えば地域間の格差がある。都会との格差の存在がこの国の「公共事業」の現実性を維持してきた。しかしこのままではよくはないとするとどう考えたらよいか。また国際援助もその多くは事業に対するものであり目的を定めたものだった。また多くは政府や組織を介したもので、直接に個人に渡ることは多くない。そしてその多くは現物の支給だった。もっと直接的な分配の方が望ましいと言えないだろうか。 これらを考えていくと、むしろ政府の行なうべきことは少なくなるはずである。「分配する最小国家」という言葉を使ったことがある。それが本当に望ましいのか。それをこれから考えようと思うが、考える上での一つの準拠点にはなる。 >TOP ■2 不足・枯渇という虚言 とくにこの国で語られるのは、正当性の問題ではなく分配の制約条件、「財政」の問題である。少子化、高齢化で「今のままの福祉」を続けていけば――これらの何がどう問題なのかはよくわからないのだが、けれども、ともかく――財政が破綻すると言う。引き締められるところを引き締めつつ、いっそうよく働かねばならないと言う。攻撃的な人たちだけが攻撃的なのではなく、優しい多くの人に漠然とした不安・悲観がある。 資源が分配を制約するというのは一般的にはその通りだが、しかしここには多くの誤解がある★05。まず、同じものをどのように分割しても総量は同じでしかない。こんなことで間違えるはずはないと思うのだが、例えば家族が無償で行っていることを有償にすることを巡る議論にはこの間違いがある★06。なされてきたことを社会的な負担のもとに置くこと、有償化し、社会化すること自体は負担の総量の増大を意味しない。次に、負担が増える場合にも負担と利得とが相伴って増える。負担という理由だけによって社会的分配への賛否を言うことはできない。これも当然のことである。 足りないものがある地域が世界に広大に存在することは認めよう。またこの国にも足りないものはあり、足りない人は明らかにいる。しかし、さしあたりこの国のような地域に限れば、総量として何かが足りないと言えないとしよう。次に働く人は、少なくともいま多くいて、余っていると言ってよい。このことは、簡単に言い切ってしまえば、失業の存在が示している。そしてその状態は今後もそう変わらない。だから人が足りないということはない。他方、人以外の資源に限界があるのは確かだろう。しかしその制約自体は社会がどんな社会であっても動かせない。私たちは次に、生産の総量の拡大を目的に置かず、あるものを分けることを主張するのだが、それは有限な資源の有効な使用が望ましいのであれば、むしろそれに適った主張である。 >TOP ■3 生産の政治の拒否 放任、自由化策を支持する人たちがおり、他方に公共事業といった策を支持する人たちがいて対立しているのだが、それは基本的な立場を共有しつつ、そのための手段としてどちらがよいのかという争いである。「小さな政府」を主張し、税金を減らし、市場に委ねた方が経済が「活性化」するという議論と、そうではなく「公共投資」の方が有効だという主張、政策とがあった。しかしこれを対立と言えるのか。どちらが「経済」に有効かという観点から議論がなされ、そして実際の政策の選択がなされてきたのだが、いずれが有効なのかという問いはよい問いだろうか。景気が悪くなれば政府が批判され、税金が増えれば野党が議席を増やす。有権者の一人である自らにしても、「政府に期待することは」と世論調査で問われれば「景気対策」と答える一人ではあるのだが、しかし一方でそんなものではないのではないかと思っている。「生産」という場を共有した曖昧な対立があるだけなのだ。環境派からの批判だけではない。こうした対立の中では、自由の主張とされるものは具体的には経済活性化のための政府の縮小という主張なのだが、そんなものを自由と言うのだろうか、そんな疑念を多くの人が抱いている。 だから強制力を用いた経済政策、成長に向けた政策自体が基本的に正当化されうるかを考えることになる。生産は、定義によるが、定義上このましいことではある。ただ、それに伴って費消され排出されるものがあり、なにより、人は働かなければばならない。少なくとも生産と消費の水準が一定に達した地域において、生産とともになされなければならない労働、また世界から失われ世界に排出されるものを考えたとき、全般を一緒に括ったものとしての成長が必要がないと考える人がいるなら、その人にも強制し加担させて生産全般を増やそうとする政策的介入は正当化されない。私たちは自働する資本主義、自動的に膨張する市場という決まり文句を疑ってよい。