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Double Shadows/二重の影 3:映画を運ぶ人々



映画に運ばれて

 映画は、作ることだけでは完結しない。それが受け渡され、上映され、観客によって見られることによって初めて新たな生命が吹き込まれる。そこには時間やお金、人の力さえも必要で、その面倒くささゆえに工夫と発明が編み出され、さまざまな人間の想いが重ねられて、作品は別のものへと変容していく。映画に携わるすべての人々をつなぐ間には、「運ぶ」「運ばれる」という行為が不可欠なものとして存在している。

 特集「二重の影/Double Shadows」では、映画史や映画そのものに焦点をあてたドキュメンタリー作品をこれまでに取り上げてきた。YIDFF 2015、YIDFF 2019に続く今回の特集では、「運ぶ」ことをテーマとして、時として時間や空間を超えて、映画と私たちが出会うことのドラマを描く作品を上映する。

 「運ぶ」ことは、物理的な移動であると同時に感情的な営みでもある。映画を作り、見せること、語り合うことには喜びもあれば悲しみもある。作り手は、いまここで生きているという現実からしか映画を作ることができない。自分の小さな世界とそれをとりまく現実、自分の過去や未来とどう向き合うのか。彼らの情熱は、作品を通して私たちへ流れ込むだろう(『映画砦の仲間たち』)。観客の側もまた、日常的なものとは異なる想像や思考を巡らせることで、他者の存在に対して目と耳を澄ませ、「世界」とのつながりを確認する。私たちは、孤独でありながらも他の多くの見知らぬ人々とともに映画を鑑賞するという集団的な経験をとおして、作品の創造的なプロセスへ至ることになる。スクリーンの上でさまざまな生の行き交う、このような経験の凝縮された空間こそが映画祭ではなかったのか(『若き映画』)。

 物質としてのフィルムを運び、人々を映画館へ動員しなければならなかった時代から、メディアのデジタル化そして配信サービスが一般的なものとなった今日に至るまで、映画が自らの存在をそれ自体で伝えるすべを持たない以上、映画を届け、映画が届けられるプロセスそのものにオリジナルの「作品」を超えた人間的な何かが付け加わってしまうことに変わりはない。映画は運ばれるだけでなく、語られ、伝えられるという点で、本質的に他者を前提とするものなのである。チラシ、ポスター、ロビーカードといった宣材物は、映画を説明しようとするものでありながら、必ずしも作品のすべてを明かしてくれるものではない。こうした「装飾品」からは、期待、失望のみならず、映画史に対する謎さえも生まれるだろう(『快楽機械の設計図』)。あるいはまた、映画に登場するスターの姿には、作品から派生しながらもその枠組みを超えた、観客の欲望が集積する(『イーストウッド』)。その反対に、映画の始まる前に画面に映し出される「WARNING」「CAUTION」といった警句は、とめどなく湧き出る人間の感情をつねに抑制しようとすることになるだろう(『これからご覧いただく映画は』)。

 輸送され、積み上げられたフィルム、ビデオ、DVDは、単なる物質ではない。映画に関わり、映画と関わらざるを得なかった人々の情念がそこには宿っている(『キムズ・ビデオ』)。記憶のアーカイブ――その山の中で遥か遠くの地よりかすかに届く声を聴くことはなかっただろうか。木々の揺らめき、肌を撫でる風に忘れられた生を感じることはなかっただろうか(『声なき証人』『シンシンドゥルンカラッツ』)。「二重の影」と題された特集の試みは、映画と映画史の刻むそれぞれの影、両者の重ね合わされた影を追いながら、どこかで映像に取り憑かれてしまった人間の放つさまざまな光に目を凝らすことにある。映画を運び、映画によって運ばれつつ、歴史を遡る私たちの旅が始まる。

土田環(プログラム・コーディネーター)