たしかに売り手は売りたいだろう。しかし買い手がいなければ売れはしない。あらゆる策、正当化されない方法も使われるのだが、人はいま以上はもうそういらなくなっていて、消費への呼びかけに応えなくなっている。そしてこの状況における労働はなお意義を減じ辛いものになる。また、分配が生産の増大に結びつかない場合、増大に結びつく部分が優先されることによって分配が排されることがある。成長をもたらす部門に集中的に労働と財が投下され、たんに生活を維持するための活動が切り詰められることがある(資源の制約や枯渇とは、さきに述べたように絶対的な制約などではなく、この場所から言われることである)。だからその方向に社会を導くことを放棄すべきであるとする★07。 この場所から、私たちは「生−権力」「生−政治」と漠然と呼ばれることもあるものの一部、生産する/しない人口を巡って発せられてきた言説、なされてきた行いを批判し、否定することになる。生への介入は、やはり漠然と、「福祉国家」に結びつけられることがあるのだが、その曖昧に一体化された全体から不要な部分を差し引くことを提案する。 >TOP ■4 労働の分割 ここしばらく分配は消費点での分配としてもっぱら考えられてきた。これまでの議論もまたそのように受け取れとられたかもしれない。しかしそのようでしかありえないのではない。どの場所を問題にするのかは開かれている。この主題についても満足な議論が行なわれてきたように思えない。 人の配置原理としての能力主義と、また市場に生ずる労働への価格の差異とを否定しないとしても、それは雇用・労働の場をそのままにし、その上での租税の徴収とその「再」分配だけが唯一の分配の手段であること、それが最善の方法であることを意味しない。労働市場、雇用に対する介入の正当性について考え、そのあり方を考える必要がある。例えば、労働の分割、ワークシェアリングというアイディア自体はずっと前からあったのだが、見向きもされない時期が長く続き、それがこの状況で、どうもこれしか残らないようだという消極的な理由で導入するしかないとされるのだが、私たちは、消費の場面での分配と別に、あるいは消費の場面での分配と同時に労働の分割・分配が正当化されるかを考え、次に具体的にその機構について考えるべきである。 雇用政策が正当化されるのは、働こうとする側にとっては、第一に分配だけで暮らす人が得られるものの水準が最低限になってしまうからである。第二に、労働・生産の場に参画することのその当人にとっての意義がある。第三に、再分配とその具体的内容は政治的決定に依存することになる。私たちはそれが機械的に作動する機構であるべきことを主張するのではあるが、それでも根本的な不安定性から逃れることはできない。関連して第四に、これまでの論からはその人が市場で得た所得に対する所有権が本来その人にあるのではないのだが、しかし「再」分配の機構からそのように思わせてしまう要素を払拭できないとするなら、利害が対立し分配のための徴収が困難になりうる。ならば生産の場面での所有を分散した方がよく、そこから労働とその対価のあり方も考える必要がある★08。そして最後に、働かせる側にとっては、労働に就かない(就けない)人に所得の保障だけで対応するより、労働を分割し、分配した方が適切である。 この社会は生産・消費の総量を増加させることによって雇用を確保しようとしてきた。しかし、とくにこの社会にあってこの方法はよい方法ではない。生産物が全体として不足しているのではない社会においては、失業があることは、その水準の暮しのためにすべての人が働かなくてよい状態にあるということであり、それは基本的にはまったく喜ばしい状態である。しかしもちろん、失業で暮しが成り立たないのは困る。そこで、労働市場自体はそのままにして対応を別に行なうという答が一つある。つまり失業者には所得保障で対応する。もう一つ、労働の分割、分配がある。前者を肯定するその前提となる分配派の立場に立つなら後者もまた肯定され、その上で右記した理由から政策としてそれを行なう正当性が得られる。 こうして労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう★09。 >TOP ■5 生産・生産財の分配 繰り返すが、分配は消費における分配だけに限られない。いま労働の分配・分割について述べたのだが、これに関連して、生産への関わり方、生産財の所有の編成を考える必要がある。 なぜ生産の場における決定の形態、生産のための財の所有の形態を問題にされてきたのか。一つに生産・労働における自律が目指された。ただ、私たちは(政治の主体であるべきこととともに)経済の主体であるべきことを相対化する視点をもっておいてよい。ともかく消費される財が行き渡るのであればそれでかまわないのかもしれないと、ひとたびは考えてもよいのだ。労働にせよ、生産にせよ、政治にせよ、それらを特別に価値のあるものにせねばならない理由は考えてみればとくにない。それでもなお生産について自らが考え決めたいことはあるだろう。そうした場から生産の運営のあり方、その権限のあり方を考える必要がある★10。 次に、前項に述べた市場と政治的分配の並存という方法を使うときの問題がある。さらに市場における価格をいったんは認めることに関わる厄介さがある。財を分配したとしても、生活に必須なものについて誰かに独占的な権利が認められているから、その独占者はその供給と引き換えに世界の大方を所有することもできるかもしれない。これは特に技術を考えるときそう極端な仮定ではない。生産財の独占をそのままに所得の分配を行っても限界のある場合がある。 いわゆる知的所有権の問題は、その保護の側面だけがもっぱら論じられ主張されるが、動機付けを与える手段として権利の付与、保護を一定認めつつ、生産財、とりわけ規則の設定によっては独占が可能になる技術については、独占されてはならず、その共有が支持される。私たちの立場からは、開発者・生産者による独占的な技術の所有は認められない。例えばエイズは薬をうまく使えばエイズはいま亡くなる病気ではないのだが、世界で一日約八〇〇〇人が死んでいる。問題は薬、薬に関わる技術の所有のあり方である。生産財としての技術の所有のあり方を考えざるをえない。開発者による利益の取得の部分的な許容すなわち部分的な制限を行ってよいし、行った方がよい★11。 例えばこれらのことを考えなければならない。これは生産点の編成、生産財の所有のあり方として何が望ましいのかというまったく古典的な問題である。しかし、ここしばらくはともかく、かつては膨大な量の言説がこの領域についてあったはずであるにもかかわらず、議論が尽くされているように思われない。私たちの世代が三十年ほど怠ってきた経済体制の問題を、もう一度、ただいくらかは以前と異なった視座からも、考えるとよいのだし、その必要を多くの人は感じている★12。 >TOP ■6 持続させ拒んでいるもの こうして見てくると、不要であるようにも思え正当性が疑わしい様々なことが行なわれてしまっているのはなぜか、また事態の変更が容易でないのはなぜか、その理由の検討に促される。もちろんこのことについてもいくらも語られてきたはずなのではある。だがやはりよくはわからない。 負担の総量の増加ではなく、負担と利益の各人への配置が変わることへの抵抗が分配への反対をもたらしている。分配がなされる前に比べ、負担より受け取りが大きくなる人がいるのと同時に受け取りより負担が大きくなる人たちがいる。資源の絶対的な制約というより、この人たちが負担を避けたがっているという単純な事情がまずある。この心性はそれ自体として否定されない(ただ、その同じ人がまた別のことを同時に思っていることがあることも第2節で述べた)。そして、たんに出し惜んでいるだけであることを、あたかもそれ以上のことであるかのように言いなすことを私たちは批判するし、その批判に意味があると考える。そのためにも、何が誰に利益を生じさせていると言えるかを確定する作業が必要になる。いくつかの場合には不当な利益を得ている人たち、不当な不利益を被っている人たちを特定することができるはずなのだが、それは従来漠然と名指されてきた人たちと同じではないことがある。例えば家族が行っていることが「社会化」されないことによって不利益を被っているのは、家族全般でなく、家族の一部であると言えるだろう。また、ある労働市場からある範疇の人たちを排斥することによって利益を得ているのは、排斥する側にいる労働者でもあるだろう。そうした事々を確認していく必要がある★13 そして、人々の利害の布置と別に存在するのではないが、しかしそこからある独立性を有して存在する事態の構造がある。競争と格差とを強化しないとこれからの社会を維持できないという論は基本的には間違いである。しかしそれに現実性があるのは、私たちの社会で行われているゲームの性格による。負けるとすべてを失うゲームに参加させられてしまっているのであれば、そこから降りることができない。生産・成長にどれだけかを、できるだけたくさんを取っておかなければならない、ということになっている。それで未来に利益を生み出さないだろうところ、例えば死んでいくだろう人々にはかけない。そしてこの生産・競争への圧迫が存在することに国境が関係し、国家が分立し国境が存在することが分配に対する大きな制約になっている。 >TOP ■7 国境が制約する 例えば自由を認めるという言い方で技術の独占が支持されることがある。そしてそれはたんに私的な主体によって行なわれているのではなく、そこに国家が介在し、より積極的に保護・育成したり、さらには国家自体がその主体として活動している。それは一つに、国家が国境を接して分立して存在し同時にその間で財や人の移動が存在することに由来する。 国境があり、閉じられながら開いており、開きながら閉じている。分配を制約する要因として残るのが、この半透膜のように機能する国境の存在である。分配は国家を単位としてなされている。そして輸出輸入で財が出入りする。ただ資源や作物のある場所はまずは固定されている。資本は移動可能、人はそれに比べれば少し不自由だが、移動できる、等。移動しようとする人もおり、やむにやまれず移動せざるをえない人もおり、その場にとどまろうとする人たちもまたいる。移動や定住についてもっと事態に即して考えるべきだ。もちろん私たちは人が移動する自由を言うべきである。だが同時に移動は、多くの場合に移動する人、せざるを得ない人たちにとって無償でないこと、望まれないものでもある。移動について生ずる摩擦は人とものとで異なる。グローバリゼーションと呼ばれる事態を、世界全体を均質にしていく自由化の過程と捉えるのは間違っている。いま起こっている事態は摩擦のあり方の異なりのもとで、ときにそれを利用して、進行している。 こうした条件が存在するとき、なくてよい競争に乗らざるをえずそれを止められず、分配が十分に行われない。一つに勝者による利益の独占が認められているなら、国家間の格差を維持しようとする力が働く中で開発、成長が優先されてしまう。競争に乗らざるをえず、開発に予算を重点的に配分し「国際的地位」の確保をはかる。追い越されないよう気にかけ、「国際競争力の維持」のために、「科学技術立国」を目指し、金をかけるところにかけ、かけないところにはかけない。このようにこの国を含む多くの国々ではことは進んでおり、他方こうした場に参入することを最初からほとんどあきらめるしかない国々があり、人々がいる。これらによって分配が困難になる。むろん、ある国では高くつくものを他の国では安く生産できる等々のことは様々に存する。しかし事態を楽観できるとするそれらすべての論点をふまえた上でも、なお基本に問題は残っている。 一つに、国境を移動することにより一方では負担を逃れられること、また一方では分配を求める者がより条件のよい場に移動することが、むろん多くの要因が絡むからことは単純に推移しないのではあるが、分配を困難にする。その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。そして、私たちが論じてきたことの中に分配が国境内に限られることを正当化するものは何もない。現実には内側にいる者たちの労働と分配とを維持するために流入を制限することがなされてきた。だが、とくに貧窮にある人たちのよりよい生活を求める流入についてそれを拒んでよい理由はない。 このように考えるなら「地域」を対置すればよいということにならないのは明らかである。「地方分権」をただ肯定し推進すればよいなどということにならないのは明らかである。採るべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。むろんそれは困難だが、財の流れがしかるべく整序されれば同様の効果をもたらすことはできる。明らかなのは一国的な解決には限界があり、世界同時決定的な動きが要されることである。それはすぐに思うほど荒唐無稽なことではなく、普通に考えれば議論はそこに落ち着くしかないのだし、そこから見たとき、その当然の方向に事態を進めようとしている動き、それに加担しようとする動きはそこここに見出される。 所有のシステムを前提とし、国境を前提とすれば、毎日いたるところで語られている暗く慌ただしい話になる事情はわかる。だが、前提を所与として受け入れるしかないのかを考えればよい。受け入れない方向を基本的には採るべきだと考える★14。 cf.グローバリゼーション:http://www.ritsumei.ac.jp/a../gsce/d/g001.htm >TOP ■8 分配されないもの/のための分配 分配を基本的に否定する立場と別に、問題を分配の問題として語ることに懐疑的な立場がある。問題を分配の問題として語ることが楽観的であると、あるいは現実とその問題を看過していると感じられる。それは一つに、分配だけで問題が解決されると考えているように受け取られることから来るのだろうか。たしかに私はいま、右から左、下から上、上から下に行き渡るもの、AからとってきてBに渡せるもの、渡すべきものについて考えている。それは分配的正義をめぐる議論だ。簡単な問題と難しい問題があって、私は簡単な問題、考えれば解けそうな問題について、分配可能なものをいかに分配するかについて考えようとしている。しかしそんなものしか世の中にはないと言うのではない。分配したり交換したりできないもの、あるいはすべきでないものがある。 例えば、取り返されない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。やはり徴収し分配することができないとされる関係やその関係の中にあるもの、また帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これは別の経路から同時に考えるべき大きな主題群として残される。私もここまで述べてきた簡単な方の仕事を十年か二十年して、それが終わるなら考えてみたいと思う。 ただそれにしても、一つにまったく素朴に利害について考え、そこから何が言えるかをまず言ってみることだろう。例えば差別という行いにはたいてい「いわれのない」という言葉が前に被せられ、それはその通りなのだが、同時にそこに生じているのは一方の側の利益、そして不当な利益の取得であったりもする。また起こっているのは、範疇の区分けに関わって見出された微細な差異に由来する、あるいはそれを理由に発動される、ある「合理性」を有する差別の増幅過程であったりもする。とすればまず、考えるに簡単な側から考えられるだけのことを考えておいてもよいと思う。 そして一番基本的なところに立ち返れば、譲渡したくないものを譲渡せずにすむように、分配が要請される。存在は代替されないし交換されない。存在のための分配、譲渡されないもののための譲渡、交換されない存在のための交換が求められる。だから、両者は独立してもいるが、つながってもいる。楽な方から考えていっても考えていくときっと別のところに出ることになる★15。 >TOP ▽347■あとがき(全文) 「この本は、『思想』に六回に渡って掲載された「自由の平等」[2001-2003]がもとになっている。また第3章は、その第三回の文章に「社会的分配の理由」[2003l]の内容を組み入れ再構成した。二冊目の単著『弱くある自由へ』[2000g]は初出にほとんど手を加えない論文集だったが、今回はかなり手を入れた。しかし、果てしのない作業のように思われたので、ここまでで止めた。 これはこれからしばらくかかるだろう仕事のはじめの部分なのだが、書いてしまった部分についてもいくらもすべき仕事が残っている。このように完成品でない本でも出していこうと思えたのは、『現代社会の理論』(見田[1996])で、著者がその本を何度も書き直し、書き換えていくつもりだと書かれていたのを読んで、そうだと思い、また元気づけられたことにもよる。もし、再考、討議、共同作業を経て、何年か後に増補・改訂を行うことができたらうれしい。 ただまずこの本に記したことの先を考えていくのが当面の主な仕事になる。その予告篇のような部分が序章の第3節で、さらに短くすると序章の終わりに再掲した「21世紀の入り口で」というシリーズの一本として新聞から依頼された原稿[2001a]になる。『思想』掲載の[2000a][2003k]も書き直され、その一部になるだろう。そんなわけで、最初、私は「転位・1」とか「世界の別の姿・▽3481」といった題を考えてみた。だが、それでは意味不明だし、本当に続篇が出るかもわからないのからやめになり、当初の連載の題と同じになった。「自由と平等」でなく「自由の平等」であるところがなんだか間が抜けていてよいと言ってくれた人もいたが、私はそれでも大法螺吹きで恥ずかしいように思った。ただこの題で間違ってはいないし、実際にはまったくおおげさなことを言っているのでもないので、そうなった。副題は当初「世界の分け方の準備」というものだったが、そのような文字を並べ変えて遊んでいるうちに、本題と副題をかけあわせると二通りの文字列が加わるものがあり、またその各々は私が思っていることでもあったので、そうしてもらった。「もう一つの世界は可能だ」といった言葉を時々耳にする。私はその通りに思っている。ただ、まったく別の世界としてそれは現われるのでなく、むしろ多くの人々においては既にそれは存在しているのだと思う。私のする仕事は、その姿を私なりに明確にする仕事だと考えている。 幾人かの人の名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐわかるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っている人に教えてもらえばよいと思った。この本は勤務先の立命館大学の大学院、先端総合学術研究科の講義他で使うことになるだろう。その大学院で私は「公共」という領域にいて――他に「生命」「共生」「表象」という領域があって、それぞれ変わった人たちがいるのだが、「公共」だけをとっても――西川長夫と後藤玲子という何かしらを共有しつつも▽349対照的な二人の狭間で、というかその幅から学びながら、仕事をしていくことになる。多分これからは一人でできる仕事より、共同の作業としてなされるべき部分が増えていくだろう。「学際的」共同研究、研究プロジェクトなどというものがうまくいったためしはまずないのだが、それは一つに、偉くて忙しすぎる方々が集まっても忙しすぎて何もできないことによっていた。そんな方々(ばかり)ではない人たちと、つまり大学院に入院してくる人たちと仕事をしていきたいと思う。本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。とはいえ紙数のこともあってまったく十分なものでない。ホームページ等を利用して情報を追加していく。 文部科学省科学研究費・基盤研究、立命館大学学術フロンティア・プロジェクトの研究助成金を得てこの仕事は行われました。資金提供者の皆さんに感謝します。そして、いつのまにかいつまでも続いてしまった原稿を『思想』に載せていただいた、そしてこの本の編集も担当していただいた、岩波書店編集部の清水愛理さんに感謝します。 二〇〇三年十一月 立岩 真也」 >TOP ■誤りの訂正 20040127掲載開始 ●第2刷での訂正 ★注・序章注1 p.287 (誤)塩野谷他編[2003] (正)塩野谷他編[2004] ★文献表17 (誤)後藤玲子・吉原直樹 (正)後藤玲子・吉原直毅 ★文献表34 (誤)――――― 1998b …… → 立岩[2000e: (正)――――― 1998b …… → 立岩[2000g: ★文献表34 (誤)――――― 1998c …… → 立岩[2000e: (正)――――― 1998c …… → 立岩[2000g: ★文献表34 (誤)――――― 1998e …… → 立岩[2000e: (正)――――― 1998e …… → 立岩[2000g: ★文献表34 (誤)――――― 1999a …… → 立岩[2000e: (正)――――― 1999a …… → 立岩[2000g: ●第3刷での訂正 ★216頁9行 「者を否定しようするとき」→「者を否定しようとするとき」 20040114 1 20040209 2-1 20040414 2-2 20040607 3 20050525 4 20060518 5 2007**** 6 ■著者による言及 ◆立岩 真也 2004/02/28「世界の肯定の仕方」,『文藝別冊 総特集 吉本隆明』,河出書房新社,pp.94-97 ◇立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房 ■ 1000円→500円:($77.75)累計15冊→20221231:300円 UP:20030811 REV:0812,18,19,20,23 0908,09 1015,27 1211,12,17,31 20040101,07,12,14,17 0201(542,552),04(641,676),09(690),10(763),12(803),13(818) 0405 0530 0809 20060331 20070805, 20100515, 20120407, 20130428, 20140204, 0725, 20200103, 20221231
◇English ◇立岩真也 ◇Shin'ya Tateiwa |